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お母さんの目線で

先ほどまで私は京都大学吉田構内の文学部2号館内の教室にて講義を受けておりました。

…と言っても、またもや大学に入り直したという訳ではありません。

文学部のフランス人女性の先生主催のワークショップに、先輩の女性能楽師が講師として参加されたので私も京大宝生会現役達と共に拝聴してきたという訳なのです。

「女性と教育」

というテーマで、先輩楽師はご自分の能楽師として、また母親としての経験を話されました。

その中で、「自分の娘を育てていく過程において、子供の目線から、また子育てをするお母さんの目線から、能楽は子供達のために何が出来るのか、何を求められているのかを考えて来ました」

というお話がありました。

これは「能楽師」であり、「母親」であるという立場で初めて体感できる事です。

これまでの私には無かった視点であり、新鮮に感じました。

無論私は「お母さん」にはなれませんが、「お母さんの目線」を想像して子供向けの能楽教室などに活かしていくのは大切だと思います。

今日の「受講」は大変意義深いものでした。ありがとうございました。

翁、ブログ再開、そして…

2024年の1月が早くも終わろうとしております。

元日から大変な事が起きたので、何かとても長く感じるひと月でした。

個人的には、やはり「翁」を勤めさせていただいたのが最も大きな出来事でした。

そしてこのブログを翁終了後から自然に再開して、なんとか毎日途切れずに続けて来れたのも、自分としては嬉しく思っております。

また小さな事ではありますが、歩く事が増えました。

コロナ禍の時には日々やる事が無くて、主に自宅のある三ノ輪を中心に東京23区の北東部をひたすらに歩きまわっておりましたが、去年あたりから仕事が戻ってきて、また歩く時間が減っていたのです。

それがここ数ヶ月でまた仕事中心の日々に慣れてきたのか、歩く事が多くなりました。

今月は37万歩で、2年ぶりくらいに多い歩数です。

散歩ではなく仕事の行き帰りでの歩数なので、これより増えるのは難しいと思われますが、来月またも歩きを中心にした生活を続けていこうと思っております。

ブログも頑張って更新して参りますので、皆様どうか来月もよろしくお願いいたします。

旧仮名遣いの「旅の友」

私は関西や松本の稽古に行く時には、しばしば「宝生流旅の友」という3冊で宝生流の謡が全曲入っている本を携えていきます。

「旅の友」にも何種類かあって、今よく使っているのは昔に発行された少し小さめのものです。

やはりちょっとでも小さくて軽い方が有り難いです。

百均の化粧ポーチにぴったり入ってしまうのも便利なのです。

この古い「旅の友」、謡の印刷の内容は最近のものと変わらないのですが、無意識に使っていると偶に「あれ?」と戸惑う事があります。

例えば「葵上」という曲、「あ.お.い」なので全曲中で一番最初に載っているはずです。(「翁」は別格で冒頭にあるので、厳密には翁の次の2曲目です)

しかしそこを探しても「葵上」は無くて、「阿漕」が翁の次に載っているのです。

「葵上」は何処だろう…?

と一瞬考えて、そうか”旧仮名遣い”か、と思い至りました。

「あ.ふ.ひ」

かな…と見当をつけて探すとやはり、

「敦盛」と「海人」の間に「葵上」があったのです。

同じ事が「猩々」を探す時にも起こりました。

「昭君」の次…と何時もの癖で探すと無くて、

「ああ、”しやうじやう”か…」

と少し戻って引くと「猩々」があるのです。

ちなみに「正尊」も「しやうそん」なので猩々の次に載っています。

この旧仮名遣いが残っている「旅の友」、いつ頃の発行なのか見てみると…

「昭和7年12月25日初版発行」

とあり、やはり戦前でした。

(ちなみになんとこれは私の父親の誕生日の翌日の日付で驚きました)

第二次大戦を境になくなった旧仮名遣いが、私の普段使いのアイテムの中に残っている訳です。

この貴重な「旅の友」をこれからも大切に使っていこうと思います。

静岡能での「石橋 赤黒」

今日は静岡のグランシップホールでの「静岡能」に出演して参りました。

今回は宝生流では170年ぶりに作られた”小書”である「石橋 赤黒(しゃっこく)」

が演じられ、私は地謡を勤めました。

これまであった小書の「石橋 連獅子」は親子の赤獅子と白獅子が舞いますが、今回の「赤黒」では対立する赤獅子と黒獅子が出てきます。

私は今回初めて拝見したのですが、一畳台の上で2頭の獅子が腕(前足?)をぶつけ合ったり、確かに対立し合っているように見えました。

しかし2頭は最後には互いの立場を認め合う、という演出で、これは昨今の世界情勢を考えると非常に深い意味が込められていると感じました。

能楽は室町時代から基本的には変わらないといわれていますが、「赤黒」のような小書は、後世の人が見ると令和時代の日本を知る手掛かりにもなるのかと思われ、大変興味深く思いながら地謡を勤めさせていただきました。

お経のような声明のような

今日は「神保町ひまわり館」での稽古日でした。

以前の田町稽古場であった港勤労福祉会館が閉鎖されたため、神保町ひまわり館に移って田町組の稽古を続けているのです。

しかし今日の稽古場一番乗りは、田町組の人ではありませんでした。

「こんばんは、お久しぶりです。どうかよろしくお願いいたします」

と言って合掌した彼は、以前に「永平寺の修行僧」という題名でブログに書いた、京大宝生会の若手OBのT君です。

永平寺の修行を終えてから、山形県新庄にある実家の大きなお寺で僧侶として頑張っているそうです。

実はお寺の仕事で度々東京に来ているそうで、去年くらいから予定が合う時には神保町稽古場に来てくれているのです。

T君「野守の仕舞をよろしくお願いいたします」

彼は今、実家のお寺に辰巳大二郎さんを招いてそちらでも稽古をしています。

「野守」は大二郎さんに一通り習ったとの事でしたので、舞って見せてもらいました。

すると…

「東方降三世明王…」というシテ謡まできたところで、私はある事に気がつきました。

このシテ謡は節が長くのびて、

「とお〜ぼ〜お〜〜お〜〜〜〜〜〜」

という風に謡います。

それが非常に「お経」っぽく聴こえるのです。

去年T君が神保町稽古場に初めて来た時にも、久しぶりに彼の謡を聴いて、

「お経の要素が加わって、謡に深みが出たなあ」

と感じました。

しかし今回の「野守」では、長くのばす節がまるで「声明」のようにも聴こえて、何か有り難いものを拝聴しているような気分になり、思わず合掌したくなりました。。

この「野守」の仕舞は、来たる3月9日、10日に宝生能楽堂にて開催予定の「澤風会郁雲会」で披露されますので、ご期待くださいませ。

翁堂の翁最中

能「翁」の披きの時には、内祝として楽師や関係者の皆様にお寿司やお菓子などを差し上げる事が多いです。

私も今回の翁で内祝の品を色々と探してみました。

松本稽古場の近くに「翁堂」という老舗お菓子屋さんがあるのは以前から知っており、何か良いお菓子があればと稽古の行きがけに立ち寄ってみたのです。

すると、その名も「翁最中」という翁の能面を象ったお菓子があるではありませんか!

その場で一つ購入して味見したところ、これが非常に美味しかったのです。

迷わずに大量注文して、先日の能「翁」の前日に宝生能楽堂に届いたのがこちらです。

中には翁最中が6個入っております。

翁のお顔はこんな感じ。

この翁最中を、今回は合計500個頼みました。

笑い話なのですが、松本から今回の私の翁を見に来てくださった方が、私への手土産に「翁最中」が良いと思い、年明けに翁堂に買いにいらしたそうなのです。

「翁最中ください」

「申し訳ございません、翁最中の大量注文が入って、当分品切れなのです」

…ごめんなさいそれは私のせいです。

この翁最中、食べる時にちょっと驚く事があります。

最中を割ってみると…

中はなんと緑色の抹茶餡なのです。

楽屋で、ある偉い先生に翁最中をお渡しする時に「中が緑色なのでびっくりなさらないでください」

と申し上げたところ、

「翁は宇宙人という説もあるそうなので、血が緑色なのかもしれませんね」

と言われて逆にびっくりしました。

翁堂の方は、「翁宇宙人説」に則って餡を緑色にしたのでしょうか…⁇

ともかく、翁最中は楽屋でとても好評で、皆様に喜んでいただき嬉しく思いました。

ちなみに翁堂は和菓子だけでなく、こんな洋菓子も並んでいました。

狸やフクロウ、パンダなどの動物ケーキです。

こちらもとても美味しそうで、次回は是非購入してみようと思いました。

松本城からすぐ近くの「翁堂」。皆様も松本にお越しの際は是非おすすめいたします。

能「熊野」の道行その2

能「熊野」の宗盛邸から清水寺への道行、後半は松原橋を渡ったところからスタートです。

橋を渡って少し歩くと、六波羅のあたりに「地蔵堂」がありました。

ここは弘法大師が自作のお地蔵様を納めたという「子育地蔵尊」の御堂です。

この辺りが現世と冥界の境である「六道之辻」であり、お盆に帰る精霊は必ずここを通ったと言われているそうです。

更に清水寺方面に目を移すと…

「清水薬局」や「六波羅飯店」の看板が見えました。

こういう地域性あふれるネーミングは何か嬉しくなってしまいます。

しかも六波羅飯店には…

名物「六波羅丼」が…!

写真を見た限りでは、中華丼の豚肉を鳥唐揚げに変えた丼のように見えますが…

その日は満腹だったので、実食しての確認はまたの機会に。

この辺りから東山に向かって、松原通は徐々に登り坂がきつくなっていきます。

その坂の途中にはインパクトのあるお寺が。

大迫力の閻魔大王様の像で有名な「六道珍皇寺」です。

またこのお寺の境内には、なんと冥界に通じているという井戸があります。

拝観者は井戸の近くには行けず、建物の格子戸越しに遠く拝見いたしました。

この井戸を使って、小野篁が冥土に通って閻魔大王様に仕えていたとか。

六道珍皇寺を過ぎると程なく東山通を渡り、「清水道」へと入っていきます。

東山通から先は急に人が増えました。

歩くのにちょっと苦労する感じです。

そして聞こえてくる会話はほとんどが外国語でした。

こちらは聖徳太子ゆかりの「経書堂」です。

ちなみにこの写真の中に日本人は何人いるでしょうか?

答えは0人です。

この界隈では、和服を着ている人はほぼ全員が外国人で、洋服を着ている人の1割くらいが日本人というように見えました。

まわりは寺院や着物の人で溢れているのに、外国語ばかりが飛び交って、まるで異世界を旅しているような実に奇妙な気分です。

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そして遂に最終目的地「清水寺」に到着いたしました。門前は外国人観光客で溢れています。

あとは「熊野」の当時にはこの辺にあったという「子安の塔」の跡の碑を確認すれば道行は終わりです。

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しかしその碑が中々見つかりません…。

しばしうろうろして探すと、

建物の影にひっそりと立つ石碑をようやく見つけました。

周りの外国人観光客達は清水寺をバックに、華やかな自撮り写真や自撮り動画を撮影していましたが、私だけがこの目立たない石碑を興奮気味に撮影してちょっと怪訝な目で見られてしまったのでした。。

しかし、真冬の閑散期の月曜日にしてこの混みようです。

もし熊野の一行が、現代の桜が満開の時期に牛車でここを訪れていたとしたら…

おそらく清水寺に到達するのは全く不可能で、熊野はますます不機嫌になってしまった事でしょう。。

能「熊野」の道行その1

昨日の大山崎新年会の後、夕方まで少し時間が空きました。

そこで京都市内でかねてから歩きたいと思っていたコースを散策する事にいたしました。

能「熊野」で平宗盛と熊野の一行が牛車に乗って”宗盛邸”から”清水寺”に向かった道行コースです。

平宗盛邸は、現在の京都駅八条口の少し東側にあったようです。

おそらく下の写真の辺り、「竹田街道八条」の交差点付近だと思われます。

頭上には新幹線、近くには「変なホテル」などが見えます。

この地点から清水寺への道行をスタートしました。

JR在来線の陸橋を北に渡ると、行列のできるラーメン屋「第一旭」「新福菜館」の本店が並んでいる横を通過します。

月曜午後なのに今日もやはり行列が。。

京都タワーもチラッと見えました。

そのまま道なりに北上すると…

「渉成園」に突き当たりました。

能「融」で、シテ源融が庭に陸奥塩竈の景色を再現したという「六条河原院」があった所です。

しかし融大臣の没年は895年、平宗盛が1185年没なので、300年もの隔たりがあります。

「熊野」の頃にはこの場所も名所旧跡のひとつとなっていたのでしょう。

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更に北上すると、現在の「五条大橋」があり、能「橋弁慶」の弁慶と牛若丸の戦いの像なども立っています。

しかし実はこの現在の「五条通」は豊臣秀吉が作ったもので、熊野の頃には現在の「松原通」が五条通だったのです。

その元々は五条大橋であった「松原橋」がこちらです。

だいぶ小さな橋ですが、この橋を熊野一行が渡ったはずです。

松原橋から北を望むと、遠くに四条大橋が見えました。

♪四条五条の橋の上〜と小声で口ずさみながら、河原おもてを過ぎて六波羅方面へと進んでいきます。

この辺までは人も少な目で快適な散歩コースでした。

六波羅〜清水寺まではまた明日に。

大山崎澤寳会の新年会

今日は大山崎稽古場の稽古始めでした。

稽古は朝9時半〜11時まで。その後に日本料理屋さんに移動して、私と会員さん3人で小さな新年会をいたしました。

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大山崎稽古場は私が一番最初に稽古を始めた思い出深い場所です。

当時はまだ「澤風会」の名前も無く、大山崎の「宝寺」で稽古を始めたので「大山崎澤寳会」という会名がついて、この名称は現在も使われております。

今年12月には稽古開始から20周年を迎えます。

最初期のメンバーの10人ほどの方々は全員が「大山崎ふるさとガイドの会」に所属しておられて、京都近郊の謡曲史蹟を色々と案内してもらいました。

鞍馬山や三井寺、嵯峨野に石山寺などなど…

どれも思い出に残る楽しいウォーキングでした。

その大山崎稽古場も、20年を経た現在では3人の会員さんで稽古を続けております。

今日の新年会の席で、澤風会最高齢の会員さんが「今年は何とかして新しい人を入れて、稽古場を続けていきたい」と何度も仰いました。

確かにこの数年はコロナ禍の影響もありますが、新しい人を勧誘するような活動は全くできておりませんでした。

新年会の美味しいお料理をいただきながら、

「来月までにチラシを作ってみましょう」

「地域のイベントに参加させてもらえないだろうか」

「京大の学生にも手伝ってもらって…」

などなど、”新歓活動”のアイデアを色々と出し合いました。

…と言う訳で今年の”大山崎澤寳会”の新年の目標は、「10月の澤風会京都大会までに2人は新しい人を入れる」という事になりました。

これから春の新年度などに向けて、新人勧誘の方法を模索して参りたいと思います。

藤栄の立衆

昨日の「宝生会定期公演」にて鶴田航己君が能「藤栄」の立衆を勤めました。

早くも先週の「千歳」に続いてのツレの役です。

実はこの「藤栄の立衆」という役はちょっと特殊な役なのです。

胴着を着て楽屋に降りるとたいてい先輩に、

「お、今日は何の役?」

と聞かれます。

立衆「藤栄の立衆です」

すると…

先輩「そうかぁ。ちゃんと声出ししておいた?

のど飴あげようか?」

立衆「いえ…」

先輩「開場前に舞台を歩いてみた?」

立衆「いやぁ…舞台には入らないので…」

そうなのです。

「藤栄の立衆」は謡が一句も無く、橋掛に出てちょっと止まるとすぐに切戸に直行して退場するという珍しい役なのです。

先輩方はそれをわかっていて立衆の後輩をイジっている訳です。

謡が無くて舞台にも入らないツレはこの役くらいだと思います。

とは言っても、この役でも注意するべき点はあります。

藤栄立衆は5〜6人いるので、橋掛で立ち並ぶ時にうまく等間隔で並ぶのが意外に難しいのです。

事前に一人一人の立ち位置を細かく決めて、また見る方向も同じになるように目印を調整します。

この作業は、将来のもっと難しいツレである「安宅の同行山伏」や、「七人猩々のツレ」の時などに役立つのです。

やはりどんな役でもきちんと勤め上げるのは大変な事なのです。

とは言え、藤栄立衆は役が終わって楽屋に戻って来ると…

先輩「お帰り〜!立衆大変だったねお疲れ様‼︎」

立衆「いやぁ…あまり疲れてないっす…」

などと言って、何か申し訳無さそうに自分が脱いだ装束の片付けをいそいそと始めたりするのでした。