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藤戸雑感

昨日の五雲会では、能「藤戸」の地謡を勤めました。

この藤戸という曲。ワキの佐々木盛綱は、戦功を立てたいが為に罪の無い漁師を自らの手で殺害し、その母親に向かって「これは前世の報いなのだから恨むなよ」と言ってのけます。

現代の私にはこの「武士の理論」は到底理解出来ません。

しかし、前シテである漁師の母親と、後シテである漁師その人に焦点を当てて考えると、また違った見方が出来そうです。

この母子を「理不尽な力で人生を翻弄された名も無い人々」と私は見てみます。

すると、現代においてもこの曲と同じように、世界中が「理不尽な力」とそれに「翻弄される人々」で溢れているように思えて来るのです。

そしてこの900年近く前の名も無い母子を襲った悲劇を、能楽は目の前の舞台で体感させてくれます。

前シテ母親はクセのクライマックスで、盛綱に向かって自分も子供と同じように殺せ!と走り寄ります。その瞬間の迸るような悲しみ。

後シテ漁師の、胸を二度も刺される瞬間の痛み、暗い海底に沈み漂う無念と苦しみ。

この能は観る人に直接の救いを与えてはくれません。しかし「はるか昔の先祖達にも、このような悲しみや苦しみがあった」と確かに思えることで、現代の我々が悲しみや苦しみに耐える為の「生きる力」のようなものが得られる気がするのです。

そしてこの母子は、「藤戸」という曲に封じ込められたことで、千年先の人々をも「生かす」ことが出来る存在になったのだとも思います。

先日千葉の中学生達にも話したのですが、このように先人達の喜怒哀楽を曲に封じ込め、後世の人々がそれを追体験出来るということが、能楽の凄さ、素晴らしさなのだと私は思うのです。

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半蔀の旧蹟を訪ねて  後編

「五条辺りの夕顔の宿」を後にして、紫野にある雲林院を目指しました。

堺町通りを少しだけ南下して、松原通りを東に歩きます。

松原通りは元々の五条大路でした。

牛若丸と弁慶が出会ったのも松原通りに掛かっていた「旧五条大橋」の上なのです。

他にも「鉄輪の井戸」や「藤原俊成屋敷跡」など、松原通り周辺には能に関わる見所が多いのですが、今回はスルーして河原町通に直行。

河原町通から市バス205系統北行きに乗って、京都北山は紫野方面に向かいました。

40分ほど乗って、「大徳寺前」バス停で降ります。

大徳寺前交差点をほんの少し南下した東側に、こぢんまりした現在の「雲林院」がありました。境内は30m四方位でしょうか。

しかしこれは江戸時代に建てられたもので、雲林院は昔はもっと広大なお寺でした。鎌倉時代に大徳寺が出来るまでは、250m×300m位の敷地があったようです。

それにしても能「半蔀」のワキが「雲林院の僧」であり、前半の舞台が五条辺りではなく、雲林院のある紫野辺りなのは何故なのでしょうか。

それは、そもそも源氏物語の作者である「紫式部」がこの紫野の雲林院辺りの生まれだったからだと思われます。

紫式部の「紫」の字は「紫野」からとったそうです。

上に写真を載せた雲林院縁起の看板に、紫式部の墓所が雲林院の近くにあると書いてありました。

これは行ってみなければ!

雲林院から歩いて数分、堀川通沿いの島津製作所紫野工場のすぐ北隣に、「紫式部墓所」の碑がありました。碑に被さるように、小さく可憐な薄紫色の花が咲いています。

これはもしかして…

やはりムラサキシキブの花でした!秋に生る鮮やかな紫色の果実が馴染み深いですが、花が咲くのはちょうど6月の今頃だったのです。

ムラサキシキブの開花に合わせて紫式部の墓参をするのも、また不思議な縁だと思いました。

お墓そのものは更に奥にあります。墓所の写真撮影は控えましたが、小野篁の墓所と並んで、築山になったお墓でした。

今度は夕顔の墳と違って、墓所を前にしてきちんと長い時間をかけてお参りいたしました。

能「半蔀」の舞台の無事を祈念しつつ、堀川北大路バス停から今度は市バス206系統東行きに乗って、京大稽古に向かったのでした。

半蔀の旧蹟を訪ねて  前編

私は来月7月15日の五雲会で能「半蔀」のシテを勤めます。

今日は夕方からの京大稽古まで時間があったので、「半蔀」に関わる旧蹟を訪ねてみることにしました。

最初の目的地は「五条辺りの夕顔の宿」の跡です。

宿のある四条河原町から、先ずは西に向かい、堺町通りまで来ました。

四条堺町北西角には謎の石像があり、「お気張りやす」と励ましてくれます。

励ましを受けた後信号を渡って、堺町通りを五条方面へ南下開始。

しかし仏光寺通でフランス風(?)町家に突き当たってしまいました。。

少し西に行くと、仏光寺沿いに道が続いていました。更に南下すると…

「夕顔町」にやって来ました。マンション名も夕顔。

バケツも夕顔。

消火器も夕顔。そばには何故か朝顔ですが…。

只ならぬ「夕顔愛」を感じます。そして…

道端に「夕顔の墳」の石碑が。「夕顔の墳」そのものはこちらの民家の庭にあり、見る事は出来ません。庭の外から手を合わせました。

…しかし、思えばフィクションである「源氏物語」の登場人物である「夕顔」さんにお墓があるというのは不思議な話です。

これはやはり「源氏物語  夕顔の巻」が如何に人気があり、「夕顔」その人も如何に人々に愛されているかの印であると思われます。

何せ町名にしてしまうほどなのです。

しばらくの間「五条辺りの夕顔の宿」の風情を体感した後、今度は紫野にある雲林院を目指しました。

雲林院のお話は後編で。

満次郎先生の舞囃子稽古

昨日は香里能楽堂にて、全宝連東京大会に出す京大宝生会の舞囃子「高砂」と「班女」を辰巳満次郎先生に稽古していただきました。

超御多忙なスケジュールの中、学生にも熱い稽古をつけてくださる満次郎先生。

京大宝生会が到着した時には、舞台では神戸大学宝生会が熱い稽古の最中でした。

昨年復活して、今年もめでたく新入生を迎えた神戸大学。東京大会での舞台が楽しみです。

そして京大の稽古になりました。

満次郎先生の稽古は、皆本番と同様か、むしろ本番以上の緊張感で臨みます。

私もまた同じように緊張いたします。何しろ学生は、もしかすると一生に一度かもしれないという覚悟で舞囃子に挑戦するのです。

一通り舞い終えての先生のご注意を、シテは無論のこと地謡も頷きながら食い入るように見聞きしています。

「構えた時の上体はもっと力を抜いて、下に向かって力をグッと入れて」「中ノ舞の笛が吹き出す時の囃子の手を覚えること」と言った様々なご注意をいただき、最後に「大体良いでしょう」というお言葉をいただいて、稽古は無事終わったのでした。

あとは京大で最後の仕上げの稽古をして、全宝連当日の早朝にある申合を迎えるわけです。

この他に仕舞や素謡もあり、学生は授業やバイトの合間を縫って、本番までBOXで毎日稽古することでしょう。

彼らの熱い舞台を是非ご覧いただければと思います。

全国宝生流学生能楽連盟自演会:

6月24日(土)25日(日)  水道橋宝生能楽堂にて両日とも朝10時始曲。

因みに舞囃子は土曜日の12時半〜13時頃からです。

食堂に入れない話

今日はひと際ゆるいお話です。

ここ最近、京都で晩御飯を食べようと行ったお店に何故かことごとく入れない、というお話。

最初は、京都駅近くの「じじばば」というすごい名前のお店でした。稽古が終わってから遅めの時間に行ったので、まあ入れるだろうと思ったらサラリーマンの皆さんで満席でした。

これはまあよくある事で、仕方ないです。

次は一昨日。

京大稽古が23時半過ぎまでかかり、四条河原町の宿近くに着いた時には日がかわっていました。

もう空腹で目が霞みそうです。

しかし私は、四条河原町近くで安くて美味しい晩御飯を、その時間からでも確実に食べられるお店を知っていました。

午前0時開店、朝8時閉店の「深夜食堂」のようなお店で、「夢屋」という名前です。

頼む物まで考えながら店の前に行くと、無情にも「月曜定休」の看板が…。仕方なく晩御飯はチェーン定食屋で簡単に済ませました。

そして昨日。

曲名看板シリーズの撮影も兼ねて、下のお店に行ってみました。敷居の低い大衆居酒屋さんで、私の好きなタイプの非常に気軽なお店です。火曜日は営業しているようです。今度こそは入れるでしょう。

…と思ったら入口が閉まっています。あれあれ?と思って扉をよく見ると…。

なんと!これはさすがに「がーん」とショックを受けてしまいました。

もしや私が食べに行こうと思った為に、店主が骨折したのでは…とまで思いました。

今夜も晩御飯を何処かで食べないといけないのですが、今度は何が起こるのか、こわいような楽しみのような気分です。。

紛らわしい地謡

昨日は京大宝生会現役の稽古でした。

全宝連東京大会の舞台を約2週間後に控え、大変熱のこもった稽古になりました。

先月の関西宝連から仕舞の演目を変える部員が沢山いる為、シテもさる事ながら地謡が苦労することがあります。

謡の中には、非常に似通った言い回しが出てくることがあるのです。

例えば羽衣クセと半蔀クセで「内外の神の御末にて」と「御嶽精進の御声にて」。「みすえにて」と「みこえにて」が紛らわしいのです。

また竹生島と嵐山で「有縁の衆生の諸願を叶え」と「悪業の衆生の苦患を助け」。同じ曲で「国土を鎮め」と「国土を照らし」。

また国栖と嵐山でも、同じ「一足を引っさげ」という文句の後に「東西南北〜」と続くか「悪業の衆生の〜」と続くか等々、キリがありません。

別々の舞台で謡うならばそれ程問題にはならないのですが、これら全部が同じ日にある時には結構大変です。

しかも昨日の稽古は19人フル参加だった為、長い人では「謡い放題7時間コース、舞囃子付、食事無」だったので、気力体力も限界に近かったと思います。何度か地謡が上のような紛らわしい文句の罠にはまって、ちょっとだけ混乱していました。

まだ本番まで2週間ありますし、地謡は一番につき4〜5人いるので、何とか頑張ってほしいものです。

曲名看板5  舞物編

曲名看板シリーズ、今回は曲名ではなく「舞」の名前です。

「ギャラリーかけり」と読んでください。

これは「」のかっこみたいですが、あえて「羯鼓」と脳内変換してみてください。

「楽」が寝ているので、これは「邯鄲」の楽だと思われます。


「完全個室」に「隠れ」る神楽ならば、これは「三輪」でしょう。

おまけです。そのうちやりたい「舞の型編」の予告です。

今日はこの辺で失礼いたします。

ご当地ソング

昨日の京大OB会十和田大会では、「錦木」「遊行柳」「善知鳥」といった素謡が出ました。

これは東北地方の「ご当地ソング」とでも言える曲目で、秋田、福島、青森などが曲の舞台になっています。

ある場所が舞台の曲を、その土地に行って謡うのは、その曲への理解が一層深まる気がします。

また東北地方を旅する前にこれらの曲を勉強することで、東北地方の風土を理解する助けになる気もするのです。

「東北」の素謡が出たのはちょっと笑いましたが。。

「善知鳥」の素謡では、最後の仕舞の部分を謡わずにとっておいて、今日の観光で青森市内の「善知鳥神社」に行った時に境内で謡って奉納するということでした。

私は水道橋の月並能に出演する為に観光には参加しませんでしたが、善知鳥神社で謡う善知鳥は、また思い出に残るものだったろうと思います。

「ある曲の舞台に行って、その曲を謡って楽しむ」というのは、交通機関が発達した現代における「謡十徳」のひとつだと言えるのではないでしょうか。

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京大宝生OB会全国大会

本日青森の十和田市民文化センター能舞台にて、京大宝生OB会の全国大会が開催されました。

幹事の高橋さんの尽力により、盛大な素晴らしい舞台になりました。

全国から約30人のOBOGが集まり、また見所には高橋さんのお仲間の十和田宝生会の皆様始め、驚く程大勢のお客様がいらしてくださいました。

京大の舞台は皆さん出来るだけ沢山謡ったり舞ったりしたいので、時間が延びるのが常なのですが、本日もきっちり20分延びたのもまたOB会らしいと思いました。

OBの皆さんは全国それぞれの土地で、色々な職分に付いて宝生流を続けておられるのですが、年に一度しか顔合わせしない人でも謡うと声が良く揃うのは、宝生流の強みだと改めて実感いたしました。

これから宿で、これまた恒例の賑やかな宴会が始まります。

取り急ぎご報告まで。

京大宝生会の同級生達

私が京大宝生会の現役だった頃、同学年は私も含めて4人いました。

文学部が2人、医学部が1人、私が農学部でした。

その後みんな色々な人生を経て、文学部は1人がインド哲学の博士になってドイツ在住。

もう1人の文学部は青森県で高校の先生に。

医学部の1人は、宝生会の先輩と結婚して東京で耳鼻科の先生になりました。

そして農学部の私は能楽師に。。

ドイツの同級生とは、数年前にミュンヘンの能楽ワークショップで久々に再会しました。

東京の同級生は、私の舞台をご家族と一緒に度々見に来てくれます。

そして青森の同級生は、卒業後も宝生流をずっと続けて、今では教授嘱託になって藪克徳師の門下で活躍しています。

その青森の同級生が幹事になって、今年の京大宝生OB会全国大会が週末に青森県の十和田で開催されるのです。

私も数年ぶりにOB会全国大会に参加させていただきます。

京大宝生OB会は世代や立場に全く関係無く、同じノリの人々の集まりなので、いつも参加すると「またここに帰って来たなあ」としみじみ嬉しく思います。

皆さんとの再会を楽しみに、十和田に向かおうと思います。