昨日の五雲会では、能「藤戸」の地謡を勤めました。
この藤戸という曲。ワキの佐々木盛綱は、戦功を立てたいが為に罪の無い漁師を自らの手で殺害し、その母親に向かって「これは前世の報いなのだから恨むなよ」と言ってのけます。
現代の私にはこの「武士の理論」は到底理解出来ません。
しかし、前シテである漁師の母親と、後シテである漁師その人に焦点を当てて考えると、また違った見方が出来そうです。
この母子を「理不尽な力で人生を翻弄された名も無い人々」と私は見てみます。
すると、現代においてもこの曲と同じように、世界中が「理不尽な力」とそれに「翻弄される人々」で溢れているように思えて来るのです。
そしてこの900年近く前の名も無い母子を襲った悲劇を、能楽は目の前の舞台で体感させてくれます。
前シテ母親はクセのクライマックスで、盛綱に向かって自分も子供と同じように殺せ!と走り寄ります。その瞬間の迸るような悲しみ。
後シテ漁師の、胸を二度も刺される瞬間の痛み、暗い海底に沈み漂う無念と苦しみ。
この能は観る人に直接の救いを与えてはくれません。しかし「はるか昔の先祖達にも、このような悲しみや苦しみがあった」と確かに思えることで、現代の我々が悲しみや苦しみに耐える為の「生きる力」のようなものが得られる気がするのです。
そしてこの母子は、「藤戸」という曲に封じ込められたことで、千年先の人々をも「生かす」ことが出来る存在になったのだとも思います。
先日千葉の中学生達にも話したのですが、このように先人達の喜怒哀楽を曲に封じ込め、後世の人々がそれを追体験出来るということが、能楽の凄さ、素晴らしさなのだと私は思うのです。