人は城 人は石垣

今日の昼にリモート稽古をしたのは、江古田でボイストレーナーをされている方です。

他にも色々な仕事をされているパワフルな方で、今日も私のリモート稽古の直前まで、やはりリモートで日本語会話のレッスンをされていたそうです。

どちらの国の方を教えていらしたのですか?と尋ねてみると、

「アメリカのユタ州の銀行員の方です!」

行ったことの無い外国の人と、レッスンでつながれるのは良いですね。いつかそこに行けるかもしれないし。と言ってみると、

「そうですね!でも今のところ逆に、彼らが日本に来た時に色々と歓待してしまって、結局赤字なんですよ。アハハ!」

と明るい声で答えが返って来ました。

これと似た話を最近松本稽古場でも聞きました。

北アルプスの麓でハーブ栽培をされている松本澤風会会員さんは、100人規模の栽培グループの代表として数100種類ものハーブを育てて県内のリゾートホテルやレストラン、カフェなどに出荷しておられます。その方が、

「栽培や出荷の作業は本当に大変なのですが、収入度外視なので、結局月に1人数100円の儲けにしかならないのですよ」

と、穏やかな笑顔で話されていたのです。

お2人の話を聞いて、

「人は城、人は石垣…」

という武田信玄の有名な言葉を思い出しました。

海外の方との関係や、あるいは100人もの栽培グループメンバーとの繋がりは、金銭的なものよりもよほど貴重で実りのあるものだし、それによって助けられたりする事もきっと多くあると思うのです。

そういう姿勢は私も見習いたいと強く思いました。

澤風会や郁雲会の皆様には教えられる事が多く、いつも感謝しております。

久々の緊張感

今日は午後に銀座の観世能楽堂にて

「日本能楽会新会員披露記念会」

に出演しました。

舞囃子「鶴亀」の地頭を勤めました。

その後に渋谷のセルリアン能楽堂に移動して、夜に「渋谷能」に出演しました。

こちらは仕舞「百萬」の地謡を勤めました。

「日本能楽会」に入会する事は、「重要無形文化財総合指定」を受ける事を意味します。

一定期間修行を積んだ、若手から中堅に向かう年代の能楽師がその対象です。

楽屋には各流儀の家元や日本能楽会の重鎮の先生方が詰めておられて、晴れの舞台に相応しい緊張感が漂います。

私は3年前に日本能楽会員になっておりますので、今回は助演者として参りましたが、やはりこのような舞台は緊張します。

観世流「草子洗小町」や金剛流「高砂」といった舞囃子と並んでの宝生流「鶴亀」。

失敗の無いように細心の注意を払いつつ何とか無事に舞台を終えました。

そしてすぐに渋谷セルリアン能楽堂に移動しました。

「渋谷能」はやはり若手能楽師主体の舞台で、こちらは楽屋もほぼ顔見知りの若手能楽師が揃って賑やかな雰囲気です。

「日本能楽会」の時とはまた違った、各流儀の若手同士のプライドのぶつかり合いのような、”瑞々しい緊張感”とでもいう空気が漂っています。

仕舞「百萬」はいわゆる「二段グセ」の非常に長い仕舞で、囃子が入らないので逆に位の作り方が難しい曲です。

宝生流若手代表として、やはり失敗は出来ないという緊張感を持ちつつ、何とか無事に謡い切る事ができて安堵いたしました。

色々な流儀が揃う舞台の緊張感を久しぶりに、しかも1日に2回も体験して些か疲れましたが、また良い経験を積む事が出来ました。

お囃子の稽古も

今回の京大宝生会合宿では、謡と仕舞の稽古はもちろんの事、「お囃子」の稽古も積極的に行われていました。

太鼓を習っている一回生は「西王母」の太鼓を、小鼓を習っている一回生は「船弁慶クセ」を、夜が更けた合宿所で熱心に稽古しています。

OBの中に囃子を全部習っているという強者がいて、そのOBが「カシラの右手はこう」とか、「クセ止めの手はこんな感じで」とか丁寧に教えてくれていました。

まだ習い始めて間も無いはずなのに、太鼓も小鼓もとても良く打てています。

もうすぐ始まる新歓では、これらのお囃子も披露される事になります。

昨年の新歓は若手OBOG達の大活躍で大勢の新入部員に恵まれましたが、今年はその新入部員達も新歓をする側になり、去年よりも層が厚くバリエーションに富んだ新歓企画が色々できそうで、とても楽しみです。

ちなみに稽古ではありませんが、大鼓を習っている一回生は「指皮」という大鼓専用のプロテクターを和紙で作る作業を、やはりOBに習いながら熱心にしていました。

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壇ノ浦の日に

今日3月24日は壇ノ浦の合戦があったので「壇ノ浦の日」だそうです。

尤も旧暦の3月24日なので西暦ではまだ1ヶ月ほど先になりますが。

スマホのニュースで今朝それを知って、何となく「屋島の合戦」の日も調べてみました。

するとまた意外な事がわかったのです。

史実によれば屋島の合戦があったのは、

「元暦2年/寿永4年2月19日」

という事です。

しかしこれは謡の中に出てくる「屋島の合戦」とは全く異なる日付けなのです。

能「八島」では源義経の亡霊が屋島の合戦の日付けを、

「元暦元年3月18日の事」

と語っています。

また別の能「景清」では、平家方の悪七兵衛景清が同じく屋島の合戦を、平家の元号で

「寿永3年3月下旬の事」

と物語ります。

つまり能の世界では源氏方と平家方がともに、屋島の合戦があったのは

「元暦元年=寿永3年3月」

と明言しているのです。

これはどういう事なのでしょうか…

京大合宿中なので、周りの京大宝生会現役とOBOG達に聞いてみました。

色々なヒントがあり、それらを総合して私が想像したのは、

「声に出して謡った時に聴こえ方が良いように日付けを改変したのでは」

という事です。

例えば「元暦元年3月18日」だと、

「ゲン」「ガン」「サン」

と似た発音がポンポンと並んで、強く聴こえます。

また19日を18日にする事で、

「ハチ」「ニチ」とチが並んでやはりテンポ良く聴こえます。

景清の方は、「寿永3年3月下旬」です。

「サン」「サン」と同じ発音が並び、また日付けではなく「下旬」とする事で、

「サンガチ」「ゲジュン」

と、”G”の発音が並ぶ事になります。

…素人の想像なので全然的外れかもしれませんが、今日一日は「壇ノ浦の日」のニュースのおかげで色々楽しく思考を巡らせる事が出来ました。

この「屋島の合戦の日程」に関して何かご存知の方は是非お知らせくださいませ。

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“サカ盛”って誰ですか?

今日は京都大原の京大宝生会春合宿にやってきました。

いつもの合宿所の「民宿きつね」には、一回生6人を始め若手OBOGもたくさん集まって賑やかな様子でした。

昨年は人が少なかったので、有り難いことです。

合宿も終盤にさしかかり、皆それぞれ声が枯れ気味で膝が痛そうです。

それでもやはり今年の一回生の熱心さは規格外で、昨夜などは午前1時頃まで謡の稽古をしていたそうです。

その時の面白エピソードを晩御飯の時に聞きました。

昨夜の日が変わった頃に、合宿所の2階で一回生女子と若手OGが「敦盛」の謡を鸚鵡返ししていたそうです。

その部屋に一回生男子が入ってきました。

OGが「1階では何をしているの?」と聞くと一回生男子は、

「一部は”藤”の鸚鵡返しをしていて、一部は酒盛りしてます」

すると一回生女子が、

「え、”サカ盛”?それどんな曲?」

…どうやら敦盛の親戚の”酒盛”さんだと思ったようです。

全てが能に関わる単語に変換されるとは、ある意味見上げた姿勢だと思います。

今夜も私のすぐ横では一回生男子とOBの「嵐山」の熱い鸚鵡返しが行われており、まだまだ稽古は続いていきそうです。。

世界に向かって

松本稽古場で4歳からずっと稽古をしていた女の子がいます。

中学生になる時に松本から海の近くの町に引っ越して、稽古はそこでお休みになりました。

その翌年の年賀状には、太平洋が広がる砂浜で大きな犬と遊んでいる女の子の写真がありました。

さらに高校生になる時には、親元を離れて遠くの県の全寮制高校に入学すると聞いて驚いたものです。

それが去年の春のお話。

そして今日、松本稽古場で夕方からいつものように稽古を始めて少し経った時、稽古場の扉が開いて3人の人影が見えました。

私は謡を謡いながら、正に眼を丸くしてしまいました。

その女の子とご両親だったのです!

松本から引っ越して以来なので4年ぶりに、しかもなんの予告も無く来てくれたわけです。

顔つきだけは変わらず、しかし背は私よりも高くなっていてそれもビックリでした。

稽古が一段落して改めて対面した私は驚きのあまり、

「いやいやいや…!」

と言葉にならない状態でいました。

すると女の子の方がしっかりした声で、

「この度は先生にご挨拶があって来ました。

実は来月から高校卒業まで、カナダに留学することになりました」

いやはやただもう驚くばかりです。

小さな頃から多方面で非凡な才能のある子供でしたが、高校から世界に出て行くとは想像の斜め上を行っています。

しばし話してようやく落ち着いた私は、

「せっかくカナダに行くなら、何か仕舞を思い出して、向こうで披露したら?」

と提案してみました。

女の子は嬉しそうに賛成してくれて、4年ぶりに一番短い「絃上」を稽古しました。

地謡も私が謡うのを録音して、これできっとカナダの人達の前で舞ってくれるはずです。

私「帰って来たらまた顔見せて、お土産話聞かせてください!」

女の子「はい!先生もお身体に気をつけて」

終始本当にしっかりとした話し方で、実に頼もしく成長したものだと感心しました。

世界に向かって飛び出していく女の子の益々の活躍を祈りたいと思います。

驚きが醒めないうちに新しい見学の方もいらしたりして、今日の松本稽古はなんだか盛りだくさんでした。

亀岡の花々〜春遠からじ〜

今日は亀岡稽古だったので、久しぶりに「亀岡の花」を見られるかと思っていました。

しかし、京都から山陰線で亀岡に向かうと途中の保津峡駅あたりから…

なんと雪が降り始めました。

亀岡に到着する頃には本降りになり、非常な寒さです。

この雪と寒さでは花どころでは無いな…と思いながらも、この季節に見られるはずの植物を一応探してみました。

すると…

ありました!蕗の薹が今年も顔を出してくれていました。

他の春の花はどうでしょうか…

ユキワリイチゲ(雪割一華)はこの天気のせいか花を固く閉じた状態でした。晴天ならさぞかし綺麗な群落が見られることでしょう。

ちなみにこのユキワリイチゲ、学名を調べるとAnemone keiskeana

というらしいです。アネモネの仲間だったのですね。

keiskeana 」は明治時代の医師伊藤圭介から取られており、この人は「おしべ」「めしべ」「花粉」などの用語を考えた人らしいです。この人がいなかったら、「花粉症」は別の呼び名だったのかも…

またよく見るアネモネは和名「ボタンイチゲ」という地中海沿岸原産の植物だそうです。

さらに…

トサミズキ(土佐水木)が芽吹いていました。

育つとちょっと奇怪な見た目になりますが、今は可愛らしい感じに見えます。

そして…

牡丹も力強く芽を出していました。

この時点でも満開の花を想起させる、とても強いパワーを感じます。

今日初めて見つけた花は…

「ケクロモジ(毛黒文字)」です。

新芽を包み込むように小さな黄色の花がたくさん咲いています。

新芽が開く前の今の状態が、いかにも早春という感じで良いと思いました。

この頃には雪が止んで、陽が射してきました。

その陽射しの中で…

福寿草が花を開いていました。

来る時は雪でどうなるかと思いましたが、やはり色々な植物を見て、春はすぐそこまで来ていると実感できました。

これからまた春から初夏の花々をご紹介できればと思います。

840年前の今日

能「敦盛」、「忠度」、「箙」など色々な曲の舞台となった「一ノ谷の合戦」。

旧暦の寿永3年2月7日にあった源平の戦です。

これを西暦に直すと、1184年3月20日。

つまり840年前の今日にあたるのです。

今日は関西の稽古日だったので、夕方に終えてから思い切ってその「一ノ谷の合戦」の舞台まで足を伸ばしてみました。

三ノ宮駅で降りて北に向かう道は「イクタロード」。

その先に見えているのは…

生田神社です。

楼門のすぐ手前の左手に、本日の一番の目的の木がありました。

そう、「箙の梅」です。

きっとこの梅の何代か前の先祖を、梶原景季が手折って箙に差したのでしょう。

840年前には満開だったはずですが、現代の3月20日では勿論花は全く残っていませんでした。

拝殿にお参りして、その裏手にある「生田の森」に向かいます。

この森で平敦盛の霊が、息子とつかの間の再会を果たしたのでしょう。

今日の謡蹟散歩はここまで。

昨日の本郷界隈とは打って変わって慌ただしい行程でしたが、ちょうど840年前のこの日この場所に想いを馳せる事が出来て非常に感慨深い時間でした。

本郷界隈を抜けて

今日は水道橋宝生能楽堂に用事があり、時間に余裕があったので三ノ輪から歩いていこうと思い立ちました。

自宅から能楽堂へはしばしば歩くので、いつもコースを変えています。

今回は日暮里繊維街から谷中墓地を抜けて、東京芸大の手前で右折して不忍通りに降りていきました。

そこでふと、「東大本郷キャンパスを通っていこうか」と思いました。

不忍通りから少し入った所に小さい門があり、芸大にいた頃東大病院に用事があり、何度か通っていたのです。

久しぶりにその「池之端門」をくぐろうとして、目の端に「弁慶」という文字が入ってきて思わず立ち止まりました。

なんとこの井戸はその昔義経一行が奥州へ落ち延びる途中で、武蔵坊弁慶が発見したという「弁慶鏡ヶ井戸」だそうなのです。

まさか東京の真ん中、東大キャンパスのすぐ横に弁慶に纏わる史蹟があるとは驚きでした。

芸大の頃は全く気がつきませんでした。

キャンパスに入って本郷通り方面に坂を登っていきます。

途中「東大剣道部」「東大柔道部」の看板のある、とても味わいの深い重厚な建物などがありました。

更に行くとまた下り坂になり、坂を下りたところにはかの有名な「三四郎池」があります。

この池、元々は加賀藩ゆかりの庭園の一部で正式名称は「育徳園心字池」というそうです。

加賀藩と言えば能楽宝生流とは深い繋がりがあり、その後に能楽愛好家でもあった夏目漱石の小説から「三四郎池」と呼ばれるようになった訳で、この池は能楽と実は浅からぬ縁があったのですね。

三四郎池の周囲は木々の中の遊歩道になっていて、これは京大における「吉田山」に近い存在感だと思いました。

そして安田講堂に向かっていくと、途中で見慣れない格好で写真を撮っている人達を見かけました。

どうも大学院の卒業生のようです。

よく見ると安田講堂の入り口に「学位記授与式」とあり、どうやら明後日が大学院卒業式のようでした。

さっきの人達は前もって記念写真を撮っていたのでしょう。

そして赤門から本郷通りに出て、壱岐坂を下って宝生能楽堂に向かいました。

今日も色々と新しい発見があり、良い散歩道でした。

もう少し後の桜の時期にも歩いてみたいと思いました。

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草之神舞での”再会”

昨日の名古屋「桃華能」での事。

初番の能「右近」の後シテの舞は、藤田流の笛で「草之神舞」という珍しい舞でした。

初段オロシの足拍子を踏む所の笛がやや難解で、申合で何気なく聴いていてそこでハッとしました。

数年前の学生の「全宝連名古屋大会」を思い出したのです。

その「全宝連名古屋大会」は昨日と同じ名古屋能楽堂で開催されて、京大宝生会から舞囃子「右近」と舞囃子「敦盛」が出たのです。

私はその時に初めて藤田流では右近が「草之神舞」になる事を知り、音源を入手して何とか学生稽古をしたのを覚えています。

そして昨日の「桃華能」本番でもまた「草之神舞」を聴いたのです。楽屋で一緒にいた若手楽師に話しかけてみました。

その若手楽師は、名古屋の大学のサークルで宝生流の能を始めて、卒業後に東京芸大に入りなおして能楽師の道を歩んでいるという、私とちょっと似た経歴の持ち主です。

今は宝生能楽堂に住み込んで家元の内弟子として修行中なのです。

彼に「草之神舞は、前に京大宝生会が全宝連で舞囃子右近を出した時に初めて勉強したんだよね」と話したところ、

「あ、その時は京大さん右近と敦盛の舞囃子でしたよね。私その時に竹生島の舞囃子をさせていただきました」

なんと!

その舞囃子「竹生島」は私も覚えていました。

しかしそのシテが彼だったとは、今まで全然知らなかったのです。

いつも宝生能楽堂の楽屋で会っている彼なのですが、何だか懐かしい人に再会したような不思議な驚きを感じたのでした。