ウエストサイドストーリー

9月も半ばになると、高校の時の文化祭を思い出します。

私の母校である都立富士高校の文化祭は、「演劇祭」と呼んだ方が良い程に、各クラスがハイレベルな演劇を出すのが特徴でした。

そしてもう一つ、3年生による本格的な「ミュージカル」が出るのも目玉だったのです。

ところが私の学年はなかなかミュージカルの話がまとまらず、最後にたったの3人だけ「どうしてもやりたい!」という人間が残りました。

歌と踊りの得意な蓮さんは総監督。

甘いマスクで演劇部の末永くんが主役。

そしてやる気はあれど歌も踊りも演技も出来ない私は「総責任者」という曖昧なポジションに収まって、3人で人集めに奔走しました。

キャスト、オーケストラ、大道具、衣装、脚本、メイクなどなどの多彩な才能が学年を超えて100人、何とか集まって、ミュージカル「ウエストサイドストーリー」が始動したのです。

ウエストサイドストーリー。ロミオとジュリエットの舞台をマンハッタンに置き換えた、とても美しくとても悲しい、たった一晩の物語です。

キャストは互いに「トニー」「マリア」「ベルナルド」「ベビージョン」などと普段から呼び合い、我々の夏休みは「ウエストサイドストーリー」一色に染まっていきました。

学校のそばにある、神田川脇の公園。

夕暮れ時になると、部活や夏期講習を終えた「ジェッツ」や「シャークス」のキャスト達が、一人また一人と、まるでウエストサイドのオープニングそのもののように集まって来ます。

私が家から持って来たぼろいラジカセから流れるバーンスタイン指揮の「アメリカ」や「クール」などの曲に合わせて、蓮さん指導による稽古が始まりました。

すっかり日が暮れて、公園の街灯だけに照らされて一心に踊る仲間達。

それを見守る他のパートのチームの眼がキラキラと輝いて見えます。

それらの姿を見て私は「美しいなあ」と心から思いました。

私が世の中で「本当に美しい」と思う物事の基準は、この時この瞬間に形成されたと言っても良いくらいです。

そして、少しだけ「自分も歌や踊りや演技が出来たら良いのになあ」と思いました。

皆と一緒に踊れたら、もっと美しい景色が見られるのではなかろうか。。

あれから幾星霜を経て、私は「うたって、舞って、演技をする」仕事をしています。

今から思えば、あの「ウエストサイドストーリー」を見ているだけだった経験が、私を能楽の、舞台の世界に向かわせる原動力のひとつになった気がするのです。

いつかどこかでチャンスがあれば、ミュージカルの舞台も経験してみたい…などと、これまた大それたことを密かに思ったりしております。

院展に行って参りました

この度、上野の東京都美術館で開催されている「院展」に行って参りました。

実は澤風会田町稽古場の森田さんが日本画家で、毎年「院展」に出品されているのです。

昨年初めて券をいただいて行ってみたのですが、絵心の皆無な私にも明確にわかる程に素晴らしい作品が無数に展示されていました。

しかし昨年は閉館直前に行って駆け足で見て回っただけでしたので、今年は少し余裕を持って出掛けました。

会場に入ると、今年もやはり素晴らしい大作がずらりと展示されています。

その中の一枚の絵にふと心を奪われた私は、しばしその絵の前に茫然と佇んでしまい……と、いうような豊かな感受性を持ち合わせていない私は、「なんだかみんなすごいなぁ」などという曖昧な感想のまま、無限に続く絵の行列の前をふらふらと歩いていきました。

異国の街角、寂しい無人駅、飛翔する鷲、月夜に揺蕩う海月、眠る母娘、真夏の光射す森の道、南国の青い海、誰かの心の中、遺跡に住む猿達、平安貴族の春秋の御遊、象の親子、長崎の夜景、松明を持った修験者達…

これらの絵が掛けられている展示室は不思議な構造をしています。

大小幾つかの部屋がまとまってひとつの大きな区画を構成していて、その区画の出口の先には全く同じ構造の次の区画があり、またその先にも次の区画が現れ…というように、まるで同じ道を何度もぐるぐるまわる「リングワンデルング」に陥ったように感じます。

森見登美彦の小説に、京都祇園祭の路地を何度もぐるぐる回っているうちに、宵山の奥の奥にある異界に取り込まれていってしまう姉妹の話がありましたが、丁度そんな感覚でした。

無数のイメージの奔流に晒されて、このまま終わりなく「院展」の世界をぐるぐる回り続けるような錯覚を覚えながら絵の間を逍遥するのは、しかし大変心地良い時間でした。

それにしても、能楽のような再現芸術とは違って、全くの「無」から素晴らしい「作品」を生じさせる画家の人達は、一体どんな想像力を持っているのか不思議でなりません。

風景画にしても、無限に広がる世界の中から絵にするべき一画だけを的確に「切り取る」能力が必要です。

これらの「創造力」とでもいう力は、考えてみると最初に「能楽」を作った室町時代の人達は持っていたはずです。

しかし今の自分には「創造力」は全くありません。。

「絵を描く」という行為は、中学時代の美術の授業以来縁遠くなっているのですが、これはいつか自分も絵を勉強して、「創造力」の欠片でも身につけたいなあなどと、大それたことを思いながら「院展」の迷宮を抜け出して現実世界へ戻って来たのでした。

森田さんありがとうございました。夏から秋へと移ろう生命を描いた森田さんの作品には、今年も大変感銘を受けました。

会期はまだ続いています。「院展」皆様にもおすすめいたします。

桜井市民会館にて

今朝9月12日は信州松本で目覚めたのですが、携帯のニュースを見ると奈良で豪雨が降って、桜井市にも避難勧告が出たとか。

バスツアーで行った辺りは大丈夫だったのか心配です。。

その9月9日にあった「能楽師と周るバスツアー」は、桜井市民会館に到着して皆さんをホールの座席に御案内したところでなんとか無事終了いたしました。

私はツアコンから能楽師に戻って、急いで楽屋へ。

今度は「桜井外山座宝生流〜能の故郷公演〜」に出演するのです。

宗像神社では翁に続いて仕舞「高砂」を奉納された辰巳満次郎師による、仕舞「三山」。そして京都茂山家の狂言に続いて、最後には再び宝生和英宗家の能「三輪」という番組です。

天香久山、耳成山、畝傍山の「大和三山」がすぐ間近にあるこの地で舞われる仕舞「三山」。

そして先程参詣したばかりの大神神社周辺が舞台の能「三輪」。

朝からの宗像神社→多武峰→大神神社というツアーを経て舞台に臨むと、体験してきたばかりの光景と、眼の前で展開される能のシーンが奇妙にシンクロして、不思議な既視感を覚えました。

能「三輪」が終わったところで扇を置くかと思いきや、附祝言「五雲」がありました。

朝一番のバス車内での附祝言「五雲」鸚鵡返しから始まったこの日を、最後にまた「五雲」を謡ってめでたく締めくくれた訳です。

帰りの近鉄電車のホームで、東京から来られた3人組のお客様に声をかけられました。

それぞれ別の先生に宝生流を習っておられるのとこと。

また今日は他にも、遠くは熊本や、富山、福島などからいらした方々から「私は○○先生について宝生流を稽古しております。今日は宝生流発祥の地をひと目見たいとやって参りました。」とお声をかけていただきました。

普段はなかなか一堂に会することのない全国各地の流友が、今回のツアーと公演のおかげで宝生流発祥地にて集まることが出来たのです。

今後これらの方々に何処かの舞台でお会いした時に、「あの時のバスツアーに参加していたのです!」などと思い出話が出来る日が、きっと来ることでしょう。

私自身にとっても色々と貴重な経験を積むことが出来、また嬉しい御縁の沢山出来た今回の宝生流故郷公演でした。

関係者の皆様どうもありがとうございました。

大神神社にて

能楽師と周るバスツアーは、多武峰を発って今度は「大神神社(おおみわじんじゃ)」へと向かいました。

「大神」と書いて「おおみわ」と読む読み方は、古代に定められた読み方が現代まで伝わっているということで、ここは日本で最も古い神社のひとつなのです。

私にとっては今回のツアーで唯一、これまで何度も訪れたことのある地でした。

実は大神神社参道のすぐ横にある三輪素麺の有名店「森正」の店主森さんが、澤風会の会員なのです。

お店があまりに忙しく、お稽古は仕舞「三輪キリ」の途中でちょっとお休み中なのですが。。

その御縁で、数年前に澤風会の一行で大神神社を案内していただいたことがありました。

鳥居の起源を想像させる神秘的な結界「三ツ鳥居」を拝見させていただき、また御神体である三輪山に登拝させていただいたりしました。

その後も京大宝生会の葛城能合宿の時に訪れたり、初詣をしたりと何度もお参りさせていただいております。

それらの訪問の時、普段はそんなことを全く感じない私でも、「人知を超えた存在に見守られている」という不思議な感覚を味わう出来事が何度かありました。

そして今回久々に訪れた大神神社。

夕方の公演がある為にあまりゆっくりした時間がとれませんでしたが、参拝だけはしっかりしようと参道の階段を登りました。

土曜日で参拝客は多かったのですが、巨木の立ち並ぶ参道から、一転して明るい陽の降り注ぐ拝殿にかけて満ちている荘厳な空気感には、やはり圧倒されました。

能「三輪」で玄賓僧都の衣が掛けられていた「衣掛の杉」を見て、参拝を済ませて参道を降りていくと…

「澤田先生!」

なんと鳥居の脇に「森正」店主の森さんがわざわざ出てきてくださいました!

「夕方の公演、時間がとれたら観に行きますね。」

「ありがとうございます。紫明荘にもまたいつでもお稽古いらしてください!」

「そうですね💦アハハ…。」

森さんの変わらない笑顔に見送られて、バスツアーはいよいよ最終目的地、桜井市民会館へと出発。

大神神社参道横にはなんと新しく能楽堂が建てられるとのことで、その工事が始まっていました。

大神神社と能楽が、今後益々強い御縁で結ばれていくと良いと思います。

桜井市民会館での公演の模様はまた次回にさせていただきます。

多武峰にて

外山の宗像神社にて、宝生和英宗家の能「翁」奉納を見学した「能楽師と周るバスツアー」一行。

時間が押し気味なので、次の目的地「多武峰・談山神社(とうのみね・たんざんじんじゃ)」へと急いで出発しました。

「多武峰」に於いては室町時代に「八講猿楽」が行われていて、結崎座、坂戸座、円満井座、外山座(後の宝生流)の「大和四座」が交代で出勤していたそうです。

この出勤を怠ると、「罰金」や「追放」などの厳しいペナルティが課せられたということです。

能楽の黎明期の楽師達は、何となく自由で大らかな活動をしていたと想像していました。

しかし現実には座の中に厳しい戒律があり、また「田楽」などのライバルにも囲まれて、現代の我々よりも縛りの多い大変な毎日を送っていたようです。

「多武峰」に向かう道は完全に山道で、1.5車線のヘアピンカーブが連続していました。

紅葉の時期は大渋滞になるというのも頷ける道です。

多武峰に到着すると、先ずは昼食会場のある「多武峰観光ホテル」へ。

「素麺」や「鮎の塩焼」など、地元の名物が満載の豪華な昼食の後、参加者の皆さんは三々五々談山神社の見学に向かわれました。

私はと言うと、何人か観光ホテルに残ってゆっくりされている方々に付いて、神社は遠目に眺めて満足いたしました。

添乗員ですからね。(実際は夕方の舞台に向けて、体力の温存…)

因みに繰り返しですがこれは「能楽師と周るバスツアー」なので、私の格好は朝に京都の宿を出た時から「紋付袴」です。

紋付袴でホテルで立っていたら、従業員の方に声をかけられました。

「宗像神社でお能を奉納されて来たのですよね。私は外山の人間で宗像神社の氏子なのです。回覧板で神社に手伝いに行くように言われたのですが、このツアーがあるので今日はホテルに出勤したのです」とのこと。

そう言えば、宗像神社の境内には法被を着た氏子さんが沢山いらして、色々なお手伝いをしてくださっていました。

今回の奉納は、地域の皆さんのご協力で成り立っていたのだと、大変有り難く思いました。

外山も多武峰も、私はこれまでは殆ど訪れたことのない地域だったのですが、今回のことで御縁が出来たので、是非また度々来てみたいと思いました。

「多武峰観光ホテル」でお話しした従業員さんにも「今度は観光ホテルに泊まりに来ます!」と約束してお別れしました。

そしてバスツアーは次の目的地「大神神社」へ。

続きはまた明日にさせていただきます。

宝生流発祥の地・外山にて

今から600年と少し前に、奈良県桜井市の「外山(とび)」という所で「能楽宝生流」は誕生しました。

初代宗家蓮阿弥は、諸説ありますが世阿弥の弟とされています。

そして宝生流が生まれた地「外山」にある宗像神社の境内に、「能楽宝生流発祥之地」の石碑が昭和36年に建立されました。

今日は第20代宝生和英宗家がその宗像神社にて、能「翁」を奉納されるという記念すべき出来事がありました。

私はと言えば、今日は下のようなツアーの所謂「ツアーコンダクター」をいたしました。


…「能楽師と周る」の能楽師が、一応私だった訳です。。

このツアーには勿論、宗像神社での「翁」奉納の見学が組み込まれていました。

バスの中で宝生流オリジナル附祝言「五雲」の鸚鵡返しをしてから、いざ宗像神社境内へ。

翁の後に境内にいる全員で「五雲」を謡いました。

私は「翁」には参加しませんでしたが、宝生流発祥の地で謡う「五雲」は大変良いものでした。

また何とツアーには、生後間もない宗家のご長男、知永さんも参加されて、私のすぐ横で「翁」を大人しくご覧になりました。

宝生流の発祥から現在までの遥かな歴史を感じるこの場所で、宝生流の未来に繋がる小さな瞳がじっと「翁」を視ているのです。

私は得も言われぬ感動を覚えました。

ツアーは宗像神社の後も続いたのですが、続きはまた次回。今日はこの辺で失礼いたします。

七宝会重陽公演

今日はこれから香里能楽堂にて「七宝会重陽公演」に出演いたします。

二部制で第一部は舞囃子「枕慈童」と能「井筒」、第二部は舞囃子「小督」と能「船弁慶  後ノ出留ノ伝」です。

私は小督以外の地謡を謡います。

この中で能「船弁慶」には「後ノ出留ノ伝」という「小書」が付いています。

「小書」とは、特殊演出のことです。

能には小書が付く曲目が沢山ありますが、実は宝生流は五流の中では小書が少ない流儀なのです。

しかしその分、たまに付く小書は面白いものが多いです。

「船弁慶  後ノ伝留ノ伝」を初めて観たのがいつなのかは覚えていないのですが、鮮烈な感動を覚えたことは記憶しています。

・謡の速さを数箇所変化させる。

・シテの登場シーンと退場シーンを変化させる。

大まかにはこれだけの特殊演出で、特に大掛かりな作り物などもありません。

それなのに、通常演出とは印象が全く変わってしまうのです。

元々が究極的にシンプルな構成の能楽だからこそ、シンプルな変化で最大限の効果があるのでしょう。

通常演出の「船弁慶」を観たことがある方は勿論、先ず「後ノ伝留ノ伝」を観て、後日通常演出を観ても逆の感動があると思います。

「船弁慶」以外のプログラムも勿論お薦めです。

ご都合が合う方は、どうか本日の七宝会にお越しくださいませ。

よろしくお願いいたします。

京都のオーロラ

今日は江古田稽古でした。

次の舞台迄には少し間があり、通常モードの稽古を淡々とする日かな…と思っていたら、1月に体調を崩してお休みされていた会員さんが久々に顔を出されたり、見学の方が急にいらしたりと、色々賑やかな日になりました。

そして先ほど稽古を終えて携帯のニュースを見たところ、「太陽フレア」という文字が見えました。

太陽フレアとは太陽表面の爆発現象で、今回は10年に一度の大規模な爆発だそうです。

私が江古田稽古をしていた同時刻に、太陽から噴出した大量のガスが地球に向かっていたようで、明日午後に地球に到達して電子機器などに影響が出る可能性があるそうです。

それは深刻な話ですが、太陽フレアのガスは同時に「オーロラ」の活動を活発にするのです。

世界各地で綺麗なオーロラが見える可能性が高く、日本でも北海道でオーロラが見えるかもしれません。

明日のニュースで北海道のオーロラが見られると嬉しいですが、また思い出したのが、「鎌倉時代には京都でオーロラが観測された」という話です。

この記録を残したのが「藤原定家」。

能「定家」では、死してなお「定家葛」になって式子内親王に絡みつくという、ちょっとストーカー気味な存在になっています。。

しかし定家の日記「明月記」は鎌倉時代の貴重な記録で、様々な天体現象も克明に記されています。

そこには「1204年2月21日に京都の夜空に”赤気”が現れて恐ろしい」と書かれています。

この”赤気”がオーロラの事で、当時は地軸の関係で低緯度でもオーロラが観測出来たようなのです。

定家さんは「恐ろしい」と書いていますが、もしも万が一、現代の京都にオーロラが出現するようなことがあれば、何としてでも観てみたいものです。

壮大な宇宙の活動の中で自分が存在しているという事実を、久しぶりに思い出させてくれたニュースでした。

マラソンポスター

澤風会の稽古場があったり、また定期的に仕事で行ったりする街には、同じ日本国内とは言えそれぞれ全く違うカラーがあります。

今回、面白写真を集める中でマラソンのポスターにその特徴が良く出ていたので紹介させていただきます。

街は東京、松本、京都、青森です。

まずは東京。

やはりスタイリッシュで洗練された印象です。

カラフルで楽しそうですが、ハジけた面白要素はあまり無いですね。

多様な人が暮らす首都東京で、ポスターも最大公約数に受け入れられるものにしたのでしょう。

次に松本です。

全くもって真面目なポスターです。

目に見える派手さは求めずに、日々を正しく気持良く生きている街、松本らしいポスターだと思います。

次は京都。

伝統を重んじる古都ながら、時代時代の新しい風も軽やかに取り入れて来た街です。

森見登美彦の小説などに感じられる、独特の怪しいユルさがあるこの街は、私の第二の故郷なのです。

ポスターのような格好で走ると面白そうですが、それをするとしたら京大生くらいでしょう。

しかし最後の街、青森は…


…。仮装でアフロ…。

もはやマラソンにする必要があるのかも良くわかりません…。

しかし、ユーモアのセンスで言うと、青森は私が行く街の中で群を抜いています。

冬が厳しいだけに、明るく暖かい季節をとことん楽しもうというある種の気迫、気合すら感じられます。

青森の皆さん、これからも面白写真を期待しております。

能のワキで多い役が「諸国一見の僧」で、僧は行く先々で不思議な出来事に巻き込まれます。
私は不可思議な目にはあまり遭いませんが、諸国を巡りながら、出会った面白い出来事をこれからも御紹介させていただきます。

今日はこの辺で。

1件のコメント

タリーズ、レバー、ナルニア国

先日のいなかっぺ大将ネタのブログに関して、記憶術があれば教えてほしいとのコメントをいただきました。

私は特に記憶「術」のようなものは持っておりません。

前にも書きましたが、覚えるときには必ず正しい謡だけを口ずさむようにしております。

そうすれば、頭が一瞬空白になっても無意識に正しい謡が出て来るものです。

逆に、覚える途中で間違った謡を1度謡ってしまったら、正しい謡を5〜6回すぐに謡い直すようにしています。記憶の上書きですね。

あとは私の場合、同じ謡でも頭に入って来る順番があるようです。

①ストーリーがはっきりしている謡が一番早く頭に入ります。

②固有名詞が多い謡も比較的入りやすいです。

③ストーリー性があまり無く、例えば人の世の無情といった普遍的なテーマを延々と説く謡が最も記憶し辛いです。

またこれら全ての謡に共通して厄介なのが「助詞・助動詞の変化」です。

「なりけり、なりたり、なりしに、なれば…」などが一曲の中にランダムに出て来て、これを間違えると曲が「ループ」したり、逆に「ワープ」したりと言った恐ろしいことも起こります。

なので私は助詞助動詞を記憶するときには、先ず「インパクトのある文字」に置き換えて記憶するということをしています。例えば…

なりけり→なり蹴り

なりけん→な理研

なるとかや→NARUTOかや

なりたり→なりタリーズ

なりしに→なり死に

なるに→ナルニア国

なれば→なレバー

人の言うらん→人の遊覧

人の見るらん→人蚤るらん

人や聞くらん→人や菊蘭

~かな→女性の名前

~やな→関西弁

…つまり謡を浚いながら、「次は何だっけ。タリーズだ。その次は理研だ。」という具合に記憶を手繰っていくのです。

しかしあくまでこれは正しい謡を記憶する迄の話です。

決して舞台上で、「次はレバーだっけ、ナルニア国だっけ」などと考えている訳ではありません。念のため。