ランナーズ・ハイ

昔高校の時に、陸上部の中長距離をやっておりました。

放課後の練習で遠くの公園まで”アップ”と称するジョギングをする時。

走り始めは、まだ身体が暖まっておらずにすぐに息切れをしてしまいました。

しかし、数分走っていると不思議に気持ちが高揚して来て、「ようし、今日ももっと走り込むぞ!」と前向きな気持ちになったものです。

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後日それは”ランナーズハイ”と言って、科学的に検証されている現象だと知りました。

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そして時は流れて、本日香里能楽堂にて開催された「京阪神巽会」でのお話です。

番組の関係で、私は午前中から午後にかけてしばらくの間、切れ目なくずっと舞台で地謡を謡っておりました。

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最初の1時間が経過した頃には、「足が痺れて立てないかも…」と思い、次の1時間では「もう無理!足が痛くて座れん〜!」と若干泣きそうになりました。

しかし、その後の時間帯になると不思議なことが起きました。

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「足、なんだか痛くなくなって来た。」

「頭がクリアになって来て、まだまだいくらでも謡える気がする…!」

と、何故かとても前向きな気持ちになって来てしまったのです。

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まだ誰も実験実証はしていない筈なのですが、”ランナーズハイ”と同様に”謡・ハイ”というのも存在すると思われます。

今日は”謡・ハイ”のおかげで何とか京阪神巽会を無事に謡終えることができました。

明日はまた名古屋での和久荘太郎さんの演能空間で”謡・ハイ”になるくらい頑張って謡って参りたいと思います。

自転車操業中です…

今日は朝東京を出て、10時半頃には京都丹波橋にて紫明荘組稽古を開始。

夕方終えて京大に移動して、先ほどまで稽古しました。

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紫明荘組と京大の合間には、新しい稽古場候補のとても良い感じの古民家ゲストハウスを見学したりもしました。

その辺の話を詳しく書きたいところなのですが、明日は朝から香里能楽堂にて京阪神巽会、明後日には名古屋で和久荘太郎さんの”演能空間”の舞台が控えていて、若干追い詰められている状況です。

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今日はこれにて失礼させていただき、小本と睨めっこして謡の世界に突入して参りたいと思います。。

大人の能楽師を目指して

今日は夜に大阪の大槻能楽堂にて、「大阪養成会」の舞台に出演して参りました。

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宝生流の演目は能「経政」で、シテは石黒空君でした。

空君は、数年前に私が大阪若手能にて能「百万」を勤めた時には子方をしてくれました。

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それがもう高校3年生になって、初めて面を掛けてシテとして舞台に立ったのです。

時の流れの早さを感じてしまいます。。

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現代の高校生というのは、学校だけでも相当に忙しいはずです。

彼はその学校と平行して、”大人の能楽師”を目指す為の修行をしている訳です。

それは子方時代の稽古とは比較にならない程の非常に厳しい修行であり、生半可な覚悟では出来ないことだと思います。

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しかし、満次郎師から指導を受ける空君を見ていると、何かご注意をいただく度に「ハイッ!」と何とも力強くきっぱりとした返事をしていて、直向きな姿勢を好もしく感じました。

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これからしばらくの間は、今よりも更に厳しい修行期間が続くと思います。

その修行を経て彼が”大人の能楽師”になる時を、期待して待ちたいと思います。

緊張感MAX

今日は大阪の香里能楽堂にて、第13回澤風会京都大会の申合がありました。

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今回は舞囃子「忠度」、「玉葛」、「草紙洗」、そして能「小袖曽我」が出るので、シテと地謡を合わせて10数名の方々が参加されました。

初めての舞囃子の方、初めて能装束を着る方なども多くいらして、皆さん緊張感MAXという感じでした。

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私のこれまでの稽古の方針としては、申合で色々と注意点をチェックして、申合から本番までの間にそれらを修正、そして本番では基本的に何も手出し口出しはしないことにしております。

つまり、私自身としても実は申合の時が一番緊張して舞台を見ているのです。

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今日もまた五感をフルに使って、チェックポイントを色々と探しておりました。

その甲斐あって、実りの多い有意義な申合になったと思います。

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毎回のことですが、ここから本番までが最も集中力が高まる期間になります。

今日申合を頑張った皆様は、どうか本番までもうひと頑張りしていただいて、最高の舞台を作っていただきたいと思っております。

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もちろん私も、ここから更に気合いを入れて稽古させていただきます。

会員の皆様、どうか本番までよろしくお願いいたします。

都庁前広場にての”東京大薪能”

昨日の熱海サンビーチから一転して、今日は東京のど真ん中、新宿の都庁前広場にて開催された”東京大薪能”に出演して参りました。

舞台の背後には巨大な東京都庁が聳え立ち、また前にも左右にも高層ビルが並ぶ、まさに”ビルの谷間”での薪能でした。

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未来世界のようなビル群に響き渡る謡と囃子。

昨日の熱海のように自然を感じながらの舞台は良いものですが、今日のようなシチュエーションもまた不思議に心地よい高揚感を感じました。

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今回の薪能には4000人以上のお客様がいらしてくださったようです。

能楽の普及という意味でも大きな意義のある催しだと思いました。

短いですが本日はこれにて。

熱海の”月の道 薪能”

今日は熱海の海岸で開催された「月の道 薪能」に出演して参りました。

毎年恒例となった薪能で、辰巳満次郎師が沖合から船で登場して、浜辺で舞うというのが大きな目玉になっています。

私は去年はその船に乗ってお手伝いをしましたが、今年は出航する桟橋でのサポートでした。

夜のヨットハーバーは、たくさんのヨットに灯りがともっていて幻想的な景色です。

ただ、水平線から昇っている筈の月は雲に隠れてしまっていました。

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シテ満次郎師を載せた船が出航していき、やがて浜辺の舞台での”能舞”が終わってヨットハーバーに戻って来ても、まだ月は顔を出してくれません。

今日は雨が降らなかっただけでも良かったのかな…と思いつつ、私は最後の演目である能「乱」の地謡座に座りました。

浜辺の客席に向けて座るので、月には背を向けるかたちになります。

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満次郎師は早変わりでシテ猩々になって、今度は橋掛りから登場です。

毎度のことながら、満次郎師の超人的な体力には圧倒されます。。

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そして「乱」が無事に終わって、舞台から降りるために背後を振り返った時、「おお…!」と驚きました。

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いつのまにか中天に見事な月が浮かんでいたのです。

「乱」の中の、「月星は隈も無し」という文句に誘われるように、顔を見せてくれたのでしょうか。

私は一瞬だけ明月を仰ぎ見てから、舞台を降りました。

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終了後の橋掛りから撮影した、熱海の夜景と月光の射すビーチ。実に美しい光景でした。

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今日の薪能が無事に終わったことを感謝しつつ、我々は月に見送られながらサンビーチを出発して、熱海駅までの長い階段をよいしょよいしょと登って帰途に着いたのでした。

地謡が凄すぎて…

先週青森稽古に行った時のこと。

青森稽古場の方が、

「この前の舞台の仕舞、全然駄目でした…。横板に正座して自分の出番を待ってる時に、真後ろの先生方の地謡があんまり凄い迫力で、それを聴いていたら一気に緊張して頭が真っ白になってしまったのです。。」

という内容のことを仰いました。

その方は「国栖」の仕舞で、確か3人組パートの最後の出番だったのです。

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そして昨日、福岡の皓月会の後にご馳走になった”光寿司”のご主人も、カウンターの向こうでやはり「今朝仕舞を舞った時に横板に座っていたら、地謡の声がもの凄くて、すぐ前で聴いていて圧倒されてしまいました。」と仰ったのです。

最もご主人は2人組パートの最初の仕舞「俊成忠度キリ」を舞われたので、こちらは出番が終わってからの話です。

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奇しくも青森と福岡で同じ内容の言葉を聞いたわけですが、ともあれこれは中々難しい問題だと思いました。

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私は誰かの仕舞の地謡を謡う時には、当然出来る限りの力で一所懸命に謡います。

しかしその一所懸命な声のせいで、横板で出番を待っている方を緊張させてしまうとしたら、それはそれで不本意なことだと思うのです。

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だからと言って、修羅物などを弱い声で優しく謡う訳にもいきません。

「力はこもっていつつ、至近距離で聴いても緊張させないような謡」

というのが可能なのか、今後研究してみたいと思います。

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澤風会などのいわゆる”同門会”での仕舞の地謡というのは、上記のようなこと以外でも本当に色々と気をつかう、難しいものです。

様々に試行錯誤した結果、私は結局「シテが遅くても早くなっても、こちらは動ぜずに淡々と普通の速さで謡う」のが一番だと言う結論に今は至っております。

しかしこれもまだ通過点なので、今回の”凄すぎる地謡”問題なども考慮しながら、最善の地謡を目指していきたいと思っております。

皓月会に出演して参りました

今朝は夜明けと共に羽田空港を飛び立ち、福岡に向かいました。

大濠能楽堂にて開催の「皓月会」に出演するためです。

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飛行機に乗ったらすぐさま福岡まで寝ようと思っていたのですが、窓際の席だったので、ついつい外を見てしまいます。

離陸後すぐに眼下に”富士の高嶺”が…!

これは正に能「羽衣」のシテ、月世界の天人の目線です。

この絶景にテンションが微妙に上がってしまい、結局一睡も出来ずに無事福岡空港に着陸。

目をこすりながら地下鉄で大濠能楽堂に直行しました。

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能楽堂到着時刻が朝9時過ぎ。日本は意外に狭いです。

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今日は先週のブログでも書いた能「芦刈」が出ることになっていました。

楽屋に向かうとこんな張り紙が…

会主のユーモア心、感服いたしました。

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今回の皓月会は会主の石黒実都師が取り仕切っておられましたが、何番かの仕舞などの地謡に出させていただいた時、謡いながら故石黒孝先生の事を無性に思い出しました。

古くからの皓月会の会員さんの型や謡に、孝先生の面影が宿っていたのでしょう。

しみじみとした気持ちになりました。

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素晴らしい舞台だった能「芦刈」をはじめ、盛り沢山の舞台が盛会のうちに終わったのが17時半前。

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その後能楽堂から移動して、会員さんのなさっている「光寿司」という大変美味しいお寿司屋さんで晩御飯をいただき、福岡空港へ移動して到着したのが21時。

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そして帰りの飛行機で今度こそは寝ようと思っていたのですが、また席は窓際なのです。。

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夜景好きな私のテンションはまた微妙に上がっており、23時到着予定の羽田空港まで結局眠らずに行ってしまうのだろうな…と思っております。

福岡空港は連休を満喫した人々で混み合っておりましたが、私は日帰りでも大変に充実した濃い皓月会の1日を過ごさせていただきました。

石黒実都師はじめ皓月会関係者の皆様、誠にありがとうございました。

(機内モードにて執筆したブログでした)

“高砂尽くし”の披露宴

昨日は五雲会の後に、恵比寿のウェスティンホテルにて大鼓方の大倉栄太郎さんの結婚披露宴に出席して参りました。

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大倉栄太郎さんは東京芸大時代の同級生で、当時能楽専攻の仲間たちと栄太郎さんの鎌倉の自宅に泊まりがけで遊びに行ったりしたのが懐かしい思い出です。

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我々能楽師の結婚披露宴では、乾杯の前に「高砂」の祝言小謡「四海波」を謡うのが慣例になっております。

昨日も宝生和英御宗家の御発声のもと、出席した能楽師が全員立ち上がって「四海波」を謡いました。

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昨日はシテ方と三役のたくさんの流儀が勢揃いした披露宴でしたが、実は「四海波」の詞章や節は流儀によって異なるのです。

私も初めて能楽師の披露宴に出席した時は、違う節が聞こえてきて戸惑いました。

しかし今ではそれにも慣れており、昨日も宝生流の「四海波」を大声で謡いました。

ところが最後の部分の「君の恵みぞ有り難き」を「君の恵みぞ有り難や」と謡う流儀があるので、そこは「き」と「や」がせめぎ合って微妙な謡になって終わりました。

聴いていた一般の方は違和感を感じられたかもしれませんが、決して誰も間違えてはいないのです。。

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そして、開宴後しばし経った頃、ふと気がつくと新郎新婦が座る”高砂”の横にあるステージに、いつのまにか数人の能楽師が座っていました。

シテ方、笛方、小鼓方、太鼓方…

あれ?1人足りません。するとおもむろに高砂席の新郎栄太郎さんが立ち上がりました。

なんと手には大鼓を持っています!

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栄太郎さんが座につくと、シテ方の金春流山井綱雄さんが謡い始めました。

「高砂や この浦船に 帆をあげて…」

おお、今日は”高砂尽くし”なのですね!

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そしてまた面白いことがありました。

結婚式で「高砂」を謡う場合、文句を一部変える習わしがあります。

「出汐」を「入汐」としたり、「遠く」を「近く」と謡ったり。

これを謡文句を「かざす」と言ったりするそうです。

昨日の山井さんもこの「かざし謡」で待謡を謡われており、「遠く鳴尾の沖過ぎて」が「春に鳴尾の沖過ぎて」となっていたり、聞きながら思わずニヤリとしてしまいました。

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新郎熱演の「高砂」居囃子も無事に終わり、やがて和やかな披露宴は終盤に差し掛かりました。

最後は新郎栄太郎さんの挨拶です。ところが…

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栄太郎さん「え〜、どうしよう何を言うのかすっかり忘れてしまいました…。あんなに練習したのに!!」

おいおい。

昔からこういうキャラで愛すべき人なのですが、ここは何とか頑張ってほしいところです。

すると…

「そうだ!思い出しました。先ほどの皆様の”四海波”の謡!」

え?

「これまでの披露宴では謡う方だったので、今日初めて高砂席から聴かせていただきましたが、”おめでとう!”というすごいエネルギーが伝わって来て、めちゃくちゃ感動しました!!」

能楽師一同大ウケです。会場全体も温かい空気に包まれました。

栄太郎さんその後なんとか挨拶をまとめて、披露宴は目出度くお開きになりました。

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高砂で始まり、高砂で締めた感じのとても良い披露宴でした。

栄太郎さん、どうか末永くお幸せに!

3000人の潮汲み

今日は水道橋宝生能楽堂にて五雲会が開催されました。

私は能「融」の地謡を勤めさせていただきました。

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すみません、本筋とはあまり関係ない話をさせていただきます。

以前たしかブログに書いたと思うのですが、融の大臣が京都の六条河原院に、毎日大阪湾から膨大な量の海水を運ばせたというのは非常に無茶な話だと思います。

河原院の塩釜が融の大臣の死後に相続されることが無かったのは、この作業の困難さによるのでは、と考えておりました。

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そして今日、能「融」の地謡に座って、中入で間狂言の語りを聞いていた時。

その海水を運ぶ人足の話が出てきたのです。

「御津の浜に1000人、道中に1000人、河原院に1000人を配置して、合計3000人を用いて毎日潮を運んだ」

という内容でした。

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これはかなり具体的な数字です。

3000人の人足がいれば、人数的には確かに大阪から京都への海水の輸送は可能かもしれないなと一瞬思いました。

しかし良く考えてみると、現代においても1日3000人のスタッフを導入する程の大イベントはそうそう無いと思われます。

ましてやそれが毎日で、しかも一貴族の雅やかな趣向を満たすだけの為に潮汲みを繰り返す人足は、正直「やってられん!」と感じていたのでは…と思ってしまいます。

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現代ならばさしづめ「ブラックバイト」とも言われそうなこの仕事、当時の従業員にあたる人足達の話を聞いてみたいと、間狂言の後半を聞きながら思ったのでした。