能楽においては、シテの名前が「漁師」であるとか、「○○の兄」、或いはただ「男」「女」とだけしか名付けられていないことがよくあります。
むしろ「本当の名前をわざと隠している」と言った方が良いかもしれません。
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能「紅葉狩」のシテなどは、元の話では「紅葉」という名前の女であり、「紅葉狩」と「紅葉という女を狩る」をかけてあるのに、能ではシテを「さる御方」としか呼ばず、結局最後まで名前がわからないままで終わってしまいます。
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これは、「本名」という属性を隠すことによって、名前以外の「美しい」「高貴に見える」「ちょっと怪しい」「実は鬼である」といったその曲特有の属性をより際立たせる為なのでしょうか。
以前から不思議に思っていることのひとつです。
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このようなことを書いたのは、実は昨日の松本稽古場の新年会で興味深い話題があったからです。
「昨年末に新しく入った会員さんをどう呼ぶか」という話題でした。
松本稽古場は何故か職人さんが多いと昨日書きましたが、それと同時にまた「本名以外にも呼び名を持つ人が多い」という不思議な稽古場なのです。
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「本名」や「ニックネーム」はどこでも耳にしますが、松本の皆さんはそれ以外に「屋号」と「業種名」でも呼び合っているのです。
屋号だと「さんじろさん」「こちのやさん」「やませいさん」など。
業種名から「うなちゃん(鰻ちゃん)」など、いずれも本名しか知らない人には何だか訳の分からない呼び名です。
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しかしそのように呼ぶことで、名前を知らない初対面の人でも「ああ、あのお城の近くのお蕎麦屋さんの」とわかってもらえたりするのです。
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松本という街は規模も大き過ぎず小さ過ぎず、人と人との繋がりも適度に密な街なのだと思います。
「屋号」や「業種名」はそんな松本に程よく適した呼び方なのでしょう。
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私は本名以外には呼び名を持たずに半世紀程過ごして来ました。
それで不満は無いのですが、松本の皆さんが屋号などで呼び合うのを見ていると、何となく暖かい繋がりを感じて、ちょっと羨ましくなるのです。
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新しい会員さんは、結局「本名」「屋号」「業種名」どれでもOKということになり、私はどう呼んだものかまだ迷っております。。