現場主義の玄翁和尚

昨日の神保町稽古には、山形県新庄の曹洞宗のお寺で僧侶をしている京大宝生会若手OBが久しぶりに来てくれました。

謡稽古は「殺生石」で、いつも曲の解説資料を作って来てくださる会員さんに今回も解説をしていただきました。

それを聞いてちょっと驚いたのが、ワキの「玄翁和尚」が”曹洞宗”の高僧だったという事です。

たまたま今回来てくれた京大OBと同じ宗派だった訳です。

解説も会員さんと若手OBが交互にする形になりました。

会員さん「玄翁和尚は、總持寺の”峨山禅師”に入門して、”二十五哲”の1人と数えられた偉い僧侶です」

おお成る程。

若手OB「でも…」

ん?

「実は總持寺から”出禁”になった事があるんですよね」

何と!それは一体なぜですか?

「玄翁和尚は、總持寺の経営に参画する立場だったのに、總持寺にはあまり寄り付かずに、諸国を巡って布教活動ばかりしていました。

それで、玄翁さんが亡くなった後に、厳密には玄翁和尚の弟子達が一時期總持寺から出禁をくらってしまったのです」

成る程。事務的な仕事よりも現場で働く方が好きな人だったのですね。

何となく玄翁和尚への好感度が増しました。

若手OB「殺生石以外にも、北は秋田から南は鹿児島まで、玄翁和尚が”悪龍”を退治した、というような伝説は多く残っています」

それはまた興味深いです。

今後どこかの土地で玄翁和尚の足跡を見つけることができるかもしれません。

また移動の楽しみがひとつ増えました。

太陽が戻ってきました!

今日は関西紫明荘組の稽古でした。

そして今日は稽古場に着く前から、とても楽しみにしていることがありました。

稽古場に到着すると、

「先生!どうもお久しぶりです!」

元気なお声で、満面の笑みのその会員さんは、しかし2年と少し前に大きな病気になって、それからずっと稽古はお休みでした。

辛く長い治療を見事に乗り越えられて、今日が2年と少しぶりの復帰の稽古だったのです。

去年後半から先ずはリモートの謡稽古から再開されて、月2回のリモート稽古で徐々に元気を取り戻されている様子がわかりました。

そして今日、満を持して稽古に来られたお姿は画面越しよりもずっとお元気で、しみじみと良かったと思いました。

仕舞はとりあえず「右近」を稽古しました。

1回目はまだ感覚が戻りきらないように見えましたが、2回目の舞はもう滑らかな動きで、これならすぐにもっと難しい曲に移行できそうです。

元々が人一倍元気で太陽のような方です。

今日の稽古場は正に太陽が戻ってきたように、皆さん明るく嬉しそうな雰囲気でした。

心強いメンバーが復帰されて、秋の澤風会京都大会に向けて勢いがついた気がいたします。

太鼓と舞働のリンク

今日は江古田稽古でした。

夕方に来られた会員さんは、今日初めて「舞働」の型を稽古しました。

その方は金春流太鼓の稽古を一昨年からされていて、ある程度太鼓の手はわかっていると思われました。

なので、先ず「舞働」の型を一通り稽古した後で、

私「舞働の最初は太鼓の”テレツクテレツク…”という打込みの途中で始まるのです」

と太鼓の手を打ちながら説明してみました。

ところがその会員さんは一瞬ポカンとされて、少し時間が経ってから、

「え?あの太鼓の手の、ここで舞が始まるのですか!」

と、驚いた顔をされたのです。

私も一瞬ちょっと驚きましたが、思えば太鼓の稽古では太鼓の手を覚えるのに必死で、それが舞とどのようにリンクするのかまで考える余裕は無いのでしょう。

しかし、今日のように「太鼓と舞がここでこうやってリンクしているのだ」と改めて認識できるのは、お囃子を稽古されている方の特権でもあるのです。

きっとその会員さんは、舞働をより立体的に早く会得してくださるだろうと思います。

思いがけない再会

今日は水道橋宝生能楽堂にて、宝生流定期公演の能「春日龍神」の地謡を勤めました。

シテは佐野弘宜さんでした。

佐野弘宜さんのお弟子さんで、一時期京都に引っ越して私のところで稽古していたお母さんと男の子がいます。

このホームページにも写真を使わせていただいているのですが、当時は男の子はまだ幼稚園児で、本当に小さかったのを覚えています。

その後、親子はまた関東に戻られて、再び佐野弘宜の元で稽古を再開されました。

それから数年会っていなかったのですが、何と今日はその親子が佐野弘宜さんの「春日龍神」を観にきてくれたのです。

能が終わってロビーに出て行くと、向こうから見覚えのある親子が走って来ました。

しかし男の子は面影は変わらないけれど背丈が倍くらいに大きくなっていました…!

聞けばもう小学6年生で、いわゆる”お受験”に突入しているそうなのです。

いつの間に6年も経っていたのですね…

男の子は私の事など忘れてしまっているかと思いきや、以前に澤風会に出てくれた時に番外で私が舞った舞囃子「春日龍神」の事をちゃんと覚えてくれていて、それも大変嬉しい事でした。

今は稽古が嫌になる時もあるそうなのですが、私も丁度小学6年生くらいの時に稽古が嫌になってお休みした期間があった事を伝えて、気長にやってくれるようにお願いして、またの再会を約して楽屋に戻りました。

この先高校や大学で能楽部がある学校に入ったら、是非そこで能を続けてもらいたいものです。

その時にまた思いがけないタイミングで再会出来ると嬉しいですね。

構えた時の”爪先”

今日は江古田稽古でした。

夕方に仕舞稽古にいらした方は、前回まで「桜川」、今日から新しく「岩船」の仕舞を始める事になっていました。

稽古を始めようとすると、その会員さんから、

「岩船のような強い曲は、構えは爪先を開いた方が良いのでしょうか?」

と質問されたのです。

半ば好みの問題かもしれないのですが、私は「爪先を開いて構える」というのはしないようにしています。

“柔らかい”仕舞では足を揃え気味で、”荒い”仕舞では腰を深く入れてやや足を開いて構えます。

しかしどちらも両足は平行にして、爪先は開かないように意識して構えているのです。

腰を入れて力を込めて構えた結果、少し爪先が開いて見えるくらいは良いと思います。

でも開き過ぎると”ガニ股”になって、見た目が美しく無い気がします。

「鬘桶」に座っている時も同様で、足先は常に平行になるように気をつけております。

ただ古い舞台写真などを見ると、明確に爪先を開いて構えているものがあるので、やはり個人の考え方や、時代によっても構えは微妙に変わるのかもしれません。

「ほおり」と「ホーリー」

昔「井筒」の謡を初めて辰巳孝先生に稽古していただいた時の事です。

シテ謡の出だし「暁ごとの閼伽の水」

で、「閼伽(あか)」はなんの事か知ってるかい?

と先生に聞かれたのです。

もちろん当時は知らず、「いえ、わかりません」と即答しました。

すると先生は、

「閼伽は元々は”アクア”と同じ語源だよ。だから”閼伽の水”というのは本当はおかしいんだ。”水の水”になってしまうからね」

と仰いました。

謡本の中の言葉とラテン語が同じ語源とは新鮮な驚きでした。

その後も「鳥居」の語源がストーンヘンジの三角柱”トリリトン”であるという説を歴史ミステリーの本で読んだりしました。

今では、意外な語源に繋がっていそうな日本語を見つけると、つい色々と語源を想像して楽しんでしまいます。

今日これを書いたのは、昨日松本稽古場で「三輪」の謡稽古をした時に、やはりそんな言葉があったからです。

「三輪」後場の最初の地謡に、

「ただ祝子が着すなる」

という言葉が出てきます。

“祝子”は”ほおりこ”と読み、「神職」を意味するそうです。

そして「holy」という英語は、名詞だと「聖人、聖者」を意味するのです。

“ほうり”と”ホーリー”

もちろん全く関係ない言葉なのでしょうけれど、響きと意味がこれほど似ていると、もしかしたら同じ語源かも…

あるいは、「神聖なる存在」を「ホーリ」と呼びたくなる、何らかの理由があるのだろうか…

などと想像して、ひとり楽しい気分になってしまうのです。

山々に守られて

今日は雨のパラつき出した東京を昼過ぎに出て、特急あずさで松本稽古に向かいました。

下諏訪あたりまでは降ったり止んだりだったのですが、トンネルをひとつ抜けて松本盆地に入ると雨は上がっていました。

水の入った田圃に空の薄青色が写って、瑞々しい初夏の風情があります。

松本は山に囲まれているので、雨も雪もその山々に遮られて、ひどくは降らないのです。

数年前の「松本城薪能」でも、台風の接近で舞台中止かと思いきや、ギリギリで天候が持って能「鵺」をなんとか舞えた記憶があります。

実は今年も8月8日に「松本城薪能」が開催予定です。

宝生和英御宗家がシテを勤められる能「紅葉狩」と、私がシテを勤めさせていただく能「経政」が出ます。

今回も天気だけが心配ですが、松本盆地を囲む山々に守ってもらい、なんとか舞いたいと思います。

採れたてアスパラガスと老舗お味噌

昨日は松本稽古でした。

北アルプスの麓でハーブ作りなどをされている松本澤風会会員さんご夫婦が、今回は「アスパラガス」を持って来てくださいました。

大人の指程の太さのとても立派なアスパラガスが10本ほど。

私「これはどちらで採れたものですか?」

会員さん「うちで採れたものですよ。少し茹でてそのまま食べてください」

なんと、自家栽培の採れたてアスパラガスとは大変美味しそうです。

東京に帰ってから早速食べてみることにしました。

シンプルにアスパラガス、味噌、マヨネーズです。

実はちょっと調べたら、「アスパラガスは茹でても良いけれど、電子レンジ500Wで2〜3分チンすれば栄養素が逃げずに全部食べられる」とあったのでその通りにしてみました。

そして写真右手の”味噌”。

これはただのお味噌ではないのです。

やはり松本澤風会の会員さんに、松本城下で天保3年(1832年)創業の老舗味噌屋「萬年屋」の若おかみさんがいらっしゃいます。

この「萬年屋」のお味噌は、現代では省略されている「味噌玉造り」という工程を守り続けており、それが深い味わいを出しているという大変美味しいお味噌なのです。

この製法はなんと1300年前から続くものだそうです。

能楽がまだ黎明期だった頃から、現代まで綿々と受け継がれた製法。何かとても親近感を覚えます。

私も一度食べたらその深い味に他のお味噌が物足りなくなり、定期的に購入しております。

採れたての自家製アスパラガスと、昔から変わらない伝統製法で作られた老舗のお味噌の組み合わせです。

もちろん最高の味わいで、大地の恵みを余すところ無くいただいて大満足でした。

昨日はまた「小田原の蒲鉾」も頂戴して、こちらは今夜のお楽しみにしたいと思います。

時代も、国も飛び越えて

神保町稽古場の団体謡稽古では、曲が新しくなる度に、会員さんの一人が詳細な参考資料を作って解説してくださいます。

今は「昭君」を稽古していて、今日もその会員さんの解説を聞いてとても勉強になりました。

昭君は言わずと知れた中国のお話です。

しかし前シテツレの最初の謡

「散りかかる 花の木陰に立ち寄れば 空に知られぬ 雪ぞ降る」

は、実は紀貫之の歌

「桜散る 木の下風は寒からで 空に知られぬ 雪ぞ降りける」

が元になっているそうなのです。

また、クセの中の

「賢聖の障子に 似せ絵にこれをあらはし」

の”賢聖の障子”とは、なんと日本の御所の紫宸殿にある障子だそうです。

つまり能「昭君」の作者は、紀元前の中国のお話を、中世の日本人が理解しやすいように、巧みに日本の文物を取り入れて能に仕上げていたわけです。

現代でこれをやると、

「時代考証がなっていない!」

とクレームが来そうですが、能の作者は大胆に国や時代を飛び越えて曲を作っています。

それが結果的に「昭君」という曲のスケールを大きくしているように思えるのです。

やはり能は知れば知るほど新しい驚きと面白さがあると、今日の解説を聞いて再認識したのでした。

3日ぶりに謡うと…

昨日までの3日間、つまり5月4〜6日は全く謡を謡わない3日間でした。

三重県の実家で能とは関係ない家の色々な用事で動いていたのです。

こんなに長い時間謡わない事は滅多にない事です。(覚え物のために謡本は開いていましたが…)

今日は終日リモート稽古の予定でしたので、3日ぶりに謡を謡いました。

3日喉を休めたので、喉の調子が良くなっているのか、或いは逆に謡わない事で感覚が鈍っているのか。

謡ってみるまでわかりませんでした。

そして最初の稽古で謡い始めてみると…

まあ全然普段と変わりませんでした。。

3日くらいでは良くも悪くもそんなに影響はないようです。

しかし思い返してみると、去年は今頃から喉の調子が悪くなり、夏頃まで3ヶ月ほど全く声が出なくなってしまったのでした。

今年は今のところ普段通りなので、気をつけてこのままの調子を保っていこうと思います。