髪型

土曜日の澤風会に備えて、理容室に行って参りました。

先日の柏の幼稚園能楽教室で「チョンマゲじゃない!」と子供達に指摘されたのですが、能役者は明治以降は髷は結わず、現代風の髪型になっています。

私はと言うと、理容室で鏡の前に座ると「襟足を低目に刈り上げて、後は整える程度で結構です」とここ十数年間同じセリフを言っています。

あまり特徴の無いごく普通の髪型ですが、襟足を刈り上げるのは一応理由があります。

これは「尉髪(じょうがみ)」という鬘を被る時に役に立つ髪型なのです。

尉髪は白いので、襟足を伸ばしていると黒い髪が尉髪の下から見えてしまっておかしいのです。

大抵の能役者は尉髪を被る役の時にだけ刈り上げるのですが、私は理容室で色々注文するのが面倒なので、いつも決まった尉髪用の髪型に統一しているのです。

また能役者は髭も伸ばせません。顔に個性を出したい人には辛い職業かもしれないです。

個人的には、色々な役柄を演じる上では、顔はむしろあまり特徴が無い方が良い気がします。

髭や長髪は、役柄の上だけで楽しみたいと思います。

屋島と八島

先日八島の話を書いている時に思ったのですが、「八島」は今の日本地図では「屋島」と書いてあります。

能の曲名としては、観世流は「屋島」と書きますが他の四流では「八島」と書きます。

このように、地名や人名、また細かい言い回しが流儀によって微妙に異なる例は、実はとても多いのです。

曲名だけでも「加茂」と「賀茂」、「大原御幸」と「小原御幸」、「経政」と「経正」等々たくさんあります。

また「土は清劔」と「月は清劔」(清経)や、「その数一億百余人」と「その数一億百万余人」(鶴亀)といった、言葉の僅かな差異もよく見られます。

これには色々理由が考えられます。例えば、

①謡本を一番最初に作る時に、音を文字に変換する段階で流儀によって違う文字が充てられた。

②最初は各流同じ字だったのが、口伝や書写を繰り返す中で変化していった。

③流儀の主張として敢えて他の流儀とは違う言葉を用いた。

おそらく①③の理由が多いのだろうと思いますが、私にとっては②が興味深いのです。

何故なら録音録画機器の発達した現代以降は、②の変化が起こる可能性は非常に低いと思われ、それをむしろ残念に思うからです。

私は以前に「能楽とは壮大な伝言ゲームである」と言った事があります。

流儀による微妙な文字の違いは、正に能楽が生身の人間同士で伝承されて来た証拠のようで、それはとても尊いことのように思えるのです。

亀岡の花々

今日は亀岡稽古でした。

3月1日にも書いたのですが、亀岡には春の草花が沢山咲いています。

リュウキンカ

スハマソウ。早春に咲くので雪割草とも言われるそうです。

ミヤマカタバミ

前回よりも増えた福寿草の群落の向こうに、白く小さい花の群落はユキワリイチゲというそうです。

能「雲雀山」のシテは、山中で野の花を摘んで里に出て売り、幼い中将姫を密かに育てました。

当時の雲雀山の山中は、今日の亀岡のような花々が咲き乱れていたことでしょう。

もう少しすると、桜が咲き始めます。行く先々の桜の様子なども、また御報告したいと思っています。

来殿の装束

今日は水道橋の五雲会にて能「来殿」の地謡を謡って参りました。

「来殿」は宝生流以外では「雷電」と称されています。

加賀前田家に配慮した曲名と演出である、というお話は有名なので、今回はちょっと違う切り口で書きたいと思います。

内弟子の頃に「来殿」と聞くと、「ああ、中入が大変だなあ」と思いました。

「来殿」の後シテの装束付けは「雷電」後シテと比べてかなり手間がかかるのです。

指貫を履いて単狩衣を纏うという高貴な男性の出立で、「融」や「須磨源氏」と同じ格好です。これは数ある装束付けの中でも最も時間のかかるものの一つです。

ところが間狂言は「雷電」と同じ内容で、比較的短いものなのです。

という事は中入の楽屋は戦場か、或いはF1のピットインのような慌しさになってしまうのです。

今日も地謡座で間狂言を聞きながら、「もう終わりなのか、短いなあ。装束付け間に合うかなあ。」と思っていました。

しかし後シテは出羽の囃子に乗って、何事も無く雅やかに登場しました。

一曲を無事謡い終わって楽屋に帰り、仲間に「中入装束どうだった?」と聞くと「全然余裕だったよ。」との答えが返って来ました。

装束を付けた人が手練れだったのでしょう。

楽屋の事は出来て当たり前なので決してクローズアップされませんが、一曲の舞台を無事に終わらせる為に、楽屋でも日々また別のドラマが繰り広げられているのです。

八島の日

少し前にも書きましたが、明日3月18日は八島の合戦があった日です。

能「八島」の前半で、義経の化身の老人が「いで其の頃は元暦元年三月十八日の事なりしに…」と八島での戦物語を始めます。

その中で源氏方の三保乃谷の四郎と、平家方の悪七兵衛景清の「錣引」のエピソードが語られます。景清と三保乃谷が戦場で力比べをして、互いの剛力を讃え合う話です。

ここで興味深いことがあります。

「景清」という別の曲中で、老いさらばえた景清自身が全く同じ「錣引」を語っているのです。

ところが景清は「いで其の頃は寿永三年三月下旬の事なりしに…」と語り始めます。

平家の都落ちの後、元号は「寿永」から「元暦」に改まるのですが、平家方にとってはまだ「寿永」のままなのですね。

また義経は「三月十八日」と日付まで言っているのに対して、景清は「三月下旬」とのみ語っています。

何となく、「緻密な戦略家」の義経と、「剛力無双」な景清の性格が出ている気がして、これも興味深いです。

兼平と巴の所でも書きましたが、能に於いては同じ合戦の有様も、語る主体によって微妙に違う内容になっている事があります。

修羅物は多くあるので、それぞれ読み比べてみると面白いかと思います。

仕舞の作法:後編

昨日に続いて、仕舞の作法後編です。

今日は舞が終わって下に居をした所から、切戸に帰る所までです。

①扇を閉じて左手を扇の下に添え、立ち上がる。(扇を閉じて終わる仕舞では、左手を扇の下に添えてから立ち上がる。)立ったら扇は両手で持ったまま、腰の高さに下げて持つ。

②左足をかけて後ろを向き、最初に座った位置に戻ったら右足をかけて前を向いて、正座する。正座する迄は扇を両手で持ったまま。

③正座したら扇から左手を離し、右手だけで前に置く。左手は膝頭に置く。

④右手を扇の真中にずらしてから右に回す。右に回したら扇を持ち上げて、両手を添えて袴と帯の間にしまう。

⑤両手を袴の中にしまい、切戸方向(左)を向いて左膝を立てる。

⑥地謡に続いて、最後に帰る。

これで無事終了です。

非常に複雑な作法なのですが、これが正確に出来ると仕舞もより上手に見えるのです。

2人や3人が同時に舞台に出る時のやり方は上記の応用ですので、詳しくは師匠に聞いていただき、どうか正しい作法を身につけていただければと思います。

仕舞の作法:前編

澤風会東京大会が3月25日(土)に矢来能楽堂にて開催されます。

本番が近くなり、稽古も仕上げ段階に入って参りました。仕舞も大体皆さん完成して来たのですが、ここで意外とやっかいなのが切戸を出てから舞い始めるまで、また舞い終えてから帰るまでの作法です。

せっかく仕舞が上手でも、作法が間違っていると勿体無いので、今日明日2回で順を追って、仕舞の作法を確認したいと思います。

今回は1人で舞う場合を書いてみます。

①切戸から出る時は右足から。出たら一度両足を揃えてきちんと背筋を伸ばす。

②舞台の縦方向の中心線上の、舞台から横板1枚分位(15cm位)後ろを目指して斜め前方に歩き、その位置で前を向いて正座する。

③袴から手を出し、扇に両手を添えてから抜き、扇を右側に置く。置いたら両手はしまわずに膝頭に置く。

④地頭から「扇前へ」などの声がかかったら右手で扇の真中を持ち前に回す。

⑤右手を扇の竹の部分にずらして、仕舞で持つのと同じように持って膝の上へ持ち上げる。持ち上げたら左手を下から添える。

⑥両爪先を立て→左膝を立て→立ち上がる。立ち上がったら扇に両手を添えたまま、腰の高さで持つ。

⑦大小前(横板から1m位前)まで数歩歩く。可能なら左足から出て左足で止まる。

⑧扇から左手を離し、右足を一足引いて下に居。扇を開かない物はそのまま仕舞を始める。扇を開く物は、下に居してから改めて両手を持ち上げて扇を見ながら開く。

これで漸く仕舞が始まります。明日は終わった後の作法を書きます。

2件のコメント

青翔会

今日は国立能楽堂にて開催された青翔会に出演して参りました。

国立能楽堂の研修生を中心にした若手能楽師の発表会です。

私にとっては宝生流以外の流儀の若いシテ方と沢山会えたのがとても新鮮でした。

今日はシテ方では金剛流以外の、観世流、金春流、喜多流、宝生流が揃っていました。

これら五流のシテ方は、流儀が違うと同じ舞台に立つことはまず一生ありません。

しかし近い世代のシテ方達が、型や謡は違えど同じ能楽の道で頑張っている姿を見ると、とても励みになります。

彼らとは舞台上では決して交わることの無い能楽人生ですが、ごく近い道を平行に、同じ目標に向かって進んでいる仲間が沢山いると想像しながら、私は宝生流の道を歩んで参りたいと思います。

楽屋用語

先日ある舞台の楽屋で、内弟子が面白い失敗談をしていました。

彼は以前に楽屋で先輩から急に「へい!」と言われ、なぜ先輩は急に英語で挨拶を…とマゴマゴしていたらひどく怒られたそうです。

「へい」は「Hey」ではなく「弊」で、巫女さんなどが持つ御幣の事だったのですね。

楽屋で使う用語は、知らずに聞くと全然意味がわからないものが多いのです。例えば…

①ばす   ②ばね   ③もっとい   ④へなちょこ

等々です。わかるものはありますか?答えは…

①公共交通機関ではありません。「馬巣」とも「馬巣鬘」とも言われる、馬の尻尾の毛で作られたカツラの事です。

②スプリングではありません。「大口(おおくち)」と言う大きな袴の様な装束を履く時に、背中に固定して大口を引っ掛けるのに使う木製の器具の事です。「腰ばね」とも呼ばれます。

③「元結」と書いて「もっとい」と発音します。鬘を束ねて結ぶのに使う、和紙をよって紐状にしたものです。「白もっとい」と「黒もっとい」があります。

④これは宝生流オリジナル用語です。装束の下に着ける、明るい緑色の襟の事なのです。先先代の家元が、男ツレの使うこの襟の事を「へなちょこ」と呼んでいらしたそうなのです。「今度のツレはへなちょこでもよろしいですかね?」「うん、へなちょこで大丈夫だよ」という様に使われます。

この様に、我々能役者は謡、仕舞、作法の他に難解な楽屋用語も覚えることが必要なのです。

また何か面白い楽屋用語を思いついたら書きたいと思います。

舞台の作法

今日は月並能にて能「藤」の地謡を謡って参りました。

能における地謡と言うと、バックコーラスを謡うだけで、動きは無いと思われがちです。

しかし実は地謡も、舞台に一歩足を踏み出してから再び切戸に帰って来る迄に、様々な決められた動きがあるのです。

「作法」と我々は呼んでいます。

地謡座のどこに座るか、扇をどこに置いて、どのタイミングでどこに動かすか、何時扇を持って、それを何時下に置くのか、と言った作法は、全て細かく決められているのです。

ある意味で、自分の動きだけに集中出来るシテよりもむしろ気をつかう役割だと思います。

能の場合、8人の地謡がぴたりと作法を決めて動くと、それだけで舞台に良い緊張感が漲ります。

きちんと作法をして一曲を無事に謡い終えて、切戸に帰る時に見所からいただく拍手は、正座の足の痛みを忘れさせてくれる心地よい響きなのです。