私の謡の覚え方

以前のブログで、新幹線で謡を覚える話を書きました。

その時に具体的な覚え方は改めて、と書いたので、今日書いてみたいと思います。

あくまで私の個人的な方法です。

①覚え難いと思う曲の場合、本番2週間前位から本を持ち歩きます。

②最初は覚えるつもりでなく、本を読む感覚で1回だけ通して見て、その場は終わりにします。後は普通に文庫本を読んだりします。

③これを1週間位続けます。大事なのは、間違った謡は絶対に誦んじない事です。眼で見て合っている謡を、1回だけ集中して見ます。

④1週間前位からは、地謡を細かく区切って、区切ごとに今度は覚えるつもりで繰り返し見ていきます。

すると、前の1週間で頭に謡が少しだけ刷り込まれているので、不思議と半分位迄はすんなり記憶出来ます。

⑤更に繰り返していくと、本当に覚え難い苦手な部分が残されて、最終ターゲットがはっきりします。

⑥あとはその最後の敵(?)に集中して、覚え倒します。

⑦一度全曲記憶したと思っても、またポッカリ忘れる部分もあるので、翌日また同じ事を繰り返します。

間違った謡を一度も誦んじていなければ、本番で一瞬頭が空白になっても、咄嗟に合っている謡が出てくることが多いです。

…そうは言っても、舞台が重なる時などは、悠長な事をしていられないので④だけを必死でやる、という事もままあります。

「正座の痺れ」と「覚え難い謡」には、生涯悩まされる事になりそうです。。

「荒い」と「柔らかい」

「荒い」と「柔らかい」。

能では何に使う形容詞だと思いますか?

これは仕舞を形容する時に使うのです。

「荒い」仕舞とは、修羅や鬼神などがシテの動きの激しいものを指します。

「柔らかい」仕舞は、美しい女性や女神、或いは高貴な男性などがシテの、優美でゆったりした動きのものです。

私自身の考えは、最初のうちはこれらを交互に稽古すると、「荒い」型と「柔らかい」型がバランス良く上達出来ると思っています。

しかしこれも好みがあるので、例えば「天狗が好きなので、天狗がシテの曲をとりあえず全部稽古したい」という人もいます。

これはこれで有りだと思います。天狗物を究めた後に、全然違うジャンルの曲を稽古すると、芸の幅がそこで広がることもあります。

ちなみに今日の京都下鴨稽古場では、昨年船弁慶キリという荒い曲を舞われた方が、今度は柔らかい半蔀クセを稽古されました。

今回はこの選曲が良くハマって、船弁慶とは別の方が舞っているようなお淑やかな雰囲気になりました。

その旨をお伝えしたら、「いえいえ内面が伴ってないから〜」と謙遜されましたが、寧ろ内面的には変わらずに、演技で別人格を表現出来るのがすごい事なのだと思います。

お弟子さんが芸の幅を広げていくのを見ると、私は自分の事のように「おお!嬉しい!」と思ってしまいます。

明日もまた別の場所で稽古です。

「おお!嬉しい!」という瞬間が、明日もあると良いです。

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旧BOXの冬稽古

京大ではサークル活動の部室を昔から「BOX(ボックス)」と呼びます。

能楽部のBOXは一昨年までは京大体育館の裏手にありました。

立派な舞台がありましたが、エアコンは無く、冬は古い石油ストーブで暖を取っていました。

ところが私が現役の頃の京大宝生会の稽古では、「窓を閉め切って稽古すると、声が実際より大きく聞こえてしまって良くない」という理由で一年中BOXの窓を全開にして稽古する慣わしでした。

地謡座の真後ろは北向きの大きな窓だったので、冬は容赦無く北風が吹き込んで来ました。

石油ストーブは稽古中は殆ど役に立たずで、しかも大学支給の灯油が切れる時もありました。

この週末のような寒波では、BOXは本当に歯の根が合わない寒さでしたが、「謡って舞えば暖まる!」とガンガン稽古していました。

今のBOXは最新のBOX棟の地下に入り、前より更に立派な舞台とエアコンも完備なので、冬でも暖かく稽古出来るようになりました。地下なので当然窓は閉めて稽古しています。

今のBOXしか知らない世代も声は大きいので、旧BOXの窓全開稽古の意味は果たしてあったのか…?とも思ってしまいます。

しかしあれはあれで、鍛錬としては良い経験だった気がします。

懐かしい冬の思い出です。

高校生鑑賞能

今日は大阪で高校生鑑賞能がありました。

私は地謡で参加いたしました。

4年ほど前に始まった催しですが、運営がとても丁寧で素晴らしい企画です。

回を重ねるごとに観客が増えて、今回は正面はほぼ満席で、脇正面までたくさんの学生さんが来てくれました。

私は大学の能楽部でのみ指導しておりますが、関西には高校の宝生流能楽部もいくつかあって、その卒業生が大学でも能楽部に入ってくれる、という流れが出来てきています。

京大宝生会にもそんな学生がいて、「数年前、高校の時に高校生鑑賞能に行きました」と言っていました。

今日来てくれた高校生の中からも、大学に入って能楽部に入ったりして、長く能と親しんでくれる人が出てくれるととても嬉しく思います。

小川芳先生のこと

今日は今月初めての京大宝生会の仕舞稽古でした。

冬の寒い日に京大稽古に行く時には、私が京大時代に稽古を受けた小川芳先生のことを必ず思い出します。

当時小川先生は、同志社大、京都女子大、京大宝生会で、普段の仕舞稽古を一人で指導されていました。

身寄りは遠くに住む親戚だけで、京阪藤森駅前の団地に一人で住んでおられました。

小柄な先生でしたが、品のある端正な舞姿で、稽古もきちんと正確な型を熱心に教えてくださり、時には厳しく指導されることもありました。

また稽古以外でも、食べることとお喋りがとてもお好きで、我々現役部員やOBを事ある毎に食事やお茶に連れて行ってくださいました。

私の京大宝生会時代は小川先生を抜きには語れず、あの熱心な稽古が無ければ能楽師を目指す事も出来なかったかもしれません。

小川先生はもう20年近く前の1月の終わりに亡くなられました。

告別式は今日のような雪まじりの寒い日に、藤森の団地の小さな集会所でありました。

驚いたのは小さなその集会所から、藤森駅に向かって弔問客の長蛇の列が出来た事です。

大部分が小川先生に稽古を受けた学生とOBで、その数は雪の屋外にも関わらず、200人を越えていました。

何よりも我々学生の事を考えてくださり、学生の指導に捧げられたような先生の人生。

その事実がその時改めて、私の中に本当に強烈に印象付けられました。

京大宝生会ではまだまだお世話になった先生方がいらっしゃるので、また改めて思い出を書いて参ります。

曲名と名前

昨日はわりと真面目なお話をしたので、今日はゆるいお話です。

能の曲名と同じ苗字の方と出会うと「おお!」と驚いて、ちょっと嬉しくなってしまいます。

例えば「田村さん」だと、名前としてはそんなに珍しく無い気がしますが、澤風会には旧姓「田村さん」から結婚して「三輪さん」になった方がおられます。

因みに「田村」と「三輪」を舞囃子で舞われました。

また最近になって、「望月さん」と「高砂さん」が入会されて、特に「高砂さん」はちょっと驚きました。

「高砂さん」はいつか是非「高砂」をやっていただきたいのですが、「望月さん」はちょっとハードル高いですかね…。

私の会では無いのですが、他の人の会では「花月さん」と「猩々さん」にお会いした事があります。

能楽関係では無いのですが、これまで一番驚いたのが、京都でお会いした「雲林院さん」です。本名です。

皆さんの周りで、珍しい曲名と同じ苗字の方がいらしたら、どうか御一報くださいませ。

ちょっと似た話で、「能の曲名と同じ店名を見つけると嬉しくなる」という話もあるのですが、それはまた別の機会に。

一曲を一人で謡うこと

田町稽古場では、これまで稽古していた「海人」の謡が終わって、新しい「融」の稽古に入ろうとしています。

今日は一回分の稽古時間を使って、私が融を一人で一曲通して謡うのを聴いてもらいました。

これは江古田と田町の団体稽古だけでやっている事です。

私はこの「一人で一曲を通して謡う」という事には大切な意味があると考えます。

初心の方には勿論難しいのですが、つかえながら謡っているうちに、例えばクリ、サシ、クセ、ロンギとか一セイ、サシ、下歌、上歌と言った定型の謡が一曲のどこに出てくるのか、また謡方のパターンもわかって来ます。

上級の方でも、一人で沢山の役と地謡を謡う事で、より繊細な位取りが謡い分けられるようになって行くと思います。

更に、特に変則的な構成の曲の場合、一人で通して謡うと、その構成に秘められた作者の意図が見えてくることがあります。

何より、最初からずっと謡っていくと、曲のクライマックスに向かうにつれて独特の高揚感を感じることが出来ます。

この高揚感こそが謡の、能の醍醐味だと私は思うのです。

一曲稽古が終わったら、忘れないうちに通して一人で謡う事を是非おすすめします。

特に学生には事ある毎に、そうするように言っています。

もし謡ってみて詰まる所や気づいた事があれば、次の稽古でどうか気軽に質問してみてください。

「一人で通して謡って、ここがわかりませんでした」と質問されたら、私は多分相当嬉しそうな顔でお教えすると思います。

今井神社へ  後編

塩尻駅から広大な葡萄畑を抜けた先、アルプスの懐近くに今井地区はあり、その中にひっそりと今井神社がありました。

タクシーを降りて、人の気配の全く無い今井神社へ向かいます。


由緒書を読むと、別名兼平神社とも呼ばれて、およそ西暦1400年前後に兼平を祀るために建てられた神社のようです。

そしてこの地は兼平邸があった跡地との事。やはり兼平はこの今井地区に住んでいたのですね。

能楽が出来るのとほぼ同時期に建てられ、それから毎年の例祭と、五十年忌毎の大祭を欠かさずに今に至るそうです。


境内は綺麗に手入れされ、鳥居と本殿には立派な注連縄が張られています。

鳥居の向こうの瓦屋根は、これまた立派な神楽殿です。広さは三間×五間位はあります。

幸いに辺りに人影は無し、ここはひとつ兼平の仕舞を奉納…しようかと一瞬思いましたが、やはり遠慮しておきました。

社務所は固く閉じられており、誰もいないようでした。

例祭は毎年9月らしいので、今度は例祭に来て、宮司さんや地元の方に話を聞いてみたいと思います。

境内をひと回りして、本殿と、その左手にある兼平の墓所にお参りして、待たせていたタクシーに乗って今井神社を後にしました。

「いつか例祭で能兼平を奉納したい」と秘かに思いながら。。

今井神社へ  前編

今日は松本稽古。新宿から特急あずさに乗りました。終点松本まで、乗り換え無しで一本です。

でも今日は松本の前に、もうひとつ目的地がありました。

今井四郎兼平の出身地にあり、兼平自身を祭神とする今井神社に詣でたいと思い立ったのです。

色々調べた情報では、交通がかなり不便な所のようで、松本のひとつ手前の塩尻で下車してタクシーを使うしか無さそうです。

まあ東京は快晴でしたし、一昨日無事終わった能兼平の御礼参りには良い日和かと思っていました。

ところが、長野県に入って諏訪湖の辺りまで来ると、俄かに雪が降り出しました。結構な本降りです。

今年は行く先々で雪に見舞われるので、今回もまたか…という感じです。

塩尻で本降りならば、参詣は次の機会にしようかとも思ったのですが、諏訪からトンネルを越えて塩尻に着く頃には何とか小止みになってくれました。

塩尻で下車して、次のハードルは肝心の今井神社へのアプローチです。

駅前のタクシーに乗って「今井神社に行きたいのですが」と言うと、案の定「え?今井神社?」という返事で、運転手は全く道を知らない様子です。

仕方ないので、近くにある筈の郵便局の住所をカーナビで検索してもらい、とりあえずそこまで行こうと塩尻駅前を出発。

西に向かってアルプス方面に進んで行くと、やがて人家は消えて左右一面の葡萄畑です。

初夏にドライブかサイクリングするには最高の道でしたが、2月の今は寒々とした風景です。アルプスも雪雲に半ば隠れていました。

しばらくは人気がまるで無くて、不安になった頃、道はまた集落に入って来ました。

この辺りが「今井地区」のようです。

郵便局を過ぎて、それらしい木立を目標に走ってみると…

「あ、鳥居が見えます!」

今井神社に辿り着きました。

参詣の様子はまた明日。

地謡の目線

昨日の七宝会では能兼平シテのほかに、能小鍛冶の地謡をうたいました。

今日は水道橋宝生能楽堂にて立春能の能葵上の地謡に入りました。

私は地謡に座ると先ず、自分の視線をどこに落ち着かせるかを思案します。

能の地謡は前列後列の2列に並んで謡います。

後列の場合は簡単です。目の前にいる前列の紋付の背中にある紋をずっと見れば良いのです。

前列の場合、脇正面のお客様と正対するので、お客様と目が合わないように座席の角などに視線を合わせて、あとはそこから一切視線を動かさないようにしています。

たまにお弟子さんから「今日は澤田先生と目が合って困りました」と言われますが、私は絶対に見所の方とは視線を合わせないので、どうかご安心くださいませ。

そうは言っても、多少は眼を動かして、シテの様子などを確認したいと思う時もあります。

しかし数年前にある舞台の後で、当時面識の無い方に呼び止められて、「今日の地謡前列であなたが一番視線と姿勢を動かさずにいましたね」とお褒めの言葉をいただきました。

この後は一層強く、一度座って視線を決めたら終曲まで絶対動かさないと決めています。

しかし実はここに足の痺れという厄介な要素が加わって来るのです。。

目立たないように足を組み替えて痺れを克服しつつ、姿勢と目線を保つのは私の永遠の課題です。

この痺れとの付き合い方については、また別の機会に書かせていただきます。