840年前の今日

能「敦盛」、「忠度」、「箙」など色々な曲の舞台となった「一ノ谷の合戦」。

旧暦の寿永3年2月7日にあった源平の戦です。

これを西暦に直すと、1184年3月20日。

つまり840年前の今日にあたるのです。

今日は関西の稽古日だったので、夕方に終えてから思い切ってその「一ノ谷の合戦」の舞台まで足を伸ばしてみました。

三ノ宮駅で降りて北に向かう道は「イクタロード」。

その先に見えているのは…

生田神社です。

楼門のすぐ手前の左手に、本日の一番の目的の木がありました。

そう、「箙の梅」です。

きっとこの梅の何代か前の先祖を、梶原景季が手折って箙に差したのでしょう。

840年前には満開だったはずですが、現代の3月20日では勿論花は全く残っていませんでした。

拝殿にお参りして、その裏手にある「生田の森」に向かいます。

この森で平敦盛の霊が、息子とつかの間の再会を果たしたのでしょう。

今日の謡蹟散歩はここまで。

昨日の本郷界隈とは打って変わって慌ただしい行程でしたが、ちょうど840年前のこの日この場所に想いを馳せる事が出来て非常に感慨深い時間でした。

本郷界隈を抜けて

今日は水道橋宝生能楽堂に用事があり、時間に余裕があったので三ノ輪から歩いていこうと思い立ちました。

自宅から能楽堂へはしばしば歩くので、いつもコースを変えています。

今回は日暮里繊維街から谷中墓地を抜けて、東京芸大の手前で右折して不忍通りに降りていきました。

そこでふと、「東大本郷キャンパスを通っていこうか」と思いました。

不忍通りから少し入った所に小さい門があり、芸大にいた頃東大病院に用事があり、何度か通っていたのです。

久しぶりにその「池之端門」をくぐろうとして、目の端に「弁慶」という文字が入ってきて思わず立ち止まりました。

なんとこの井戸はその昔義経一行が奥州へ落ち延びる途中で、武蔵坊弁慶が発見したという「弁慶鏡ヶ井戸」だそうなのです。

まさか東京の真ん中、東大キャンパスのすぐ横に弁慶に纏わる史蹟があるとは驚きでした。

芸大の頃は全く気がつきませんでした。

キャンパスに入って本郷通り方面に坂を登っていきます。

途中「東大剣道部」「東大柔道部」の看板のある、とても味わいの深い重厚な建物などがありました。

更に行くとまた下り坂になり、坂を下りたところにはかの有名な「三四郎池」があります。

この池、元々は加賀藩ゆかりの庭園の一部で正式名称は「育徳園心字池」というそうです。

加賀藩と言えば能楽宝生流とは深い繋がりがあり、その後に能楽愛好家でもあった夏目漱石の小説から「三四郎池」と呼ばれるようになった訳で、この池は能楽と実は浅からぬ縁があったのですね。

三四郎池の周囲は木々の中の遊歩道になっていて、これは京大における「吉田山」に近い存在感だと思いました。

そして安田講堂に向かっていくと、途中で見慣れない格好で写真を撮っている人達を見かけました。

どうも大学院の卒業生のようです。

よく見ると安田講堂の入り口に「学位記授与式」とあり、どうやら明後日が大学院卒業式のようでした。

さっきの人達は前もって記念写真を撮っていたのでしょう。

そして赤門から本郷通りに出て、壱岐坂を下って宝生能楽堂に向かいました。

今日も色々と新しい発見があり、良い散歩道でした。

もう少し後の桜の時期にも歩いてみたいと思いました。

“千本の花盛り”とは?

今朝は松本の宿からリモートで「嵐山」の謡稽古をいたしました。

「嵐山の桜は、時の天皇が吉野の”千本の桜”を移植したものです」

と説明をしていて、ある別の謡が頭に浮かんで「あれ?」と疑問が湧きました。

その謡は「西行桜クセ」です。

クセの中で、

「千本の桜を植え置き その色を処の名に見する 千本の花盛り」

という一節があるのです。

西行桜を謡っている時には、何となくこの”千本の花盛り”とは京都の”千本通り”の事だと思っておりました。

しかし、「嵐山」に吉野の桜を移植して、尚且つ「千本通り」にも移植していたのでしょうか。

それでは都からちょっと離れた嵐山の桜の存在意義が薄れてしまうのでは…

と思い、ちょっと調べてみたのです。

結果は意外なものでした。

「千本通り」の名前の由来は、「千本の卒塔婆が立っていたから」

という説が有力だというのです。

しかし、別の説でやはり千本の桜が植えられていたからというものもあるそうで、真相ははっきりしないようです。

そもそも”千本の花盛り”とは千本通りの事では無い可能性もあり、そこもちょっと調べたのですが、京都にそれらしい桜の名所は見つかりませんでした。

「千本の桜を植え置いた」というのを地名の由来とした「千本の花盛り」…

いったい何処のことなのか、何か他に情報がありましたら是非お知らせくださいませ。

巴塚を訪ねて

今週土曜日の「五雲能」にて、私は能「巴」のシテを勤めます。

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なので今日の午前中の隙間時間に滋賀県膳所にある「義仲寺」を訪ねてみました。

ここには木曽義仲のお墓と、巴御前の供養塔があるのです。

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JRに乗って雨模様の京都を出発。

大津のひとつ先の「膳所(ぜぜ)」で下車します。

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難読駅名のひとつ「膳所」。

昔琵琶湖の新鮮な魚を宮中に献上した場所で、それが名前の由来になったそうです。

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膳所駅から「ときめき坂」というやや照れ臭い名前の坂道を琵琶湖の方へ降りていきます。

10分ほどで旧東海道に行き当たり、左折してすぐに「義仲寺」はあります。

周りには、昔ここで激しい戦があったとは思えないような、平和な住宅街が広がっています。

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境内には義仲の大きなお墓があり、

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その横にひっそりと寄り添うように巴の供養塔「巴塚」がありました。

説明書きには、巴はこの場所で義仲の菩提を弔った後に木曽で90歳まで生きたとあります。

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しかし能「巴」では巴は若い姿で現れるのです。

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私は想像しました。

…巴は長生きして死んだ後も、義仲と一緒に戦いたかったのではなかろうか。

そして若い姿で修羅道に落ち、そこで再び義仲と出会って永遠に戦い続けている。

そういう幸せもあるのかもしれない…。

そう考えると、なんだか無性に切なくなってしまいました。

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義仲寺の入り口横には、「巴地蔵」という地蔵堂がありました。

その中にいらっしゃる「巴地蔵」はとても優しい顔をしています。

おそらく義仲と共にいる時の顔なのだろうな…と思いつつ、お参りして膳所駅への帰路につきました。

蝉丸ゆかりの神社を訪ねて(後編)

前回のブログ更新以降に仕事が立て込んでいて、すっかり更新が遅くなりました。

先週に能「蝉丸」ゆかりの神社を訪ねた時の模様の”後編”をお届けします。

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国道161号線を大津から京都方面に歩いていくと、やがて道端に滋賀県発祥の「飛び出し坊や」が見えてきました。

しかし何か変です…

なんと飛び出し坊やならぬ「飛び出し蝉丸」でした。

そうです。

ここが最初の目的地「関蝉丸神社下社」だったのです。

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関蝉丸神社下社は、参道を京阪電車の線路が横切っているという面白い構造でした。

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境内には、能「蝉丸」にもでてくる”関の清水”

がありました。

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そして参拝を終えて帰ろうとすると…

鳥居の横で蝉丸さんが見送ってくれました。

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「下社」を後にして上り坂の国道を京都方面に少し歩くと、国道161号線はやがて国道1号線と合流します。

道の向かいに紅い鳥居が見えてきました。

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「関蝉丸神社上社」です。

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国道からすぐにかなり急な階段を登っていきます。

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階段の途中の踊り場には「蝉丸」の額が。

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小ぢんまりとした本殿に参拝して、時計を見るとまだ時間に余裕があります。

3箇所目の「蝉丸神社」まで足をのばす事にしました。

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国道1号線をまた京都方面に上っていくと、まずは「逢坂山関趾」の碑を見つけました。

ここを境に国道1号線は京都方面に下っていく道になります。

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この関趾の碑のすぐ先に「蝉丸神社」がありました。

距離感から考えると、蝉丸が捨てられた場所と一番近いのがこの「蝉丸神社」なのではないでしょうか。

この神社も急な階段の上にあります。

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そして立派な舞殿の向こうに本殿がありました。

この本殿の正面に舞殿があるという構造は、実は「関蝉丸神社下社」、「上社」、「蝉丸神社」に共通の構造でした。何か意味があるのでしょうか?

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そしてこの舞殿が、3箇所とも実に「仕舞」を舞うのにピッタリの雰囲気でした。

なので最初の「関蝉丸神社下社」の舞殿で、仕舞「蝉丸」を奉納してしまおうかと本気で思ったのです。

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しかし、舞殿に上がる前に念のため辺りを見廻すと、なんと線路の向こうの日本料理屋さんからこちらが丸見えで、複数のお客さんと目が合ってしまったのです。。

舞わなくて良かったです。

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こうして無事に3箇所の神社に参拝して、京阪電車に乗って逢坂山を後にしたのでした。

もしもまた時間がとれたら、今度は京都側から逢坂山に向かって「逆髪」の気分を味わってみたいと思います。

蝉丸ゆかりの神社を訪ねて(前編)

先日もブログでお知らせいたしましたが、私は12月26日の「第2回七葉會」にて能「蝉丸」のシテを勤めます。

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蝉丸ゆかりの場所が京都と滋賀の境の辺りにあるので、本番までに一度訪ねてみたいと思っていました。

そして今日は、亀岡での稽古の開始が午後からで午前中が空いていたのです。

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今日行こうと思い立ってはみたものの、実は「蝉丸」の名を持つ神社は複数あるのです。

「関蝉丸神社上社」

「関蝉丸神社下社」

「蝉丸神社」

の3箇所です。

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迷った末に、京都から一番行きやすい「関蝉丸神社下社」に先ず行って、時間があれば「上社」と「蝉丸神社」にも足をのばそうと決めて出発しました。

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京都からJRで僅か10分で大津駅に到着します。

駅前の地図の左下の角に「関蝉丸神社」の表記がありました。

駅からの距離は630mだそうです。早速歩き出しました。

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関蝉丸神社下社は国道161号線の側にあります。

大津駅辺りの国道161号線は、古い街道の面影を残す道でした。

そこを歩いていると、気になるポスターが。

蝉丸は芸能の神様として祀られていると聞いてはいましたが、このような”生きた”行事が定期的に開催されているのは素晴らしいことです。

11月7日、行ける人がいたら是非行ってみてくださいませ。

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さらに街道を進むと、今度は気になる「銭湯」を発見。

「小町湯」

という名前を見て、そういえばこの辺りは能「関寺小町」の舞台にもなっていたな…と思い出しました。

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近くには「関寺」の名を冠するトンネルや…

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踏切も。

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「関寺」そのものは残っていませんが、銭湯の近くにその跡と言われるお寺を見つけました。

百歳の老女となった小野小町をシテとする「関寺小町」は、数ある能の中でも秘曲中の秘曲と言われます。

私が舞える可能性は限りなくゼロに近いですが、一応安養寺にお参りしておきました。

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この後いよいよ関蝉丸神社下社に向かうのですが、その模様はまた次回に。

いとうせいこうの能楽紀行〜旅する殺生石〜ご紹介

本日10月9日より、「いとうせいこうの能楽紀行〜旅する殺生石〜」という番組が「能LIFE Online」にて動画配信されています。

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「いとうせいこうの能楽紀行」も今回で第4回になり、有り難いことに4回とも私がいとうせいこうさんと共にナビゲーターを勤めております。

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“旅する殺生石”という副題には、複数の意味が込められていると思われます。

「殺生石にゆかりのある土地を旅する」という意味と、

「殺生石になるまでの玉藻前の長い旅路を辿る」という意味です。

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玉藻前の行動範囲はユーラシア大陸から日本まで、そして紀元前1000年頃にはじめて出現してから、その痕跡はなんと3000年後の現代まで残っているのです。

今回の旅ではその時空をまたいだ長大な足跡を辿って、最終的には”殺生石の入手方法”まで紹介してしまいます。

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またこの番組では能楽紀行をご覧いただいた後に、上野能寛くんが演じる能「殺生石」を観ることが出来ます。

皆さま下のURLから「いとうせいこうの能楽紀行〜旅する殺生石〜」をご視聴いただき、スケールの大きな能「殺生石」の世界をどうかお楽しみくださいませ。

よろしくお願いいたします。

https://nohlife.myshopify.com/collections/streaming/products/%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%AE%E8%83%BD%E6%A5%BD%E7%B4%80%E8%A1%8C-%E6%AE%BA%E7%94%9F%E7%9F%B3

4月夜能「杜若」の動画配信

4月になってからは、昨年同様に稽古も舞台もめっきり減ってしまいました。

しかしそれでも全く活動していない訳ではありません。

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動画配信の企画に、ゴールデンウィーク前後にいくつか参加いたしました。

その内で4月30日に収録された「宝生夜能〜語り部たちの夜〜」について紹介させていただきます。

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今回の演目は能「杜若」シテ高橋憲正です。

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番組の最初には、いとうせいこうさんによる「杜若」の現代語訳を、声優の森田成一さんが朗読します。

森田成一さんは能装束を着けて、途中で”物着”を挟んでの長い朗読でした。

場面毎に繊細に変化する声色や、迫真の表現力に圧倒されます。

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そして朗読の後には、

「いとうせいこう能楽紀行〜東下り編〜」

が続きます。

ここに私が解説者として出演しております。

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「いとうせいこう能楽紀行」も3回目になり、私もその撮影スタイルにやや慣れてまいりました。

ただ今回は、4月30日に生放送で配信が始まるという事で、時間を20分前後にまとめる必要がありました。

舞台の前に大きなデジタル時計が置かれて、常に時間を気にしながら話すのは、また違った緊張感がありました。

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能楽紀行に続いて、いよいよ能「杜若」が演じられます。

そして能「杜若」の後には、業平に因んだ演目として仕舞「隅田川」もご覧いただきます。

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更に演能終了後には、宝生和英家元とシテ高橋憲正、声優森田成一さんの鼎談もあり、非常に充実した内容になっております。

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各地で緊急事態宣言が継続中で、活動が制限される日々が続きます。

能楽堂に足を運んで実際の舞台を観るのが難しい方も、是非この機会に動画配信で能楽を多角的に楽しんでいただければと思います。

どうかよろしくお願いいたします。

https://nohlife.myshopify.com/collections/streaming/products/4-30%E9%87%91%E5%A4%9C%E8%83%BD-%E6%9D%9C%E8%8B%A5-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E9%85%8D%E4%BF%A1

源氏供養の不思議

一昨日の土曜日に水道橋宝生能楽堂にて「五雲能」が開催され、私は能「源氏供養」を無事に勤めさせていただきました。

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緊急事態宣言下で席数を半分に減らしての開催でしたが、有り難いことにその半数の座席がほぼ満員でした。

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先日、能LIFEに載せるために「源氏供養」の短い解説を書いた時に、

この能は源氏物語というフィクションを書いたために「妄語の罪」に苦しむ紫式部の霊が、物語を供養するために舞を舞うお話。しかし、能「源氏供養」自体がまたフィクションなのであり、不思議な”入れ子構造”になっているのだ。

…というようなことを書きました。

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しかし更に深く考えると、この「源氏供養」という能の構造はもっと複雑なものである気がします。

…能「源氏供養」の作者自身が、源氏物語と紫式部の供養をしたくてこの曲を作ったのではないかと私は思うのです。

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能の中には「源氏物語」を題材とした曲がたくさんあります。

「葵上」「半蔀」「野宮」「玉葛」「須磨源氏」などなど…。

つまり世阿弥を筆頭とする能作者達は、「源氏物語」のおかげで数多の名曲を生み出すことができた訳です。

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そのお世話になった「源氏物語」を供養して、尚且つ作者の「紫式部」をリスペクトする作品をひとつくらい作るべきではないか、と考えた能作者がこの「源氏供養」という曲を書いたのではないでしょうか。

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更にまた、この「源氏供養」を舞う私自身も、これまで能役者として何番もの源氏物語関係の曲を勤めて参りました。

私もまた源氏物語には大変お世話になってきた訳なのです。

なのでこの「源氏供養」を舞うことで、能役者もまた源氏物語と紫式部への感謝と供養をしている気がするのです。

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「紫式部の霊」と「能作者」と「能役者」

今”源氏供養”をしている主体はいったい誰なのだろうか…?

何とも不思議な気持ちになる曲でした。

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…今日私は京都稽古の合間を縫って、北山紫野にある「紫式部墓所」に行って参りました。

そして千年以上前に生きたひとりの女性に、

「今まで色々な曲でお世話になりました。今後ともどうかよろしくお願いいたします」

と生きている人にするようにご挨拶をしてきたのでした。

紀伊半島巡回公演

昨日今日と、文化庁主催の紀伊半島巡回公演に出演して参りました。

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昨日は和歌山県の有田川に面した中学校での公演、今日は奈良の小学校での公演でした。

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校庭には”登り棒”や”吊りタイヤ”など、私の小学校にもあった遊具が並んでいて、とても懐かしい雰囲気の小学校です。

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そして公演会場の体育館のすぐ裏手には…

能「当麻」に出てくる「二上山」が聳えていました。

来る途中のバスの車窓からは「畝傍山」「耳成山」「葛城山」なども見られて、悠久の歴史を感じる巡回公演になりました。

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今日は私が能「黒塚」のシテを勤めて、終了後には装束のままで子供達からの質問を受ける時間がありました。

過去の巡回公演でも中々に鋭い質問が出て、油断ならないこの「質問コーナー」です。

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今回もやはり、

「鬼女はいつから”鬼”になったのですか?」

というような深遠な問いがあり、回答に四苦八苦いたしました。

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しかし、お囃子の体験コーナーでは逆に「小鼓と大鼓の皮の材質は何でしょうか?」というお囃子方からの質問に、

「アルパカ!」

と答えた子供がいて楽屋は静かに爆笑していました。

小学生とは面白いですね。

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今回の巡回公演はやはりコロナ禍の影響で何ヵ所かの公演が無くなってしまいました。

行けなかった学校、会えなかった子供達のことを思うと非常に残念ですが、せめて昨日と今日、ふたつの学校で公演出来たのは大変有り難い事でした。

関係者の皆様誠にありがとうございました。

またコロナが落ち着いたら、今回行けなかった学校でも公演が出来たらと思います。