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「獅子口」の締め方

今日は宝生能楽堂にて五雲会が開催され、辰巳大二郎さんが能「石橋」の披きを無事に勤められました。

私もその地謡を勤めさせていただきました。

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「石橋」のシテは「獅子」ですが、この獅子は他の曲には無い極めて特殊な動きをします。

その動きのひとつが、「首を激しく振る」というものです。

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歌舞伎の獅子になると、紅白の頭を振り回す「毛振り」と呼ばれるより派手な動きになりますが、能ではその場で左右にブンブンと顔を切ります。

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また一方、能「石橋」のシテは「獅子口」というこの曲専用の面を掛けます。

この「獅子口」という面は、数ある能面の中でも最も大きく、最も重たい面なのです。

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そんな重い「獅子口」を掛けて激しく首を振ると、面がズレてしまいそうです。

そうならない秘密は、実は「面紐」にあるのです。

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能面の両目の横あたりには穴が開いています。

通常はこの左右の穴に面紐を一本ずつ通して、頭の後ろで結んで固定します。

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しかし能「石橋」においては、「獅子口」の左右の穴に面紐を2本ずつ通すのです。

そして頭の後ろで高さを変えて2箇所で固定する訳です。

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しかもその面紐を他の曲と比べて非常にキツく締め上げます。

後見が面紐を締めていくと、「ギチ…ギチ…」と紐が頭に食い込む音が聞こえます。

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こんなに締めて大丈夫なのかな、紐が切れたりしないのだろうか、いや寧ろ頭が破裂するのでは…と、楽屋に入ったばかりの頃は本気で心配したものです。

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そしてそのように2箇所で縛った後に、最初に締めた方の紐を一度解いて、再び更に強く締め直すという念の入れようなのです。

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そこまで締めると、「獅子口」は最早シテの頭と一体化したかのように完璧に固定されます。

そうなればシテは安心して、思う存分左右にブンブンと頭を振れるという訳なのです。

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今日のシテ辰巳大二郎さんも、溌剌とした動きで頭を振っていました。

若さ溢れる清々しい獅子でした。

大二郎さんおめでとうございました。

最古の薪能「興福寺薪御能」

今日は奈良の興福寺薪御能にて、辰巳満次郎師シテの能「俊成忠度」のツレ藤原俊成を勤めて参りました。

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「興福寺薪御能」の発祥は西暦869年にまで遡るそうです。

その頃はもちろんまだ「能楽」は存在しておらず、「修二会」という儀式に大和猿楽の楽師が出勤していました。

その後猿楽が発展して能が生まれ、「修二会」の儀式から「薪御能」へと変わっていったようです。

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現代では全国各地で沢山の薪能が催されていますが、その元祖と言える舞台がこの「薪御能」なのです。

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橋掛りが舞台の裏側を通ってついていたり、地謡や囃子方が素袍裃に侍烏帽子を着していたり、また薪能の開始時に「独特の儀式」があったりと、おそらくとても古い能の型式を残している催しなのだと思われます。

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今日は残念ながら天候の関係で、野外ではなく雨天会場のホールでの開催になってしまいました。

しかし考えてみれば、いにしえの時代には「雨天会場」などは無かったはずです。

その時代の薪御能の主催者は、天候に一喜一憂させられてさぞかし大変ことだったろうと思います。

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先ほど書いた「独特の儀式」の中には、芝の上に敷いた何枚かの紙を下駄で踏んで、そこに水がしみ出てこないか確認する、というものもあるのです。

これは雨上がりの状況で何とか舞台を行おうとした時の苦心の名残りだと思われます。

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明日も行われる「興福寺薪御能」。

明日は野外で開催されるように祈っております。

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「ワサビ」と「氷」と「正座」?

今日は宝生能楽堂にて「能プラスワン」に出演して参りました。

天候の悪い中をいらしていただいた皆様、誠にありがとうございました。

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今回は京都大学大学院薬学研究科の金子周司教授をお招きして、「正座による”痺れ”の感覚」について色々お話を伺いました。

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我々の体内にある感覚神経には通称「ワサビ受容体」という痛み刺激センサーが存在するそうです。

そして実は「ワサビが辛い!」という感覚と「氷が冷たい!」という感覚と、「正座で痺れて足が痛い!」という感覚は、全て同じこの「ワサビ受容体」によって感知されているそうなのです。

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つまり「ワサビ受容体」の働きを抑制する薬が出来れば、「正座による足の痛み」は解消されるわけです。

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この薬の研究は、本来は正座ではなく「糖尿病治療薬」や「抗がん剤」などの難病治療薬の開発に繋がるものであり、金子先生の研究室は京都大学の中でも最先端を行く研究室のひとつなのです。

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今回は時間の制約もあり、限られたテーマのお話しか伺えませんでした。

しかし金子先生は例えば「茶道・華道」の関係者に招かれて、「足の痺れにくい畳」の開発に向けた会合に参加されたりと、まだまだ色々興味深いお話がありそうです。

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また私としても、今回の「能プラスワン」でようやく初めて「正座」というものに本格的に眼を向けた気がします。

今回は接触できませんでしたが、「日本正座協会」という素敵な名称の組織があることも知りました。

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「正座」を研究して、最終的に「どんなに長く正座しても絶対に立てる方法」を確立するための私の旅は、まだ始まったばかりなのかもしれません。

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今後は金子先生とも交流を続けて、出来れば「日本正座協会」とも接触し、「正座」というものに色々な角度からより深く迫って行きたいと思っております。

今日いらしていただいた皆様には、また何らかの形で続報をお伝え出来ればと思います。

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能「鵜飼」の思い出

今朝のニュースで「長良川の鵜飼が今日から始まる」というのを知りました。

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能にも「鵜飼」という曲があるのは周知の事ですが、私は「鵜飼」という単語にはまた特別な感慨を覚えるのです。

何故なら能「鵜飼」は、私が京大宝生会の指導を引き継いでから初めて学生に教えた能で、大変思い出深い曲だからです。

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もう10数年も前のことです。

当時能「鵜飼」のシテを勤めた金沢出身の部員の実家のお寺で「能合宿」をしたり、また彼がその実家のお寺から「僧衣」を借りて来て稽古用の装束にしたり、金沢の土産物屋で安く買ったいいかげんな能面を彫り直して稽古面に仕立てたり、前シテの持つ「松明」を私が手作りしたり…。

とにかくあらゆる点で試行錯誤を重ねて舞台を作り上げました。

私はまだ内弟子の頃で、型付や囃子の手付を見ながら危なっかしくあしらったりしたものです。

当日の装束付けや楽屋の仕事など、慣れないことばかりでとにかく必死でしたが、その分舞台が成功した時の達成感は格別のものがありました。

またその後数年にわたって出た何番かの能に繋がる「勢い」のようなものが、あの舞台で生まれた気がします。

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その時のシテと地謡のメンバーには、今の若手OBOGの稽古会の中心メンバーが揃っています。

思えばあの時「鵜飼」という一曲の能が成功したことで、私も含めた何人かの人生と、その後の京大宝生会の針路が大きく影響を受けたのだと思います。

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今日の鵜飼のニュースであの時の事を懐かしく思い出しました。

…しかし考えてみれば、私はまだ実際の「鵜飼」を見たことがありません。

当時何人かの部員が宇治川の鵜飼を見に行ったのですが、私は予定が合わなかったのでした。

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今年の鵜飼は今日から10月15日まで行われるそうです。

そして現在では、中秋の名月の日を除けば満月の夜にも鵜飼が行われるとのこと。

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今朝のニュースに気づいたのも何かの御縁。

機会を見つけて、何とか今シーズンに一度鵜飼を見に行きたいものです。

松山城二ノ丸薪能

昨日の青森から今日は遥々と四国松山に移動して「松山城二ノ丸薪能」に出演して参りました。

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今朝の東京は雨でしたが、羽田空港を飛び立つとすぐに雲を突き抜けて青空へ。

「水や空。空行くもまた雲の波…」という八島の謡が頭に浮かんできました。

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松山空港近くには刈入れ間近の麦畑が広がっていました。

昨日の「リラ冷え」から一転して「麦秋」の風景です。

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松山城に到着しました。

信州松本城とは対照的に、高い山の上に立つお城です。

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二ノ丸薪能の舞台です。

見事な石垣を背景に、新緑が溢れて覆い被さってきそうな舞台でした。

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本番まで時間があったので天守閣を見に行くと、松山城を築いた戦国武将で、賤ヶ岳七本槍の1人「加藤嘉明」のゆるキャラ版「よしあきくん」が出迎えてくれました。背後に聳えるのが天守閣です。

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この後本番に突入したので映像はここまでです。

夕方風が強くなって心配したのですが、18時の薪能開始時間になると嘘のように静かになりました。

「伊予の夕凪」と言って、午後6時くらいになると風が止まると地元の方に教えてもらいました。これもまた美しい言葉だと思いました。

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関係者の皆様の御尽力と、「伊予の夕凪」のおかげもあり、薪能は大変素晴らしい舞台になりました。

関係者の皆様どうもありがとうございました。

曽我兄弟ゆかりの里

昨日の古本市で購入した「曽我物語・物語の舞台を歩く」を早速パラパラと読んでみました。

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能「夜討曽我」において、曽我五郎・十郎兄弟は遂に念願の仇討ちを果たしますが、それは建久4年(1193年)5月28日の深夜の事でした。

私が夜能で「夜討曽我」のシテを勤めるのが5月25日。とても近い日どりです。

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本によると、この夜討があった「5月28日」に合わせて、曽我兄弟ゆかりの地では色々な行事が行われるようです。

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JR御殿場線の下曽我駅で降りると、その一帯がその昔「曽我の里」と呼ばれたそうで、曽我氏の菩提寺である「城前寺」があります。

この城前寺で、毎年5月28日に「曽我の傘焼き祭」が行われてきました。

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「傘焼き」とは、曽我兄弟の夜討の時に、兄弟に斬りつけられた人達が火のついた蓑や笠を投げ出して辺りを明るく照らしたというエピソードに因んだ行事だそうです。

前夜祭の27日には奉納謡曲大会も催されるとのこと。きっと「曽我物」シリーズが謡われるのでしょう。

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またJR身延線の入山瀬駅の周辺は古くは「駿河国小林郷」と呼ばれ、実は曽我兄弟が神として祀られている土地なのです。「曽我八幡宮」がその社で、近くには曽我兄弟を供養する「曽我寺」もあります。.この曽我寺を中心にして、5月下旬には「曽我まつり」が行われます。境内にある「曽我兄弟の墓」の前などで供養会があった後、「曽我八幡宮」、「五郎の首洗い井戸」、「虎御前(十郎の恋人)の腰掛石」などを巡る巡回供養があるそうです。.

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ともに5月25日の夜能が終わった後の行事なのが残念ですが、「曽我の里」がある下曽我や、「小林郷」がある入山瀬を、何とか本番までに一度訪ねてみたいと思っております。

本郷給水所公園

今日は水道橋宝生能楽堂にて「金春流宗家継承披露能」に出演して参りました。

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出番は宝生和英家元の仕舞「八島」の地謡一番だけで、滞りなく終わりました。

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早くに宝生能楽堂を出たので、少し謡を覚える為に寄り道をすることにしました。

宝生能楽堂横の「宝生坂」は度々ご紹介していますが、その宝生坂を登りきった突き当たりに公園があるのです。

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「本郷給水所公園」です。私は「水道公園」とも呼んでいますが、この公園はとても綺麗に整備されていて、私のお気に入りスポットのひとつです。

「都会のオアシス」という趣きなのです。

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今の時期は薔薇園が満開になっています。

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東京都内ではなく、どこかヨーロッパの庭園にでも行ったような気分になります。

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こんなに綺麗な薔薇園ですが、あまり有名ではないからか、連休中にもかかわらず人はそれ程多くありません。

その辺も大変好ましい公園です。

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薔薇はさすがに西洋風な名前ばかりで、かろうじて見つけた和風の名前の「しろたえ」という薔薇がありました。

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園内には菖蒲園などもあります。

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色々鑑賞しつつベンチで暫し謡本をお浚いしてから、帰路につきました。

皆様も宝生能楽堂にお越しの際は、この公園を覗いてみてはいかがでしょうか。

私がベンチで缶コーヒーを飲みながら、謡本もしくは文庫本など読んでいるかもしれません。

匂いが”聞こえる”

今日は綾部で行われた「大本みろく能」に出演して参りました。

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一年前の今日5月3日のブログにも書いたのですが、半屋外の舞台は今回も大変心地よい風が吹いておりました。

最後の能「巻絹イロエ」のツレを勤めたのですが、舞台の冒頭に常座でツレの謡が始まる頃にちょうど雲が晴れて日が射して来ました。

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ツレは都から熊野へと巻絹を持って向かう道中を、「帝の命令とは荷が重くて、安らぐ暇もないなあ」と嘆いているように謡っていますが、実はその旅を楽しんでいる節もある気がします。

折しも天気が快復して、私の視界の端では爽やかな青空が覗いています。

私は自分が冬晴れの下で熊野灘を望みながら、また苔むした熊野古道を踏みしめながら、どこか浮き立つように歩く心持ちで道行を謡いました。

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熊野に到着したツレは先ず「音無天神」に詣でます。

そこで冬梅の匂いに気がつくのですが、その時の表現が「や、冬梅の匂いが聞こえるな。どこにあるのかな?」というものなのです。

「匂いが聞こえる」というのは実に繊細で優しい表現だと思います。

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音も無く咲いている梅が、「私はここに咲いていますよ…」と小声で囁くように香っているイメージが湧いてきます。

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道行の内容と言い、このツレはとても豊かな感受性を持っている人だと思われて、私の好きなツレの1人なのです。

このツレのような旅がしたいものだなあと思いながら、実際は今日もまた時速200キロの新幹線に乗っての、超高速の東京への道行なのでした。。

夏も近づく…

今日は立春から数えて88日目、つまり「八十八夜」です。

この日に摘まれたお茶を飲むと、長生きするとか。

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私が京大宝生会現役だったはるか昔のこと、毎年八十八夜の頃には小川芳先生に連れられて、数人の部員と宇治茶の老舗を訪れたものです。

あまりにも昔のことで、そこでどんな行事があったのか殆ど思い出せませんが、茶摘みをした記憶は無く、ただとても美味しいお茶を何種類もいただいた覚えはあります。

お茶の葉によって適切な湯温があり、その温度で淹れたお茶は実に美味しいものだとそこで知りました。

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私は普段から稽古場でお茶をいただくことが多いです。

それはとても美味しいのですが、私が本当に心からお茶が美味しいと感じるのは、誰かとのんびり会話をしながらゆっくり飲んでいる時です。

丁寧に淹れられた日本茶を何杯もおかわりしながら、ぽつりぽつりととりとめの無い話をして過ごすのが、実はとても好きな時間なのです。

そんな時間も、相手をしてくれる人もなかなか無いのですが。。

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日本で最初にお茶を栽培したのは、能「春日龍神」のワキでもある「明恵上人」です。

師匠である栄西禅師が中国から持ち帰ったお茶の種を、明恵上人は先ず栂尾で栽培して、その後山城国の宇治に移植したということです。

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能「春日龍神」においてワキ明恵上人は、春日明神の御神託によって、中国大陸への渡航を断念します。

その中国大陸からもたらされた「お茶」を栽培することは、憧れの大陸に少しでも近づきたいという明恵上人の気持ちの現れだったのでしょうか。

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今しも新幹線の車窓から、静岡の茶畑のこんもりとした畝うねの連なりが見えています。

そういえば昔の新幹線で売っていたお茶は、蓋付容器の熱いお湯に、静岡茶のティーバッグを自分で入れて、暫し待ってから蓋に注いで飲むというものでした。

思えばあれは美味しいお茶でした。

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こんな風に書いていると、お茶が恋しくなって参りました。

京都駅でお茶を買って、山陰線に乗り換えて明日の舞台のある綾部に向かいたいと思います。

今日は正にお茶を飲みながらの会話のような、とりとめのないお茶の話になりました。

伊勢神宮の舞女さん

今日は久々に仕事で伊勢神宮に行って参りました。

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数年前に参拝した時に初めて「神楽」を拝見して深く感銘を受けたのですが、今日は再びその神楽を拝見することが出来ました。

4人の「舞女」さんが舞う「倭舞」も勿論綺麗なのですが、私が特に「これはすごい!」と思ったのは実はその倭舞が始まる前のことでした。

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「舞女」さんが2人ずつペアになって、三宝などを神前に供えていくのですが、その時の2人の一挙手一投足が実に美しくシンクロしているのです。

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舞を舞う時には、背後に雅楽が流れています。

4人の動きを合わせるのは、その雅楽のリズムを基準にすれば可能だろうと思います。

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しかし全くリズムが無い状態で、身長や体格の異なる2人の人間が完璧に同じ歩幅、歩数、タイミングで等距離を、しかも美しく移動するのはかなり困難だと思うのです。

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我々能楽の世界では、「後見」の動きに似たものがあります。

2人がかりで「一畳台」などの大きな作り物を運ぶ時、笛座と後見座から別々に立ってその作り物に到達するまでの歩幅、歩数、タイミングを見計らって合わせるのです。

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この「見るともなく横を見て、合わせるともなく合わせる」という技術は、私の場合内弟子で何年か修行してようやくわかって来たものです。

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ところがまたちょっと調べてみると、伊勢神宮の舞女さん達は高校卒業して間もなく研修期間に入り、半月足らず後には参拝者の前で神楽を披露するそうです。

これには本当に驚きました。

舞女さんの就業期間が僅か5年という特殊状況もあるのでしょうが、恐らく作法や舞の稽古が非常に厳しく、またその稽古への集中力が尋常ではないのでしょう。

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通常の見方とはかなりかけ離れた所に感銘を受けている私なのですが、あの伊勢神宮の神楽は、出来れば定期的に拝見したいと思っております。