亀岡の花々  5月

先日の亀岡稽古では、また今の季節の花々をいくつか見ることができました。

これは「河骨(こうほね)」という今では珍しい植物です。

睡蓮の仲間で、池沼や緩やかな川に生える水生植物だそうです。

家紋に「河骨紋」の様々なバリエーションがあり、検索すると面白かったです。

能装束の唐織にも「百合こうほね模様」というのがあったと記憶しているので、今度模様を確認してみたいと思います。

因みに東京渋谷にかつて「河骨川」という川があり、童謡「春の小川」のモデルがこの川だったそうです。もっと田舎の川を歌っているイメージだったので、意外でした。

蛍袋(ほたるぶくろ)です。蛍と同じ時期に咲いて、この花の中に蛍が入ると明滅する度に花が朧気に光ります。

蛍袋と蛍が同時に見られる幸運に恵まれた方は、是非トライしてみてください。

また郭公の飛来と同時期に咲く花を「かっこう花」と呼ぶことがあり、これは土地によって違う花を指すのですが、「ほたるぶくろ」も郭公花のひとつらしいです。

ほたるぶくろのラテン語名は「カンパニュラ」と言い、何となく銀河鉄道の夜の「カムパネルラ」に似ていると思って調べたのですが、共通点は明確に見つかりませんでした。

野薊(のあざみ)です。

中島みゆきのデビュー曲が「アザミ嬢のララバイ」ですが、この歌詞では「あたしはいつも  夜咲くアザミ」とあります。

なのでアザミは夜咲くものなのかと思っていたのですが、普通に昼間咲いていました。。

今回はこの辺で。

また次の季節の花々もご紹介したいと思います。

手品師の手法

先日とある場所で、間近に「手品」を見る機会がありました。

3本の紐が次々に長さを変えたり、繋がったり切れたりを繰り返す手品。

百均で買ったばかりのスプーンが、手品師の手の中でくねくねと曲がってしまう手品。

トランプのカードを当てる手品などなど。

何かタネを見つけようと思っても、至近距離で目を凝らしても全く怪しい動きはありません。

これは不思議なことだと思っていると、手品師が少しだけ解説をしてくれました。

「人間の眼には必ず死角があるので、どこか一点に観客の目線を集めて、その隙に素早くカードのすり替えなどをする」ということでした。

この「人の目の死角を利用する」という話は、実に腑に落ちるところがありました。

というのは、私も舞台上でこの手品師の手法を使うことがあるのです。

能の地謡で正座をしている時に、「如何に目立たないように足を組み替えるか」というのが実は重要な要素のひとつなのですが、私はここに「人の目の死角」理論を応用しているのです。(少々大袈裟ですが…)

つまり、例えば幕が開いてシテが出てきた時、およそ橋掛りの半ばくらいまで歩んで来た辺りで見所のほぼ全員がシテに気がつきます。

この瞬間にシテでは無く地謡をじっと見ている人は、余程の変わり者か地謡の大ファンだと思われます。

そんな人は先ずいないと仮定して、私はそこでちょっと足を直したりするのです。

しかし、偶にこの手法が通用しない恐ろしい舞台があります。それは「地謡の背後にも観客席がある舞台」です。

つい先日の「興福寺薪御能」などがそれで、舞台を地謡の後ろから観ているお客様が100人以上おられました。

こうなると死角は無くなってしまうので、心中「すみません!」と思いながら、出来るだけ控え目に足を組み替えるしかありませんでした。

「後ろからマジックを見られてしまった手品師の気持ち」というのは、こんな感じなのかなあと地謡座で密かに思ったのでした。

水暗き沢辺の蛍

京都鴨川は、出町柳付近で2本の河が合流して出来る川です。

北西から流れ来るのが「賀茂川」、北東の比叡山麓を伝い降る河が「高野川」です。

私は数年前に「高野川」沿いに部屋を借りていました。

ある初夏の夜、京阪出町柳駅に着いて地上に出ると、高野川へと降りる道に人が大勢出入りしています。

何かイベントかな、と思い信号を渡って覗きにいくと…

なんと高野川の河原には信じられない数の蛍が瞬いていたのでした。

私がこれまでの人生で見た中では一番多い、蛍の大発生が高野川で起こっていたのです。

その頃は行政の方針変更で、鴨川の流れに人工的な中洲を作り、そこに植物を生やして自然に近い川に変えているところでした。

借りていたマンションの屋上から見ると、出町柳から御蔭橋までの高野川がまるで天の河のように見えたものです。

そして翌年の同じ頃、蛍を楽しみに毎晩河原を覗いていたある日…

何の方針変更なのか、今度は中洲の草叢が突然全部刈り取られ、丸裸にされていたのです。ショッキングな光景でした。

勿論蛍はほぼ全滅で、弱々しく数匹が舞っているのみでした。

それから毎年、私はもうあの蛍の群舞は見られないのだと半ば諦めながらも、今頃になるとつい高野川を覗きに行きたくなってしまうのです。

実は昨日の亀岡稽古の後に、また高野川に行ってしまいました。

出町柳から御蔭橋まで、蛍はやはり1匹も見られません。

寂しさと、しかし今年もそれを確認できたという朧げな満足感を感じて、これもルーティンワークで御蔭橋から西岸に渡り、出町柳方面に戻る途中…

糺ノ森方面からの小川の流れ込み付近で、薄緑色の小さな光点が2つ、フワリと目の前を過ぎりました。

ああ、この厳しい環境を生き抜いて、まだあの蛍の子孫が生きて残ってくれていたのかと、しみじみ感動しました。

いつの日かまた条件が整ったら、あの天の河のような光景がまた見られるかもしれない。

そんな微かな期待を抱いて、たった2つの光点をしばらくの間、祈るように眺めていたのでした。

関西宝連良い舞台でした。

昨日の関西宝連はおかげさまで無事終了いたしました。

能楽堂デビューの新入生達は、一挙手一投足が実にぎこちない感じて、ガチガチに緊張しているのが手に取るようにわかり、それがまた何とも晴れがましい初舞台の雰囲気を醸し出して良かったです。

先輩達は、半年前の大会から比べて其々が一段高いレベルに上達していて、冬の間にきちんと稽古して来たのだなあと感心しました。

無本で長い素謡を謡う学校があったり、2人だけの部員が、ひとりはシテ、ひとりは地謡で頑張って仕舞を出したり、大変気迫のこもった舞台が沢山見られました。

最後には我々職分の番外仕舞があり、更にその終わりには附祝言を謡って終わる慣わしです。

今回の附祝言は、高砂の「千秋楽」でした。

附祝言はいつ謡っても気分が良いものですが、特にこの学生の舞台の最後に、学生全員とその御家族やお友達、関西のお弟子さん達やお客様がずらりと揃った所で謡う祝言謡は、関西の宝生流が一体になって盛り上がっていく感じがして、感慨も一入です。

今回はお客様にとても沢山いらしていただき、見所が一日中賑やかでした。

終了後の宴会で、隣の部屋の体育会系クラブの宴会が実に見事な盛り上がりで、こちらも負けじと大声で新入生の紹介などをしたのも、これまた如何にも学生の街京都という感じがしてむしろ良かったです。

学生の皆さん、本当にお疲れ様でした。舞台の大成功おめでとうございます。

見に来てくださった皆様、どうもありがとうございました。

次は来月6月24、25日の全宝連東京大会に向けて、また頑張って参ります。

あれは上見ぬ鷲の尾の寺  後編

二寧坂の「はろうきてぃ茶寮」を東に折れるといきなり急坂があります。


その坂を詰めると、今度は上の写真の長い階段が。
「1、2、3…」と数えながら登ると、109段で登り詰めました。するとそこには…

道路を挟んでまた階段が。今度は55段でした。
階段の先には…

瓦屋根が見えて来ました。

正法寺の山門です。ついに到着しました!
山門をくぐると…

なんとまた階段でした!
ひいひい言いながら52段上がると、ようやく本堂が。

草むした境内で、人気は全くありません。
お参りして振り返ると、京都市内の眺めが疲れを癒してくれました。

正法寺。階段好きな方には超おすすめです!

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あれは上見ぬ鷲の尾の寺 前編

江古田稽古場では、今団体の謡稽古で「田村」を稽古しています。

前半の所謂「名所教え」のシーンで、前シテ童子は清水寺の南には「歌の中山  清閑寺」があると教え、また北に鐘の音が聴こえると「あれは上見ぬ  鷲の尾の寺」だと言います。

清閑寺には小督の局の墓所があり、私も以前に参ったことがあるのですが、「鷲の尾の寺」は何処にあるのか、全く知りませんでした。

そうしたところに、江古田のお弟子さんが調べて下さって、「東山の正法寺(しょうぼうじ)というお寺がそうらしいです」と教えてくださいました。

平安時代に最澄が創建したお寺で、最初は「霊山寺」と称して、別称に「鷲の尾の寺」と呼ばれていたようです。

その後盛衰を繰り返して、明治以降は本堂など一部を残して規模が小さくなってしまったということでした。

これは一度行ってみたい!と思い、本日京大稽古前の僅かな隙間時間に思い切って正法寺を訪ねてみることにいたしました。

正法寺は高台寺の更に東方の東山山中にあります。

登り口は二寧坂の途中にありました。二寧坂は修学旅行生と外国人観光客で溢れかえっていました。

振り返ると「はろうきてぃ茶寮」があり、それが目印です。。

また振り返り、正法寺へのかなりの急坂を登り始めました。

(後編に続く)

明後日は関西宝連

明後日の土曜日は、関西宝生流学生能楽連盟自演会が開催されます。

第116回京都宝生流学生能楽連盟自演会と、第4回阪神宝生流学生能楽連盟自演会の共同開催です。

京都大学も、新入部員を3人加えて元気に参加いたします。

新入部員はやっぱり今年も個性的な面々です。

私の頃は、「いかにも京大生」の略で「イカキョウ」という言葉がありましたが、正にそんな感じの素敵な一回生達です。

一番早く入部した学生でもまだ芸歴ひと月程ですが、仕舞と素謡鶴亀の役謡を早速勤めます。

何しろ初能楽堂、初舞台なので、とにかく作法も含めて無事に終わってほしいです。

先輩達の方は、「謡い放題2時間コース、仕舞付き」を繰り返して頑張ってきた成果を存分に発揮してくれることでしょう。

京都大江能楽堂にて、開場10時50分、開演は11時です。

早くいらしたお客様は、少々お待ちいただくかもしれませんが、どうか御容赦くださいませ。

レッド扇!

澤風会では現在、4歳と5歳の男の子が仕舞の稽古をしてくれています。

京都の男の子が、最初は小さめの扇子で稽古していたのですが、宝生流の正式な稽古扇が欲しいという話になりました。

宝生流の扇には「子供用扇」というのは実は無いのですが、「素謡扇」という一回り小さな扇があります。

私も小学2年で稽古を始めた当初はこの素謡扇で稽古しておりました。

標準的なデザインだと白地に五雲が描いてあるのですが、雲の色が青、赤、緑、紫とあります。

何となくの私の先入観で、「男の子は青か緑かな…」と思ったのですが、本人の希望を聞いたところ「赤がいい!」とのことなのです。

ちょっと驚いたのですが、考えてみるとテレビでやっている所謂「戦隊ヒーロー物」の主役は「レッド」に決まっています。

赤い扇の「ホウショウレッド!」というイメージなのでしょうか。

「赤は女の子、青は男の子」というのも凝り固まった古い考えかもしれないと思いました。

そして一昨日の松本稽古で、松本の男の子も「稽古用の正式な扇が欲しい」という話になったのです。

まだ何色が好みか聞けていないのですが、ちょっと聞くのが楽しみなのです。

郭公とホトトギス

昨日の松本稽古で、安曇野在住のお弟子さんが「庭にカッコウが来たのです。ビデオ撮影をしました!」と映像を見せてくださいました。

実は私は中学校の科学部時代から、鳥を見るのが大好きなのです。
しかし郭公については、鳴き声はすれども姿は見えず、という感じで今まで実物を見たことがありませんでした。

映像の郭公は、庭先の電線に止まって、はっきり姿を見せながら「カッコー」と鳴いていました。

郭公に関しては面白い話があって、昔の日本人は「郭公」と「ホトトギス」を同じ鳥と見ていたようなのです。

鳴き声は「カッコー」と「テッペンカケタカ」と全く異なり、大きさもホトトギスが一回り小振りなのにもかかわらずです。

能楽の世界でもこの「郭公とホトトギスの混同」が起こっている曲があります。

能「鵺」で、鵺退治をした源頼政に帝から「獅子王」という御剣が与えられることになりました。

先ず獅子王は宇治の左大臣藤原頼長に渡されます。

それをさらに頼政に与える為に、左大臣が階段を降りようとした所にちょうどカッコウが飛んで来ました。

それを見た左大臣頼長は「ほととぎす 名をも雲居に あぐるかな」と上の句を詠んで、獅子王とともに頼政に渡します。

御剣を受け取った頼政は、和歌の方も「弓張月の 射るにまかせて」と下の句を返して、大いに名を上げたのでした。

平安時代には「郭公」と書いて「かっこう」とも「ほととぎす」とも読んだらしいのです。

私の推測ですが、郭公やホトトギスが日本にやって来る今頃の季節は、山に青葉が繁って鳥の姿が見え辛くなります。

この為、鳴き声は「カッコー」「テッペンカケタカ」と異なっていますが、偶に見える姿が似ている郭公とほととぎすは同じ鳥だと思われていたのかもしれません。

因みに「頼長」は宇治の左大臣、「頼政」は後に能「頼政」のシテにもなる源三位頼政です。

こちらも混同しそうなのでどうか注意してください。

地謡の出で立ち

一昨日の土曜日は、正午から水道橋の五雲会にて能養老の地謡、夕方に奈良に移動して興福寺薪御能で能弱法師の地謡を勤めました。

興福寺に着いて地謡の出で立ちに着替えた後に、観に来てくれた京大生にバッタリ会いました。

すると彼は「おおっ」という感じでちょっと眼を丸くして、「先生その格好、良いですね!」

そう、興福寺薪御能では地謡は全員、「素袍裃に侍烏帽子」という格好になるのです。能「翁」の千歳に近いシルエットです。

「能の地謡」と一口に言っても、その出で立ちは時と場所などによって何種類か異なるのです。

これは流儀や時代によっても変わるので若干ややこしいのですが、現在の私に限って書いてみます。

①紋付に袴…これは最も多く着る組み合わせ。特別な条件が何も無ければ、本番の楽屋と舞台は基本この格好です。

②紋付に裃(かみしも)…宝生能楽堂では、「別会」と、1月の「月並能」の翁以外の曲では、紋付の上に裃を着用します。また所謂「披き物」という「石橋」「道成寺」「乱」でも裃を着ます。それ以外にも何かの記念や祝賀、或いは追善の舞台では裃で地に出ることがあります。地謡が裃で出て来たら、特別な舞台だと思ってください。

③紋付に素袍裃(すおうかみしも)と侍烏帽子(さむらいえぼし)…私の場合これは冒頭の興福寺薪御能の時に限って着ける衣装です。

④紋付に素袍長裃(すおうなががみしも)と侍烏帽子…これは一番の正装で、現在の宝生流では能「翁」の時に着用します。③の興福寺薪御能の組み合わせに、裃の袴が長袴(裾丈が脚よりも長く、裾を引き摺って歩く袴)になったものです。

①②までは1人で着られるのですが、③④になると着付のサポートが必要になります。ちょっと能装束に近い感覚ですね。因みに③④の時の囃子方は、舞台上で素袍の上を脱いでから囃子を勤め、曲が終わるとまた袖を通さなければならないので大変です。

このように地謡の出で立ちは舞台の格や曲目などによって変化するので、その辺りにも心を留めて観ていただけると、より楽しみが広がるかと思います。