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七草の日

今日1月7日は五節句のひとつ「人日の節句」にあたる日で、「七草粥」を食べる慣わしがあります。

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考えてみれば、私はもう長いこと「七草粥」を食べておりません。。

しかし京大宝生会現役の頃は、毎年1月7日に小川芳先生のお供をして亀岡の大本本部に「七草粥」をいただきに伺っておりました。

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お正月前後は普段にも増して不摂生をしていましたので、7日に食べる七草粥は如何にも胃に優しく感じられて、また数々の掛け軸や焼き物やお花などを拝見して、心身共に健康になっていく気分になったものです。

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能には「七草粥」は出て来ませんが、「七草」という言葉が出て来る曲はあります。

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少々意外な曲「求塚」です。

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曲の冒頭、早春の野原に可憐な菜摘乙女が4人登場して、華やかに「春の七草の若菜を摘みましょう」と謡うのです。

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そこから暫くの間は、乙女達が旅の僧と会話をしたり、菜摘み唄を歌ったりと、一見長閑なシーンが続きます。

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ところがこの曲は前半のロンギという部分を過ぎた途端に、3人の男女の哀しく凄惨な悲劇へとガラリと変貌してしまうのです。

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爽やかな七草摘みの光景を、その後の地獄の有様との対比として使ってしまうとは、随分思い切った演出だと思います。

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「求塚」は非常に難しく、大切に扱われる奥伝の曲ですので、私のような若輩者があまり長く話すのは憚られます。

しかしひとつ思い出した話があります。

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以前に読んだ、森田流笛方で京大宝生会OBでもある故帆足正規先生の文章に、ご自身が能楽に惹かれたきっかけについて書かれていました。

それは終戦直後の高校時代に、名人野口兼資師の能「求塚」を観たことだそうなのです。

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映画や舞台などを片端から観る毎日を過ごしていた帆足青年は、ある日殆ど予備知識も無く、初めての能「求塚」を観に行きます。

そして後シテが地獄へと真っ逆様に落ちていくシーンの野口師の型を見て「大地に引きずり込まれていくような力に圧倒され」、そこから正に能楽の世界へと惹き込まれてしまったということです。

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「求塚」は特別な舞台でしか出ない大曲ですが、もしチャンスがあれば是非一度ご覧くださいませ。

帆足先生のように、人生が変わる程の経験が出来るかもしれません。

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今日は「七草」に纏わることを、思い出すままにつらつらと書かせていただきました。

京大宝生会謡納め

今日は京大BOXにて、京大宝生会の「謡納め」がありました。

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京大では合宿最終日にも合宿課題曲5曲での「謡納め」がありますが、毎年末にやる謡納めは一年間に稽古した全10曲と、最初に「鶴亀」を謡うので計11曲。

これを一切省略無しに朝から通して謡うのです。

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今年は授業の関係もあり、ちょっと遅めの12月29日の謡納めでした。

私は謡納めに向かうべく、何も考えずに午前中に東京駅に向かったのですが、あえなく帰省ラッシュ真っ只中に飛び込んでしまいました。。

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何と東京駅の新幹線改札からホームに上がって新幹線に乗るまでに1時間以上かかるという信じられない混雑ぶりで、ようやく京大BOXに着くと半分以上が終わっておりました。。

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しかし年の瀬開催の分、仕事納めの終わった若手OBなども多数参加して、非常に活気ある謡を聴くことが出来ました。

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先日の関西宝連に風邪で出られなかった一回生も元気に参加していて、今日最後の曲「紅葉狩」では、関西宝連で勤めるはずだったワキを力強く謡っていました。

めでたくリベンジを果たせた訳で、その為に彼にワキの役をあてがったのかと思って聞いたら、「いえ、クジ引きでたまたまワキを引いたのです」とのこと。

そんな偶然もあるのかと驚き、一層めでたいことだと思いました。

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11曲を謡納めて最後に千秋楽を謡うと、18時半でした。

開始が朝9時だったそうなので、彼らは9時間半謡い通しだった訳です。

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謡納めの後には鍋が恒例なのですが、これは昨年同様に前部長の完璧な差配により、大変美味しい「キムチ鍋」と、辛味が苦手な人向けの「あっさり鳥鍋」が手早く準備されました。

前部長は予め自宅で、同じレシピで半分量の鍋を作って味見をしたというこだわりぶりで(鍋の申合をしました、とのこと)、今年の京大の一年を大満腹大満足で締めくくれました。

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現役からは来年一年の舞台の相談などもあり、京大宝生会も既に新年に向けて動き出しているようです。

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京大宝生会の現役とOBOGの皆さん、今年も色々お疲れ様でした。

来年もまた頑張りましょう。

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第5回関西宝連のご報告

今日は大阪能楽会館にて、第5回関西宝生流学生能楽連盟自演会が開催されました。

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大阪能楽会館は今年いっぱいで閉めてしまうので、これが学生達にとっても私自身にとっても、最後の能楽会館の舞台になります。

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また最後なのは能楽会館だけでなく、今日は4回生達の現役最後の舞台でもありました。

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その京大宝生会4回生5人を全員役に揃えた素謡「咸陽宮」や、卒業仕舞「山姥キリ」「玉之段」「車僧」は何れも大変見応えのある舞台でした。

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終了後の宴会で同志社の4回生が、「一回生の時に見た先輩の仕舞を、卒業仕舞でやりたいとずっと思っていた」と言っていましたが、おそらく今日のたくさんの卒業仕舞を見て、同じように思った下回生もいた事でしょう。

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下回生と言えば、今日は下回生も4回生に負けない程に頑張っていました。

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1、2回生だけによる素謡「紅葉狩」は、無本で20分以上謡う長い素謡でした。

それだけでもかなり大変な事なのですが、朝に楽屋に行くと、現役「実はワキの1回生が風邪でダウンして休みなのです…」

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なんと、ではワキだけ本を見て、誰か替わりに謡えば?

と言ってみたところ、

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「いえ。実は1回生の○○さんが無本で替わりに謡えると言っております。」

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おお、それはすごいけれど、当日ぶっつけ本番で大丈夫なのか?

地頭(2回生)「もしもの時は僕がワキ謡を付けるので大丈夫です。」

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さすが地頭、役謡も一通り頭に入っているようです。

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そして本番では、ワキ謡は全くノーミスで、全体として見ても1、2回生の枠を超えて大変見事な素謡でした。

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4回生が卒業してしまうのは淋しいことですが、来年再来年に繋がる力も確実に育っているのを実感出来た今日の関西宝連でした。

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4回生の皆さん、4年間お疲れ様でした。

しかしどうか卒業しても、何らかの形で能を続けていってほしいと心から願っております。

休息と復活

今日は枚方カトリック教会で植田竜二先輩の告別式がある日でした。

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私は東北での仕事があり、大変残念で申し訳無いことながらどうしても参列出来ませんでした。

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しかし何人かの方から式の様子をメールでお送りいただき、それを読むと本当に良い旅立ちだったのだなと思いました。

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聖堂に入りきらない程大勢の植田さんを慕う人達に囲まれて、京大宝生会OBが交互にシテ謡を謡っての「融」の素晴らしい謡も手向けられ、奥様と結婚式を挙げられた教会で、花に囲まれて旅立って行かれたとのこと。

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「ある人がどのように生きたのかは、その人が亡くなった時にわかる」というような意味の言葉を聞いたことがあります。

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植田さんは本当に良い人生を、最後まで植田さんらしく全うされたのだと思います。

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また式では、休息と復活というお話があったとのこと。

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植田さんもきっと生まれ変わって、また未来の京大宝生会を指導してくださるのでしょう、と石黒実都さんからのメールにあり、しみじみとその通りだと思いました。

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その時に京大宝生会がちゃんと続いているように、私がいる間は全力を尽くし、そして私がいなくなる時が来たら、次の誰かにきちんとバトンを渡していきたいと思います。

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植田さんどうかその時まで暫くの間は、天国でゆっくりとお休みになってください。

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植田竜二先輩のこと

今から50数年前の京大キャンパスに思いを馳せてみます。

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そこでは能楽部宝生会に入部したばかりの1人の青年が、「浮き立つ雲の行方をや」と鸚鵡返しを受けています。

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きっとその容貌は今の宝生会現役とどこか似通っていて、そして初めて謡に触れた喜びに眼を輝かせていたことでしょう。

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青年は現役の4年間を全力で駆け抜けて、卒業してOBになってからも熱心に稽古を続け、京大宝生会と京都の学生宝生流を見守りながら、ずっとずっと過ごして来ました。

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やがてその存在は学生クラブの範囲を超えて、関西宝生流全体に多大な影響を及ぼすまでになりました。

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しかしそれほど大きな存在なのにもかかわらず、あくまで飄々とした佇まいで、片手にグラス、片手はポケットに突っ込んで、ユーモアに富んだお話でいつも周囲を笑わせている、それが植田竜二先輩です。

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私は京大宝生会の現役だった頃から、植田さんには本当に一番お世話になりました。

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私が能楽師になりたいと言い出した時、川端今出川の小料理屋「紀州屋」にて植田さんと徳永、米澤両先輩より頂戴した貴重なアドバイスは、今でも肝に銘じております。

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内弟子修行を終えて「澤風会」を立ち上げる時には、「紫明荘」を稽古場として使えるように手配してくださり、澤風会の中心メンバーを紹介してくださいました。

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植田さん無くして、今の私と澤風会は無いと思います。

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その植田竜二さんと、このように早くお別れをしなくてはならないとは。

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つい先週末に植田さんのお見舞いにいらした方からは「穏やかな口調でいつまでもお話しておられました」と伺い、私も年内にもう一度お見舞いに伺おうと思っていたのです。

話したいこと、伺っておきたいことは沢山ありました。

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「第1回京宝連」に参加されたという植田さんは、この春の「第116回京宝連」の舞台を、大江能楽堂の最前列で最初から最後までじっと見つめておられました。

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そして来週の日曜日には「第117回京宝連」にあたる関西宝連が大阪能楽会館で開催されます。

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その舞台や見所には、植田さんの姿は無いかもしれません。

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しかし、「この世にいなくなった人でも、その想念は世に残っている」というのは能楽の重要な要素のひとつです。

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ならば植田さんの想念は、きっと次の日曜日にも、この先もずっと、学生の舞台と共にあると私は信じます。

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そしてまた私がこの世にいる間は、「植田竜二先輩という偉大なOBがいらした」ということを、宝生会の現役に語り継いでいきたいと思います。

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いつかどこかで、再びご一緒に謡えることを願いつつ。

植田さん、どうもありがとうございました。

三日会わざれば…

今日の京大稽古にて。

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私「では仕舞始めますか」

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2回生(副部長)「え〜七騎落の地謡は、○○さん、××さん、☆☆さん、△△さんです」

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七騎落を終えると次は…

2回生(副部長)「次の雲雀山の地謡は、□□さん、◇◇さん、●●さん、★★さんです!」

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おお、2回生がテキパキと指示しています。

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そして稽古が進んで夜遅くなり、何人かが帰る時間になると…

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2回生(部長)「一旦ミーティングします〜」

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おお、やはり2回生の新部長がきっちりと仕切っています。

更にそのミーティングでは…

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部長「何か話ある人いますか?」

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1回生「あ〜、新歓委員からですけど…」

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なんと、1回生も早くも仕事をする立場になっていたのですね。

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部長などの執行部学年を終えた3回生は、地頭にチャレンジして頑張っています。

そして4回生は、もう大学生最後の舞台を目前に控えて、貫禄すら漂わせています。

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「男子三日会わざれば刮目して見よ」は、三国志の話を基にした慣用句ですが、今日の稽古では正にその心持で、「みんないつの間に成長していたのだなあ」と瞠目したのでした。

卒業素謡

今日は先月の「能と狂言の会」以来の京大宝生会稽古でした。

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BOXに行くと、みんな次の「関西宝連」の舞台に向けてそれぞれ始動していました。

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春の関西宝連は「新入生のお披露目」という舞台で、初々しい仕舞や素謡鶴亀がたくさん出るのですが、冬の関西宝連は「卒業生の最後の舞台」という意味合いがあります。

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最上回生はいわゆる「卒業仕舞」や「卒業素謡」を、これまでの稽古の集大成として舞台に出すのです。

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私が現役の頃は、この舞台は12月なのに何故か「秋の京宝連」と呼ばれていたのですが、やはり卒業仕舞と卒業素謡が毎年出ておりました。

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最上回生の最後の仕舞は、各々の思い入れが深く込められていて非常に見応えがあるのですが、「素謡」にもまた思い出深い舞台がありました。

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私の二つ上の学年は、男子が3人でした。

この3人の先輩達が、秋の京宝連で卒業素謡「高砂」を、3人だけで謡われたのです。

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前半のシテ、ツレ、ワキの掛け合いの途中から始まり、位のあるシテ、その奥さんのツレ、颯爽と謡う神主のワキと、3人のキャラクターにぴったり合った配役でした。

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そして掛け合いが終わって所謂「四海波」の地謡だけを3人揃って気迫十分に謡い切り、さっと切戸に引いていかれたのです。

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全体でも5〜6分程度の短い素謡でしたが、その潔い雰囲気がなんとも格好良く、今でも強く印象に残っております。

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「卒業仕舞」に関しては、また色々思い出があるので改めて書きたいと思いますが、毎年この時期になると、「みんなもう卒業か、早いなあ」と、一足早く卒業の感慨にふけってしまうのです。

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今年はどんな舞台になるのか、また関西宝連がとても楽しみです。

あーめーあられーと…

昨日の京大「能と狂言の会」はおかげさまで無事に終了いたしました。

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1、2回生だけによる素謡「紅葉狩」が無本で、なかなか気合が入っていました。

舞囃子2番や仕舞、全員参加の素謡「咸陽宮」など、それぞれが上達して良い舞台になったと思います。

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終了後の打ち上げは、ここ数年決まって「お狩場」という信州料理屋さんです。

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実は偶然昨日が誕生日の部員がいて、乾杯の後しばらくしてからお祝いが始まりました。

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誕生日プレゼントの贈呈があったのですが、このプレゼントが何故か「プロポリスキャンディ」と「あられ入りのふりかけ」でした。

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この謎かけ、わかりますか?誕生日の部員は仕舞「田村キリ」を舞いました。

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…田村キリには「千の矢先、雨霰と降り掛かって…」という文句があるのです。

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「あーめーあられーとふりかかって」で「あめ」「あられのふりかけ」…。

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プレゼントを買ったのは合宿所の2階の部屋に「ヤの間」とか「ヤヲの間」などと名付けた部員です。

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若干オヤジギャグ気味ですが、みんな大盛り上がりでした。

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色々な委員や部長、副部長などの引き継ぎ挨拶などもあり、毎年のことながら1年は本当に早いものだと思います。

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「お狩場」の打ち上げも無事終わり、今年も歩いてBOXへ。

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しかしまだ時間が早めだったからか、BOXには宝生会だけしかいませんでした。

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しばし差し入れのお菓子など食べて喋っていましたが、私は日が変わるのを潮に帰ることにしました。

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私もオジサンなので、翌日を考えて自重することが多くなりました。。

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そして今日の下鴨稽古で、昨日一緒にBOXに行った若手OBのMくんに「昨夜はあれからいつまでBOXにいたの?」と聞くと、「え〜、朝までいました…」との返事が。

やはり若い!

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現役の皆さんお疲れ様でした。

そして応援にいらしてくださったたくさんの皆様、どうもありがとうございました。

今日は京大「能と狂言の会」です

今日は京都金剛能楽堂にて、京都大学能楽部の自演会「能と狂言の会」が開催されます。

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前身の「京都大学 学生能」から数えると、60年近い歴史のある舞台です。

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「観世会」「金剛会」「狂言会」「宝生会」で構成される「京都大学能楽部」。

入学した時点では同じスタートラインにいた新入部員達が、それぞれの会で稽古を重ねていくうちにその流儀の芸や各会のカラーに染まって、全く違う舞や謡をするようになります。

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そして年に一度、11月にあるこの「能と狂言の会」でそれらの部員達が一堂に会して、普段の稽古の成果を披露するわけです。

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私が現役の頃、当時の「学生能」の舞台を観ていると、観世会や金剛会にとても上手な人が何人かいて、目を見張った覚えがあります。

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流儀の主張や各々の個性は勿論ありますが、それを超えたところに「良い芸」というものが存在するということを知り、自分もそれを目指したいと思いました。

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舞台を終えて、各会に分かれての打ち上げの後、夜が更けた頃にBOXに再び全会が戻って来ます。

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早速昼間の舞台の映像を見る者、ひたすら酒を飲む者、麻雀を始めるグループなど、現役、OB、師匠も入り混じっての混沌状態が夜明けまで続きます。

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途中でまだ舞い足りない誰かが舞台で舞い出すと、同じ曲を違う流儀の誰かが横で舞い始めて、やがて三流競演になります。

地謡も三流同時に並んで謡い出すのです。

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舞台上でぶつかったり、譲り合ったり、いつまでも拍子を踏んでいる流儀があったりして、見所も大いに盛り上がります。

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そのような時にも、「この曲の文句は流儀によってこう違うのか」とか、「この仕舞は始まる場所が三流それぞれ異なるのか」といった新鮮な発見がありました。

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四つの会があるからこそ出来た京大時代の経験が、今の自分にとってとても大事な根幹を形作っているのだと感じます。

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今日これからの「能と狂言の会」がどんな舞台になり、現役達がそれぞれどんな経験を積んでくれるのか、非常に楽しみです。

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舞台の模様はまた明日に。

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辰巳孝先生の十三回忌

今日は故辰巳孝先生の十三回忌法要が大阪香里園の先生の御自宅で営まれる日でした。

私も勿論伺う予定にしておりましたが、朝起きると喉の痛みが増しており、どうやら熱も出て来たようです。

周りの能楽師の皆さんに、万が一にも風邪をうつすことがあってはなりません。

誠に申し訳ないと思いながら、法要欠席の旨を連絡いたしました。

その後風邪薬を飲んでうとうとしながら、辰巳先生のことを色々思い起こしてみました。

先生の思い出は実に沢山あるのですが、やはり私を能楽の道に導いてくださった出来事が先ず頭に浮かびました。

私が京大4回生の時、京大宝生会は11月の自演会で2年ぶりに能「春日龍神」を出すことになり、私は地頭を勤めました。

4年間の集大成であり、またその前年に能を出せなかった悔しさもあったので、私は夏以降は「春日龍神」にかかりきりになりました。

毎日春日龍神を謡い、また後半達に代わる代わる鸚鵡返しをするうちに、9月頃には最初のワキ謡「月の行方も其方ぞと…」から最後まで、無本で謡うようになりました。

そうして全力投球した自演会も無事終わり、達成感と脱力感でボンヤリと過ごしていた年末のある日。

小川先生から連絡がありました。

「澤田さん来年の七宝会の地謡に入っているけど、知ってはる?」

七宝会は辰巳先生が主宰されている関西宝生流の公式な定例会です。

私にとっては青天の霹靂で、詳しく伺ってみると、来年の予定番組で能「竹生島」の地謡の末席に私の名前があるとのことでした。

当時23歳の私のような若輩者が七宝会の地に入るなど、全く思いもつかないことでした。

小川先生「辰巳先生はちゃんと見てはったのやねぇ」

「春日龍神」の地謡が、あの辰巳先生に認められたということなのでしょうか。

私は素直に感動いたしました。

まだ玄人になることまでは考えておりませんでしたが、その時に「自分は辰巳先生の元でこれからずっと宝生流をやっていくのだ」と強く決意したのを覚えております。

その辰巳先生が亡くなられてもう十三回忌になるとは、まさに光陰矢の如しです。

この道に私を導いてくださった先生に心より感謝しつつ、今日は辰巳先生の思い出をゆっくりと考える日にしたいと思います。