今日は京大「能と狂言の会」です

今日は京都金剛能楽堂にて、京都大学能楽部の自演会「能と狂言の会」が開催されます。

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前身の「京都大学 学生能」から数えると、60年近い歴史のある舞台です。

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「観世会」「金剛会」「狂言会」「宝生会」で構成される「京都大学能楽部」。

入学した時点では同じスタートラインにいた新入部員達が、それぞれの会で稽古を重ねていくうちにその流儀の芸や各会のカラーに染まって、全く違う舞や謡をするようになります。

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そして年に一度、11月にあるこの「能と狂言の会」でそれらの部員達が一堂に会して、普段の稽古の成果を披露するわけです。

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私が現役の頃、当時の「学生能」の舞台を観ていると、観世会や金剛会にとても上手な人が何人かいて、目を見張った覚えがあります。

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流儀の主張や各々の個性は勿論ありますが、それを超えたところに「良い芸」というものが存在するということを知り、自分もそれを目指したいと思いました。

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舞台を終えて、各会に分かれての打ち上げの後、夜が更けた頃にBOXに再び全会が戻って来ます。

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早速昼間の舞台の映像を見る者、ひたすら酒を飲む者、麻雀を始めるグループなど、現役、OB、師匠も入り混じっての混沌状態が夜明けまで続きます。

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途中でまだ舞い足りない誰かが舞台で舞い出すと、同じ曲を違う流儀の誰かが横で舞い始めて、やがて三流競演になります。

地謡も三流同時に並んで謡い出すのです。

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舞台上でぶつかったり、譲り合ったり、いつまでも拍子を踏んでいる流儀があったりして、見所も大いに盛り上がります。

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そのような時にも、「この曲の文句は流儀によってこう違うのか」とか、「この仕舞は始まる場所が三流それぞれ異なるのか」といった新鮮な発見がありました。

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四つの会があるからこそ出来た京大時代の経験が、今の自分にとってとても大事な根幹を形作っているのだと感じます。

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今日これからの「能と狂言の会」がどんな舞台になり、現役達がそれぞれどんな経験を積んでくれるのか、非常に楽しみです。

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舞台の模様はまた明日に。

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辰巳孝先生の十三回忌

今日は故辰巳孝先生の十三回忌法要が大阪香里園の先生の御自宅で営まれる日でした。

私も勿論伺う予定にしておりましたが、朝起きると喉の痛みが増しており、どうやら熱も出て来たようです。

周りの能楽師の皆さんに、万が一にも風邪をうつすことがあってはなりません。

誠に申し訳ないと思いながら、法要欠席の旨を連絡いたしました。

その後風邪薬を飲んでうとうとしながら、辰巳先生のことを色々思い起こしてみました。

先生の思い出は実に沢山あるのですが、やはり私を能楽の道に導いてくださった出来事が先ず頭に浮かびました。

私が京大4回生の時、京大宝生会は11月の自演会で2年ぶりに能「春日龍神」を出すことになり、私は地頭を勤めました。

4年間の集大成であり、またその前年に能を出せなかった悔しさもあったので、私は夏以降は「春日龍神」にかかりきりになりました。

毎日春日龍神を謡い、また後半達に代わる代わる鸚鵡返しをするうちに、9月頃には最初のワキ謡「月の行方も其方ぞと…」から最後まで、無本で謡うようになりました。

そうして全力投球した自演会も無事終わり、達成感と脱力感でボンヤリと過ごしていた年末のある日。

小川先生から連絡がありました。

「澤田さん来年の七宝会の地謡に入っているけど、知ってはる?」

七宝会は辰巳先生が主宰されている関西宝生流の公式な定例会です。

私にとっては青天の霹靂で、詳しく伺ってみると、来年の予定番組で能「竹生島」の地謡の末席に私の名前があるとのことでした。

当時23歳の私のような若輩者が七宝会の地に入るなど、全く思いもつかないことでした。

小川先生「辰巳先生はちゃんと見てはったのやねぇ」

「春日龍神」の地謡が、あの辰巳先生に認められたということなのでしょうか。

私は素直に感動いたしました。

まだ玄人になることまでは考えておりませんでしたが、その時に「自分は辰巳先生の元でこれからずっと宝生流をやっていくのだ」と強く決意したのを覚えております。

その辰巳先生が亡くなられてもう十三回忌になるとは、まさに光陰矢の如しです。

この道に私を導いてくださった先生に心より感謝しつつ、今日は辰巳先生の思い出をゆっくりと考える日にしたいと思います。

京大OBの結婚式

今日は浜松で、京大宝生会OBの結婚式がありました。

私を含めて、宝生会OBも何人か参列させていただき、披露宴で仕舞を出しました。

色々新鮮な場面があり、とても良い式でした。

「人前式」というのは初めての経験でしたが、形式張らず好感が持てました。

また入場からずっと、新郎が仕舞の「かまえ」をしていたのが微笑ましかったです。

披露宴の余興として仕舞「加茂」をOB代表が舞った後に、サプライズで新郎自ら立ち上がり、「あら面白の音楽や〜」と仕舞「難波」を舞い始めて、会場も盛り上がりました。

そしてお色直しの後に洋装で登場した新郎新婦は、なんと大量のシャボン玉が舞う中を自転車に乗って会場に入って来て、これまた大喝采を浴びていました。

イメージ図↓

新郎新婦の出身高校の応援団の、どことなくユルい応援パフォーマンスも何とも味があり、肩肘張らない非常に心地良い時間でした。

最後の御両親に向けての新郎新婦の挨拶の後に、式場のスタッフで涙ぐんでいる人がいて、「この式場のスタッフは、自分の仕事に対して本当に真摯に向き合っているのだなあ」と感心しました。

新郎は1週間後の澤風会で仕舞を舞ってくれる予定なので、またそこで今日の話が色々出来ると良いです。

本日はおめでとうございました。

坪光松ニ先生の思い出

京大宝生会で私がお世話になった先生方で、冬の寒い日になると思い出すのが小川芳先生ですが、また夏の暑い日に思い出される先生がいらっしゃいます。

坪光松ニ先生です。

坪光先生には謡を教えていただきました。

先生は宝生流職分でありながら、大阪大学で教授までされていた、数学の先生でもありました。

その話を聞いて、高校で使っていた数研出版の教科書を見ると、なんと著者一覧に坪光先生の御名前もありました。

今も「数研出版  坪光松ニ」で検索すると先生の著書が出てくる筈です。

如何にも学者然とした、静かで知的な風貌の先生の謡は、しかし迫力と味わいに満ちた「本物」の謡でした。

また僅か一文字も疎かにせずに技巧を凝らした謡い方と、曲全体を見渡した正確な位取りには、「謡に微分積分の考え方が応用されているようだ」と感じたりしました。

先生の鸚鵡返しの謡は、たとえ相手が経験の浅い学生だからと言って、一切手加減の無いものでした。

今でも残っている当時のテープを聴くと、学生のまだ幼い謡に対して、先生は何度でも繰り返して正確無比な本物の謡を謡って下さっています。

私などは、相手に応じて「ここはまだ出来なくて良いかな」などと注意を先送りすることがままあるので、先生の姿勢には本当に頭が下がります。

実は数年前に渡独した若手OBのT君は、その坪光先生の鸚鵡返しのテープを繰り返し聴いて謡の勉強をしていて、ドイツにも持って行っていました。彼が坪光先生最後の弟子と言えるかもしれません。

今の現役達も、出来れば坪光先生のテープを聴いてほしいものです。

実際には先生に4年間フルに習ったのは、私の学年が最後でした。

先生が亡くなられたのは8月の暑い日で、葬儀は教会で執り行われました。

先生がクリスチャンだったのをそこで初めて知って驚きました。

また、教会なので当然謡は謡えず、「先生をお送りするのには、賛美歌よりも謡が良いのになあ」と内心思ったことを覚えています。

いつか坪光先生のあの鸚鵡返しのように教えられるようになるのが、私にとっての遠い目標なのです。