幼稚園能楽教室

今日は千葉県柏の幼稚園で能楽教室をやって来ました。この幼稚園ではもう7、8年前から続く教室です。

幼稚園というと、能楽教室を開催する年齢としては最年少です。1時間集中力を切らさずにやってくれるか、ちょっとドキドキしながら教室に向かうと…

「あ〜❗️侍だ‼️」「でもチョンマゲしてない〜❗️」好奇心のカタマリの子供達48人に出迎えられました。

始めてみると今年の子供達はとても優秀でした。

例えば悲しみを表す型「くもる」をやってみると、ちゃんとゆっくりと上体を倒して、笑わずにじっと止まって(意外と途中で笑ってしまう子供が多いのです)、またゆっくりと上体を起こして終わってくれるのです。

質問コーナーでは、いつも何故か出る「好きな果物はなんですか?」という質問に続いて、「どうして扇を挿しているのですか?」と言ったなかなか高度な質問も出ました。

また能面を顔にあてる体験では、「視界が狭くて見えにくいでしょう?」と聞くと意外な事に「見える〜!」「見えるよ〜!」と言う子供が多かったのです。

今年の子供達は能楽師向けかもしれないです。

最初と最後には正座して、正式な礼もきちんと出来ました。

一番最初に能楽教室を体験した子供達はもう中学二年生になるそうです。

この先の日本を背負っていく子供達に、少しでも素晴らしい日本文化を身につけていってほしいものです。

桃の節句と西王母

明日3月3日は桃の節句、雛祭りの日ですね。

桃の節句は能とどう関わりがあるのかを、ちょっと調べてみました。

桃が出てくる能と言えば「西王母」です。

実は西王母の誕生日が3月3日だそうなのです。

古代中国では3月3日に、御祓をした人型を川に流し、また邪気を祓う桃の枝を飾ったそうです。

この行事が日本に伝来して宮中行事の「曲水の宴」になり、奈良時代以降やはり3月3日に行われました。

西王母のキリの部分に「曲水の宴」という文句もあります。

3月3日を「桃の節句」と言うのは、西王母と深く関わりがあると思われます。

また現在のように雛人形を飾るようになったのは江戸時代以降との事です。

七段飾りのある御宅は少なくなってしまったと思いますが、三段目に飾る「五人囃子」とは能楽を演ずる楽師の事なのです。

並び方は能舞台における囃子方、地謡方の並びと同じです。五人囃子は西王母を演奏しているのかもしれないですね。

明日は雛人形の前で、「手まずさえぎる曲水の宴かや♪」と西王母を謡うのも良いかもしれません。

ただし能楽愛好家の女子限定ですが…。

3月になりました。

今日から弥生、3月です。

つい先日行った亀岡では、福寿草が咲いていました。

この時は曇り空で花が閉じていましたが、日が差すとみるみる花が開くそうです。

もう春だなあと思っていたら、今日行った北の町では…
駅前にこんな雪だるま(?)の力作が!

私の首丈までの大きさです。雪だるまというより、むしろ大阪のビリケンさんに近い気がします。。
こちらは高さ30センチの可愛い正統派。

東北はまだまだ冬なのでした。

日本は広いです。

マナーモード

私は乗り物の中でも良く寝られるのが特技のひとつです。

ところが昨日の早朝に乗った新幹線で仮眠していると、誰かの携帯の着信音で目が覚めました。

iPhoneの、ちょっと祭り囃子風のコミカルな着信音です(わかりますかね?)。

ずいぶん長く鳴ってから切れました。やれやれと思っていると、なんとこれが数分置きに断続的に繰り返されるのです。

持ち主は私の斜め前にいる茶髪の中年男性で、何故なのか決して電話に出ようとしません。見かねた近くの人が「マナーモードにしてよ」と言っても、これまた何故か無視しています。

ついに京都まで一睡も出来ませんでした。。

これも困った事でしたが、能楽堂での着信音はもっと深刻です。

5年前の事ですが、私の道成寺の披きの時に、乱拍子の最中に着信音が鳴りました。

乱拍子は無音の空白の時間が大切なので、これは全く参りました。

それ以来、自分がシテで無くても例えば石橋の「露ノ手」の所などでは「ここで携帯が鳴ったらどうしよう…」とドキドキしてしまいます。

ひとつの舞台はシテの稽古の積み重ねと、ワキ方、囃子方、狂言方、後見、地謡のそれぞれの力の発揮と、楽屋での見えない沢山の作業によって成り立っています。

それらの繊細な努力が、携帯着信音ひとつで崩れ去ってしまうことがあるのです。

これは能楽師にとっては実に怖ろしい事なのです。

お気に入りのメロディを着信音にするのは素敵な事だと思いますが、どうか能楽堂ではマナーモードにしていただくように、くれぐれもお願い申し上げます。

あと新幹線でも。

二枚の鏡板の話  最終話

京大能楽部新BOX  鏡板取り付け前

鏡板取り付け後

・鏡板の未来

京大宝生会OBで建築士の吉本先輩の御尽力により、練馬の渡雲会舞台から移送した鏡板は京大能楽部新BOXの壁にしっかりと取り付けられました。

渡雲会舞台で55年間渡辺先生の稽古を見守って来た鏡板が、今度はこの先50年ほど学生の稽古を見守ってくれるのです。

また江古田では同じ構図の鏡板の前で、私の澤風会と母親の郁雲会の稽古がこれからも続いて行きます。

個人的な話で恐縮なのですが、私はこの鏡板の前で人生最初の稽古をして、おそらく生涯最後かそれに近い稽古も、この松の前で終えることになる筈です。これもまた不思議な縁です。

そして私がいつか居なくなったその先も、願わくば沢山の人がこれら二枚の鏡板の前で稽古をしていってくれたらと思っています。

最後に鏡板の移送と取り付けに関わった全ての方々に感謝してこの稿を終えたいと思います。どうもありがとうございました。(了)

二枚の鏡板の話  その4

・鏡板、京都へ

その先の展開は、全く非現実的な程にとんとん拍子に話が進みました。

鏡板のサイズは、上下左右ともに京大新BOXの壁にぴったりでした。

大学側や他の能楽部の人達は「どうぞ自由に取り付けてください」との事(この京大全体を包む大らかな雰囲気が大好きなのです)。

鏡板の解体は、業者さんがなんと無償でやってくれる事に。但し梱包と輸送は自力でやる必要がありました。

そして澤風会十周年大会の稽古に明け暮れる日々に、何故かぽっかりと予定の空いた9月1日。

私はレンタカーの2tトラックを運転して、サポートしてくれる京大宝生会の現役2人(当時2回生のEさん、当時1回生のK君)と共に練馬の渡雲会舞台に向かいました。

3人で鏡板を大事に梱包して荷台に積み込み、昼前にいよいよ京都に向けて出発。

途中東名高速でゲリラ豪雨にあったりしましたが、3人で励ましあっての10時間程の東海道珍道中(?)の末、2tトラックは22時頃に無事京大新BOXに辿り着いたのでした。

夜更けのBOXでは現役部員たちが待っていてくれて、鏡板は大切に地下のBOX舞台に運ばれました。

色々な事が不思議に上手く運んで、鏡板は京大新BOXに到着しました。これはやはり渡辺先生が「鏡板、大事に持って行くんだよ」と、どこかでお力をお貸し下さったのだと思います。

(続く。思ったよりも長い話になりました。次回でこの話は終わりです。)

二枚の鏡板の話  その3

・鏡板移送作戦開始

渡辺三郎先生は93歳まで舞台に出られて、2013年7月に95歳で亡くなられました。能楽師としての天命を全うされた偉大な先生でした。

2015年7月に先生の三回忌追善の謡会が、懐かしい渡雲会舞台でありました。

そしてその謡会を最後に渡雲会舞台は閉める事にしましたと、お嬢様より報告がありました。

舞台と鏡板は何とか残せないか、と渡雲会会員の皆様も色々考えておられましたが、なかなか難しいようでした。私の家にも既に舞台も鏡板もあります…。

そこで私の頭に浮かんだのが、京大能楽部の新BOXでした。

新BOXはその頃ちょうど完成した所で、8月半ばに引越しすると聞いています。旧BOXには鏡板は無かったので、無論新BOXにも無い筈です。

ここに渡雲会舞台の鏡板を移設出来ないだろうか…。

しかし問題は山積みと思われました。

⚪︎鏡板の取り外しと移送の費用はいくらで、それを何処から捻出するか。

⚪︎鏡板のサイズは京大BOXに合うのか、また大学側や他の能楽部が鏡板の設置を許可してくれるのか。

⚪︎澤風会十周年大会を秋に控えて、果たして私自身が鏡板に関われる時間があるのか。

考える程にこれは無理な計画と思えて来ます。しかし8月末には舞台取り壊しという事で、ゆっくり考えている時間はありませんでした。

私の大好きなこの鏡板が生き残る為に、とにかく動いてみようと心に決め、京大のBOX引越しに合わせて先ずは壁の採寸に京都に向かいました。(続く)

二枚の鏡板の話  その2

・江古田舞台の鏡板

私は中学校に入る少し前に能の稽古を中断しました。

再び能を始めたのは大学で京都に行ってからです。それから色々あって能楽師になりました(その辺りはまた別の機会に)。

そして能楽師として渡雲会の初会(新年会と同じ意味です)に呼ばれた時に、渡雲会舞台の鏡板と久々に再会しました。

最初に見てから30年はたっていて、古色が出て風格が増していました。

その頃には色々な舞台の鏡板の松を見ていたので、明確に「この舞台の松は落ち着いて品があって、実に良いなあ」と思いました。

ちょうどその頃、江古田にある私の実家に舞台を作る話が持ち上がりました。

実家は普通のマンションで、私が小学六年生から大学入学まで過ごした場所です。

この3LDKの部屋の壁をそっくり無くすと、ギリギリ三間四方の舞台が作れたのです。

舞台を作る計画段階で母親は、「鏡板には渡雲会舞台を写した松を描きたい」と心に決めていたようです。

渡辺先生の御許しをいただき、複製は美大の日本画専攻の学生さんにお願いしました。

学生さん達は実に良く頑張ってくれて、あの松の落ち着きと品までも正確に写した江古田舞台鏡板が完成しました。

しかし一箇所、梅の枝が本物よりも大きく張り出している所があります。「一箇所だけ、独自性を出したい」との学生さんの意向で、この梅が江古田舞台の特色になっています。

その後、渡辺先生は2013年の夏に95歳の天寿を全うされました。

そして三回忌にあたる2015年夏、渡雲会舞台を閉めるという報せが来たのです。(続く)

2件のコメント

二枚の鏡板の話  その1

  ①江古田舞台鏡板②京都大学能楽部舞台鏡板(旧渡雲会舞台鏡板)

ここに二枚の鏡板があります。

よく見ると双子のようにそっくりなことに気がつくと思います。

①は当ホームページの最初に掲載されている、江古田舞台の鏡板です。

②は、現在は京都大学能楽部BOXにある鏡板で、日々学生の稽古を見守ってくれています。

この二枚の鏡板にまつわるお話を、何回かに分けて書きたいと思います。

・鏡板との出会い 

母親の師匠である渡辺三郎先生の御自宅には、立派な能舞台がありました。

練馬にあったこの渡雲会舞台は、1960年7月2日に完成したそうです。

私は小学二年生の時に母親の稽古のお供をして、初めて練馬の渡雲会舞台にお邪魔しました。

そしてそこで能と出会い、②の鏡板とも出会ったのです。

「これは素晴らしい松だ。」などと小学生が思う筈も無く、「何か松が描いてあるな」という程度の感想だったと思われます。

何度か母親のお供をするうちに興味が湧いたのか、私はこの鏡板の前で稽古を初める事になりました。

中学に入ると一度稽古は中断してしまい、この鏡板ともしばしお別れとなります。(続く)

今日は何の日?

今日2月22日は「猫の日」であり、「忍者の日」でもあるそうです。

残念ながら能には猫も忍者も出て来ません。

2月22日も能には出て来ませんが、能安宅のサシ謡に「如月の下の十日の今日の難を逃れ」という文句があります。弁慶が安宅の関で勧進帳を読んで難を逃れたのは、もしかすると今日だった可能性はあるわけです。

明確に日付が出て来る能もあります。例えば

3月15日は梅若丸の命日なので「隅田川の日」

3月18日は屋島の合戦があった「八島の日」

9月7日は光源氏が野宮の六条御息所を訪ねた「野宮の日」

…勝手に記念日を制定してみました。曲の何処に出て来るかは、皆さま探してみてください。

あまりお目出度くありませんが、私の誕生日は賀茂の祭の車争があった日なので「葵上の日」になりますかね。

他に能の中で日付を見つけた方は、どうかご一報くださいませ。