筋肉痛には…

週末の澤風会と別会で、普段使わない筋肉をよく使ったせいか、今朝起きるとひどい筋肉痛でした。。

手足の筋肉痛はおそらく昨日の道成寺の鐘後見で、前の人を力ずくで下に押さえていたからでしょう。

また背中から首筋にかけてもひどく凝っているのは、一昨日の澤風会で朝から夕方まで引っ切り無しに切戸を潜り続けたからだと思われます。

切戸というのは能舞台で橋掛りと反対側に付いている小さな扉で、ここから舞台への出入りは上体を低く屈めないと出来ないのです。

言ってみれば、一日中お辞儀を繰り返していた訳です。

暫く布団で唸っていましたが、ここで気がついたのが近所の銭湯の存在です。

私の住まいは東京下町なので、近くにまだ銭湯が多くあるのです。

幸いな事に今日は一日休みです。

という訳で夕方の早い時間から銭湯にゆっくり浸かって、筋肉痛をほぐして参りました。

久々の東京の銭湯で、近所のおじさん達の正調べらんめえ言葉を聞きながら大きな湯船に浸かるのは、大変心地よい時間でした。

明日からまた通常モードに戻って、稽古頑張りたいと思います。

道成寺の磁力

ずっと以前のテレビ番組で見たのですが、道成寺の鐘入りの瞬間、シテの脈拍は200を超えているそうです。

道成寺という曲はシテに極度の緊張を強いるという事の、ひとつの証明なのでしょう。

しかし道成寺という曲はシテのみならず、かかわる全ての人に特殊な緊張感をもたらす特別な曲なのだと思います。

シテ方で言えば地謡、後見、鐘後見。

それに加えてワキ方、囃子方、狂言方それぞれが等しく、道成寺を成立させる為に重要な役割を担っているのです。

また鐘を作る内弟子も、非常な責任感と労力を持って鐘作りをします。

これら各役割の中のどこか一箇所でも間違いが起こると、曲に重大な影響が出てしまうのです。

各人が等しくこのように濃密な関わり方をする曲は、ちょっと他には無いと思われます。

道成寺が始まって幕から鐘が出て来る瞬間、能楽堂全体が異様な磁場に包まれる感じがします。

これはこの曲に携わった全ての人間の独特な緊張感が合わさって、それが見所にも伝わって、居合わせた人の五感で感じることの出来るまでに高揚した結果なのだと私は考えます。

今日も水道橋の別会において道成寺がありました。

私は鐘後見の1人として、この神経が削られるような緊迫感を味わって参りました。

しかし道成寺はその緊迫感があるが故に、無事に終わった時の達成感、安堵感もまた特別なものがあるのです。

今日も幸いな事に、全ての苦労が報われる素晴らしい舞台となりました。

内藤飛能君、おめでとうございます。

澤風会御礼

おかげさまで澤風会東京大会が無事終了いたしました。

出演された皆さんそれぞれ、精一杯の力を出し切れた舞台だったと思います。

私は殆ど舞台上にいたのでご挨拶出来なかったのですが、沢山の方々にいらしていただいて、見所がとても賑やかでした。

本当に良い舞台は、見所と一緒に気が高まっていく気がします。

今日も大勢の見所のお客様と共に盛り上がっていく舞台がいくつかありました。

このような見所と舞台の熱い一体感を感じる時が、私は一番嬉しいのです。頑張って稽古して来て良かったと思えます。

また次の舞台に向けて、頑張って稽古して参りたいと思います。

本日の舞台に御出演いただいた皆様、また見所で応援してくださった皆様、どうもありがとうございました。

明日は澤風会東京大会です

明日の澤風会に向けての細かい準備作業が一段落しました。

あとは本番を待つばかりです。

明日の第4回澤風会東京大会は、神楽坂の矢来能楽堂にて朝10時〜夕方5時半頃まで開催予定です。

舞囃子が「巻絹 惣神楽」「羽衣 盤渉」を始め10番、その他仕舞、素謡、独調などが披露されます。

初舞台の方、初仕舞の方、また難曲に挑戦される方など、様々なチャレンジがある舞台です。

下は小学3年生から上は90歳の方まで、また中、高、大学生も沢山出演します。

いつもお世話になっている京大宝生東京OB会の皆様、また母親の社中会郁雲会の皆様にも多数御出演いただきます。

天気も良さそうですので、お時間のある方は是非いらしてくださいませ。

寒の戻りで気温は低いようです。くれぐれも暖かめの格好でお越しください。

どうかよろしくお願いいたします。

本番前の最後の稽古

澤風会本番がいよいよ明後日になりました。

各稽古場で「本番前の最後の稽古」が行われ、今日は江古田稽古場で最後の稽古が無事終わりました。

私の場合、本番の2週間前位の稽古で一番細かく注意をして、あとは本番に向けてむしろ途中で止めて直す回数を減らしていきます。

直前の稽古では、極端な場合「間違っていてもそのまま流す」事も敢えてしたりします。

最後まで止まらずに舞終えてから、「あそこは本当はこうです」と言うようにしています。

このように教える人は少ないかもしれませんが、私の場合一つには「間違えると止まる癖がつくと、本番でもそうなる恐れがある」と考えて、止めることを少なくしています。

また最後まで流して見る事によって、間違いの原因がわかる事があります。「あそこの型と似ているので混同しているのだ」という風に。

ただ直すよりも、「あそこは左足から出るが、ここは右手が上がっているから右足から出る」というように理屈を含めて指摘する方が、理解してもらいやすい気がします。

今日に至るまで色々うるさく言って参りましたが、とにかく皆さん、これまでとても頑張って稽古をされました。

明後日の本番ではどうか自分を信じて、萎縮せずに思い切り舞台を楽しんでいただきたいと思います。

明日は本当に最後の直前稽古があります。そこに来られる方は、もうひと頑張りしましょう。

髪型

土曜日の澤風会に備えて、理容室に行って参りました。

先日の柏の幼稚園能楽教室で「チョンマゲじゃない!」と子供達に指摘されたのですが、能役者は明治以降は髷は結わず、現代風の髪型になっています。

私はと言うと、理容室で鏡の前に座ると「襟足を低目に刈り上げて、後は整える程度で結構です」とここ十数年間同じセリフを言っています。

あまり特徴の無いごく普通の髪型ですが、襟足を刈り上げるのは一応理由があります。

これは「尉髪(じょうがみ)」という鬘を被る時に役に立つ髪型なのです。

尉髪は白いので、襟足を伸ばしていると黒い髪が尉髪の下から見えてしまっておかしいのです。

大抵の能役者は尉髪を被る役の時にだけ刈り上げるのですが、私は理容室で色々注文するのが面倒なので、いつも決まった尉髪用の髪型に統一しているのです。

また能役者は髭も伸ばせません。顔に個性を出したい人には辛い職業かもしれないです。

個人的には、色々な役柄を演じる上では、顔はむしろあまり特徴が無い方が良い気がします。

髭や長髪は、役柄の上だけで楽しみたいと思います。

屋島と八島

先日八島の話を書いている時に思ったのですが、「八島」は今の日本地図では「屋島」と書いてあります。

能の曲名としては、観世流は「屋島」と書きますが他の四流では「八島」と書きます。

このように、地名や人名、また細かい言い回しが流儀によって微妙に異なる例は、実はとても多いのです。

曲名だけでも「加茂」と「賀茂」、「大原御幸」と「小原御幸」、「経政」と「経正」等々たくさんあります。

また「土は清劔」と「月は清劔」(清経)や、「その数一億百余人」と「その数一億百万余人」(鶴亀)といった、言葉の僅かな差異もよく見られます。

これには色々理由が考えられます。例えば、

①謡本を一番最初に作る時に、音を文字に変換する段階で流儀によって違う文字が充てられた。

②最初は各流同じ字だったのが、口伝や書写を繰り返す中で変化していった。

③流儀の主張として敢えて他の流儀とは違う言葉を用いた。

おそらく①③の理由が多いのだろうと思いますが、私にとっては②が興味深いのです。

何故なら録音録画機器の発達した現代以降は、②の変化が起こる可能性は非常に低いと思われ、それをむしろ残念に思うからです。

私は以前に「能楽とは壮大な伝言ゲームである」と言った事があります。

流儀による微妙な文字の違いは、正に能楽が生身の人間同士で伝承されて来た証拠のようで、それはとても尊いことのように思えるのです。

亀岡の花々

今日は亀岡稽古でした。

3月1日にも書いたのですが、亀岡には春の草花が沢山咲いています。

リュウキンカ

スハマソウ。早春に咲くので雪割草とも言われるそうです。

ミヤマカタバミ

前回よりも増えた福寿草の群落の向こうに、白く小さい花の群落はユキワリイチゲというそうです。

能「雲雀山」のシテは、山中で野の花を摘んで里に出て売り、幼い中将姫を密かに育てました。

当時の雲雀山の山中は、今日の亀岡のような花々が咲き乱れていたことでしょう。

もう少しすると、桜が咲き始めます。行く先々の桜の様子なども、また御報告したいと思っています。

来殿の装束

今日は水道橋の五雲会にて能「来殿」の地謡を謡って参りました。

「来殿」は宝生流以外では「雷電」と称されています。

加賀前田家に配慮した曲名と演出である、というお話は有名なので、今回はちょっと違う切り口で書きたいと思います。

内弟子の頃に「来殿」と聞くと、「ああ、中入が大変だなあ」と思いました。

「来殿」の後シテの装束付けは「雷電」後シテと比べてかなり手間がかかるのです。

指貫を履いて単狩衣を纏うという高貴な男性の出立で、「融」や「須磨源氏」と同じ格好です。これは数ある装束付けの中でも最も時間のかかるものの一つです。

ところが間狂言は「雷電」と同じ内容で、比較的短いものなのです。

という事は中入の楽屋は戦場か、或いはF1のピットインのような慌しさになってしまうのです。

今日も地謡座で間狂言を聞きながら、「もう終わりなのか、短いなあ。装束付け間に合うかなあ。」と思っていました。

しかし後シテは出羽の囃子に乗って、何事も無く雅やかに登場しました。

一曲を無事謡い終わって楽屋に帰り、仲間に「中入装束どうだった?」と聞くと「全然余裕だったよ。」との答えが返って来ました。

装束を付けた人が手練れだったのでしょう。

楽屋の事は出来て当たり前なので決してクローズアップされませんが、一曲の舞台を無事に終わらせる為に、楽屋でも日々また別のドラマが繰り広げられているのです。

八島の日

少し前にも書きましたが、明日3月18日は八島の合戦があった日です。

能「八島」の前半で、義経の化身の老人が「いで其の頃は元暦元年三月十八日の事なりしに…」と八島での戦物語を始めます。

その中で源氏方の三保乃谷の四郎と、平家方の悪七兵衛景清の「錣引」のエピソードが語られます。景清と三保乃谷が戦場で力比べをして、互いの剛力を讃え合う話です。

ここで興味深いことがあります。

「景清」という別の曲中で、老いさらばえた景清自身が全く同じ「錣引」を語っているのです。

ところが景清は「いで其の頃は寿永三年三月下旬の事なりしに…」と語り始めます。

平家の都落ちの後、元号は「寿永」から「元暦」に改まるのですが、平家方にとってはまだ「寿永」のままなのですね。

また義経は「三月十八日」と日付まで言っているのに対して、景清は「三月下旬」とのみ語っています。

何となく、「緻密な戦略家」の義経と、「剛力無双」な景清の性格が出ている気がして、これも興味深いです。

兼平と巴の所でも書きましたが、能に於いては同じ合戦の有様も、語る主体によって微妙に違う内容になっている事があります。

修羅物は多くあるので、それぞれ読み比べてみると面白いかと思います。