東山三十六峰

昨日は京都紫明荘での稽古でした。京都は良く晴れて実に爽やかな陽気でした。

紫明荘の入り口から振り返ると、賀茂川を挟んで向かい側には新緑の東山連峰が見渡せます。

先日「山紫水明」という題名でのブログに載せた写真と近い風景です。

写真左端が比叡山、右端が大文字山です。二峰の間は緩やかな弧を描いています。しかし、「東山三十六峰」では、確か比叡山と大文字山の間にも幾つか山があったような…。

という訳で東山三十六峰を調べてみると、また意外なことがわかりました。

そもそも江戸時代迄の「東山三十六峰」は36の山を特定しておらず、なだらかで美しい東山連峰を「およそ三十六峰はありそうに見える」という理由でそう呼んでいたそうなのです。

36という数字は、「三十六計」、「三十六歌仙」、「富嶽三十六景」など様々な区切りに使われる数字なので、東山にもそれを用いたのではないでしょうか。

1950年代になってから、三十六峰を特定する連載記事が京都新聞に掲載されて、現在はその記事の山を三十六峰とすることが多い、ということです。

また「大文字山」に関しても私は間違った認識を持っていました。

大文字山は「如意ヶ嶽」と同じ山だとずっと思っていて、能「鞍馬天狗」の後場で「比良、横川、如意ヶ嶽」と謡うシーンでは、何となく大文字山から天狗が飛び立つ場面を想像していました。

しかし実は如意ヶ嶽は大文字山の少し東側にある別のピークで、標高も大文字山よりも高いそうなのです。

京都にはもう30年近く往き来しているのに、今日までこれらを知らなかったのはちょっと恥ずかしいです。。

しかし、これからも何か私にとって意外な事実がわかった時は、このブログに書いていきたいと思います。

私と同じように真実を知らなかった人が、「おお!そうだったのか」と一緒に驚いてくださるとありがたいです。

奇妙な孤島の物語

最近読んだ本の中で、不思議な話がありました。

1979年2月にハワイ沖で、乗組員5名の小さなボートが嵐のために行方不明になりました。

10年近く後、その「サラ・ジョー号」の残骸が3600キロも離れたマーシャル諸島の無人の環礁で発見され、しかも残骸の横には簡易なお墓があって、乗組員の1人スコット・モーマンが埋葬されていたというのです。他の4人の行方は杳として知れませんでした。

とても想像力を掻き立てられる話です。

「奇妙な孤島の物語」という題名の本なのですが、驚くのはこの本の作者は一度も行ったことのない50の孤島の話を書いていて、それぞれが上の様な不思議な余韻を残すエピソードなのです。

この本の持つ雰囲気が能楽に通じると私は思いました。

・自らが体験したのでは無い話を、主に伝聞を基に物語にしている。

・全てを説明せずに、読者に想像力を働かせる余地を多分に残している。

・歴史に埋もれて忘れ去られた人物や、名も無い市井の人々に光を当てて、そこにも壮大な物語があることを教えてくれる。

普段は文庫本しか読まないわたしですが、この大判ハードカバーの本は毎日少しずつ大事に読んでいます。

ニュージーランド沖の無人島で、ペンギンの大群に囲まれて行方不明になった兵士は、その後どうなったのか。

10数人の男だけが暮らす、インド洋に浮かぶ絶海の孤島の観測所で、それでも彼等が感じている自由とは一体どんなものなのか。

そしてサラ・ジョー号の4000キロ近くにわたる漂流の旅路と、5人の乗組員の運命。

今夜も能を観るように「奇妙な孤島の物語」を少しだけ読んで、一生行かないであろう海の彼方の孤島のドラマを想像しながら、休もうと思います。

涌宝会大会

昨日今日の2日間、名古屋能楽堂にて和久荘太郎師の同門会「涌宝会大会」に出演して参りました。

お弟子さんの舞台は、やはり師匠の気質を反映するものだと思います。

「涌宝会」の舞台は、「気合と迫力」に満ちていて、これは紛れもなく和久師のスタイルを色濃く映していると思いました。

能が2番と、舞囃子も沢山出てとても賑やかな会でしたが、私が特にすごいと感心したのが「独調」が多く出たことでした。

「独調」は大鼓、小鼓、太鼓のどれかひとつのお囃子に合わせて、お弟子さんが1人で無本で謡を謡うというものです。

時間にして5〜6分ですが、お囃子と謡が緊張感を持って対話しているようで、非常に見応えのある舞台でした。

しかし独調は、謡を正確に覚えて謡うのも大変ですし、教える師匠も囃子の手組を正確にわかっていないと教えられないので、これは難易度が高いです。

私の会でも、いつか独調を稽古出来たらと思います。まだ先の目標ですが。

また、和久師が指導されていて、自らの出身でもある名東高校の能楽研究部が沢山出演したのも素晴らしかったです。

高校文化連盟の全国大会にも出場するというハイレベルな高校生達は、長刀などの難しい曲でも大人顔負けの舞台を見せてくれました。

更に、大会の最後の飾る能「胡蝶」では、シテの方がすごい気迫で、「お幕」の声にまで力が漲っていました。

とにかく2日間ほとんど途切れなく舞台上におられた和久師の気力体力が、一番すごいと思いました。

今回の舞台では大いに刺激を受けましたので、私もまた澤風会の稽古を頑張りたいと思います。

和久先生、涌宝会の皆様、2日間どうもありがとうございました。

紫陽花と最中の共通点…?

以前に書いた「隙間花壇」。私の東京の自宅マンションと隣のマンションの隙間にある、日本の野の花が入れ替わりに咲く不思議な空間です。

そろそろガクアジサイが見頃になって来ました。

青い花と…

白い花。

あじさいは日本の原産種で、古くは万葉集にも詠まれています。

写真のガクアジサイの方が原種で、花が鞠のように全体に咲く所謂「あじさい」はそこから分かれた種のようです。

また面白いのは、あじさいに白居易の詩からとった「紫陽花」という漢字を当てたのは「源順」だそうなのです。

覚えていますか?「みなもとのしたごう」さん。

先日「みなもとの…」というブログで書いた、嵯峨源氏の一人でお菓子の「もなか」の名前の由来となった「水の面に照る月並みを数ふれば 今宵ぞ秋の最中なりけり」を詠んだ人です。

つまり「最中」と「紫陽花」は、源順さんがいなければおそらく全然違う単語になっていたのです。

因みに、これ程昔からある紫陽花ですが、能には「あじさい」という文字は見つかりませんでした。

もしも私の見落とした曲に「あじさい」を見つけた方は、是非御一報ください。

まだ咲き始めの隙間花壇の額紫陽花。しばらくの間楽しもうと思います。

ゴロゴロ、ドカーン

私の6月最初の朝は、雷から始まりました。

まだ夜が明けない早朝4時半頃に窓の外で「ゴロゴロ、ドカーン」という感じの大きな雷鳴が鳴って目が覚めたのです。

今、雷の音を「ゴロゴロ、ドカーン」と表現しましたが、能の中では「加茂」などで、雷鳴を「ほろほろ  とどろとどろ」と表現していますね。

能の時代の擬音語は、現代の擬音語と違うものがいくつかあって面白いです。

すぐに思いつくものを挙げてみます。

「ちょう」…能「小鍛冶」で、刀を鍛える為の槌を打つ音。

「きり  はたり  ちょう」…能「呉服」、能「松虫」で、機を織る音。転じて秋の虫の声。

「とうとう」…能「鳥追」で、鳥追いの太鼓を打ち鳴らす音。

「からり」…能「兼平」で、兜に矢が刺さる音。

「くわっ」…能「舎利」で、炎が燃え上がる音。

「ほろほろ  はらはら」…能「砧」で、砧で衣を打つ音。涙が落ちる音とも掛けている。

…頑張って考えてこの位で、意外に少ない気がします。

一方で現代には膨大な量の擬音語が溢れています。

これはやはり「漫画」の存在が大きいと思います。

例えば、野球漫画でボールを打つ音だけでも「カキーン」「キンッ」「ガッ」「ゴッ」「パァン」「バキッ」などなど。「ぐわらごわきーん」というのもあります。。

現代と室町時代と、どちらの在り方が良いとか悪いとか、難しいことはわかりません。

しかし、現代に溢れる新しい擬音語達の中で700年後に残るものがあるのか、あるならどんなものが残っているのか、それが興味あるところです。

因みに能楽に出てくる擬態語や擬声語なども中々面白いので、また別の機会に書いてみたいと思います。

亀岡の花々  5月

先日の亀岡稽古では、また今の季節の花々をいくつか見ることができました。

これは「河骨(こうほね)」という今では珍しい植物です。

睡蓮の仲間で、池沼や緩やかな川に生える水生植物だそうです。

家紋に「河骨紋」の様々なバリエーションがあり、検索すると面白かったです。

能装束の唐織にも「百合こうほね模様」というのがあったと記憶しているので、今度模様を確認してみたいと思います。

因みに東京渋谷にかつて「河骨川」という川があり、童謡「春の小川」のモデルがこの川だったそうです。もっと田舎の川を歌っているイメージだったので、意外でした。

蛍袋(ほたるぶくろ)です。蛍と同じ時期に咲いて、この花の中に蛍が入ると明滅する度に花が朧気に光ります。

蛍袋と蛍が同時に見られる幸運に恵まれた方は、是非トライしてみてください。

また郭公の飛来と同時期に咲く花を「かっこう花」と呼ぶことがあり、これは土地によって違う花を指すのですが、「ほたるぶくろ」も郭公花のひとつらしいです。

ほたるぶくろのラテン語名は「カンパニュラ」と言い、何となく銀河鉄道の夜の「カムパネルラ」に似ていると思って調べたのですが、共通点は明確に見つかりませんでした。

野薊(のあざみ)です。

中島みゆきのデビュー曲が「アザミ嬢のララバイ」ですが、この歌詞では「あたしはいつも  夜咲くアザミ」とあります。

なのでアザミは夜咲くものなのかと思っていたのですが、普通に昼間咲いていました。。

今回はこの辺で。

また次の季節の花々もご紹介したいと思います。

手品師の手法

先日とある場所で、間近に「手品」を見る機会がありました。

3本の紐が次々に長さを変えたり、繋がったり切れたりを繰り返す手品。

百均で買ったばかりのスプーンが、手品師の手の中でくねくねと曲がってしまう手品。

トランプのカードを当てる手品などなど。

何かタネを見つけようと思っても、至近距離で目を凝らしても全く怪しい動きはありません。

これは不思議なことだと思っていると、手品師が少しだけ解説をしてくれました。

「人間の眼には必ず死角があるので、どこか一点に観客の目線を集めて、その隙に素早くカードのすり替えなどをする」ということでした。

この「人の目の死角を利用する」という話は、実に腑に落ちるところがありました。

というのは、私も舞台上でこの手品師の手法を使うことがあるのです。

能の地謡で正座をしている時に、「如何に目立たないように足を組み替えるか」というのが実は重要な要素のひとつなのですが、私はここに「人の目の死角」理論を応用しているのです。(少々大袈裟ですが…)

つまり、例えば幕が開いてシテが出てきた時、およそ橋掛りの半ばくらいまで歩んで来た辺りで見所のほぼ全員がシテに気がつきます。

この瞬間にシテでは無く地謡をじっと見ている人は、余程の変わり者か地謡の大ファンだと思われます。

そんな人は先ずいないと仮定して、私はそこでちょっと足を直したりするのです。

しかし、偶にこの手法が通用しない恐ろしい舞台があります。それは「地謡の背後にも観客席がある舞台」です。

つい先日の「興福寺薪御能」などがそれで、舞台を地謡の後ろから観ているお客様が100人以上おられました。

こうなると死角は無くなってしまうので、心中「すみません!」と思いながら、出来るだけ控え目に足を組み替えるしかありませんでした。

「後ろからマジックを見られてしまった手品師の気持ち」というのは、こんな感じなのかなあと地謡座で密かに思ったのでした。

水暗き沢辺の蛍

京都鴨川は、出町柳付近で2本の河が合流して出来る川です。

北西から流れ来るのが「賀茂川」、北東の比叡山麓を伝い降る河が「高野川」です。

私は数年前に「高野川」沿いに部屋を借りていました。

ある初夏の夜、京阪出町柳駅に着いて地上に出ると、高野川へと降りる道に人が大勢出入りしています。

何かイベントかな、と思い信号を渡って覗きにいくと…

なんと高野川の河原には信じられない数の蛍が瞬いていたのでした。

私がこれまでの人生で見た中では一番多い、蛍の大発生が高野川で起こっていたのです。

その頃は行政の方針変更で、鴨川の流れに人工的な中洲を作り、そこに植物を生やして自然に近い川に変えているところでした。

借りていたマンションの屋上から見ると、出町柳から御蔭橋までの高野川がまるで天の河のように見えたものです。

そして翌年の同じ頃、蛍を楽しみに毎晩河原を覗いていたある日…

何の方針変更なのか、今度は中洲の草叢が突然全部刈り取られ、丸裸にされていたのです。ショッキングな光景でした。

勿論蛍はほぼ全滅で、弱々しく数匹が舞っているのみでした。

それから毎年、私はもうあの蛍の群舞は見られないのだと半ば諦めながらも、今頃になるとつい高野川を覗きに行きたくなってしまうのです。

実は昨日の亀岡稽古の後に、また高野川に行ってしまいました。

出町柳から御蔭橋まで、蛍はやはり1匹も見られません。

寂しさと、しかし今年もそれを確認できたという朧げな満足感を感じて、これもルーティンワークで御蔭橋から西岸に渡り、出町柳方面に戻る途中…

糺ノ森方面からの小川の流れ込み付近で、薄緑色の小さな光点が2つ、フワリと目の前を過ぎりました。

ああ、この厳しい環境を生き抜いて、まだあの蛍の子孫が生きて残ってくれていたのかと、しみじみ感動しました。

いつの日かまた条件が整ったら、あの天の河のような光景がまた見られるかもしれない。

そんな微かな期待を抱いて、たった2つの光点をしばらくの間、祈るように眺めていたのでした。

関西宝連良い舞台でした。

昨日の関西宝連はおかげさまで無事終了いたしました。

能楽堂デビューの新入生達は、一挙手一投足が実にぎこちない感じて、ガチガチに緊張しているのが手に取るようにわかり、それがまた何とも晴れがましい初舞台の雰囲気を醸し出して良かったです。

先輩達は、半年前の大会から比べて其々が一段高いレベルに上達していて、冬の間にきちんと稽古して来たのだなあと感心しました。

無本で長い素謡を謡う学校があったり、2人だけの部員が、ひとりはシテ、ひとりは地謡で頑張って仕舞を出したり、大変気迫のこもった舞台が沢山見られました。

最後には我々職分の番外仕舞があり、更にその終わりには附祝言を謡って終わる慣わしです。

今回の附祝言は、高砂の「千秋楽」でした。

附祝言はいつ謡っても気分が良いものですが、特にこの学生の舞台の最後に、学生全員とその御家族やお友達、関西のお弟子さん達やお客様がずらりと揃った所で謡う祝言謡は、関西の宝生流が一体になって盛り上がっていく感じがして、感慨も一入です。

今回はお客様にとても沢山いらしていただき、見所が一日中賑やかでした。

終了後の宴会で、隣の部屋の体育会系クラブの宴会が実に見事な盛り上がりで、こちらも負けじと大声で新入生の紹介などをしたのも、これまた如何にも学生の街京都という感じがしてむしろ良かったです。

学生の皆さん、本当にお疲れ様でした。舞台の大成功おめでとうございます。

見に来てくださった皆様、どうもありがとうございました。

次は来月6月24、25日の全宝連東京大会に向けて、また頑張って参ります。

あれは上見ぬ鷲の尾の寺  後編

二寧坂の「はろうきてぃ茶寮」を東に折れるといきなり急坂があります。


その坂を詰めると、今度は上の写真の長い階段が。
「1、2、3…」と数えながら登ると、109段で登り詰めました。するとそこには…

道路を挟んでまた階段が。今度は55段でした。
階段の先には…

瓦屋根が見えて来ました。

正法寺の山門です。ついに到着しました!
山門をくぐると…

なんとまた階段でした!
ひいひい言いながら52段上がると、ようやく本堂が。

草むした境内で、人気は全くありません。
お参りして振り返ると、京都市内の眺めが疲れを癒してくれました。

正法寺。階段好きな方には超おすすめです!