土用の丑の日

今日は土用の丑の日でした。

唐突ですが私は生まれが三重県です。今は「津市久居」という住所ですが生まれた当時は「三重県久居市東鷹跡町」という町名でした。

実は三重県のその辺りは、密かに鰻が名物で、小さい頃は特別な日にはよく鰻を食べたものです。

その鰻は焼くだけで蒸さない、香ばしい味の関西風。

最大の特徴は、上に乗っている鰻から食べ進めていくと、御飯の中からもう一層鰻が出てきて、大変嬉しくまたお得な思いができるということでした。

その後東京に出てきて、蒸した柔らかい鰻にカルチャーショックを受け、しかしやはりそちらも美味しいと思い、日々の暮らしで時折鰻を食べられる幸せを甘受しながら生きて参りました。

ところが数年前の鰻の稚魚の激減で、鰻は私の前から忽然と姿を消してしまいました。

偶さかに見かけても、「鰻重4500円」というような天文学的な値段で、寂しく顔を背けて歩み去るしかありませんでした…。

今年は稚魚が久々に豊漁という事で、そろそろ鰻が食べられるかな…と思いつつ、今日の土用の丑の日を迎えました。

しかし、結局鰻を扱うお店に行く時間が無いままに、先ほど紫明荘稽古でお弟子さんからいただいた下のお菓子で鰻気分を味わったのでした。。

蒲焼のタレの風味で、大変美味しかったです。

本物はまたいつか。。

浴衣割引

能楽師の中では、普段から着物や浴衣で生活している方が多く見受けられます。

私はと言うと、特別な場合を除くと普段はチノパンに薄手のシャツという洋装のラフな格好が定番です。

これは個人的な理由で「大きな荷物を持って早歩きしたり走ったり、階段を急いで昇り降りする為」なのです。

しかしここ最近は、京都でも東京でも、一般の方々で浴衣の人を多く見かけます。

お祭りや花火大会のシーズンだからなのでしょう。

浴衣の人とすれ違う度に、「私もカバンの中には着物一式が入っているのだぞ…!」と無駄な対抗意識を燃やしたりしておりましたが、昨日電車の吊り広告で某スカイツリーのビアガーデンが「浴衣で来店の方は500円OFF!」というのを見かけました。

「浴衣や着物を着るだけで割引」というのは、考えてみれば私の職業には大変有り難い話です。

そういえば京都の某M○タクシーにも「着物浴衣割引」があった気がします。

大きな荷物が無い日には、積極的に浴衣で出歩いて、そういう割引の恩恵に預かるのも良いかな…と思いました。

しかし結局いつも大きな荷物で出かけることになってしまうのが悩みの種なのです…。

短めですが今日はこれにて。

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「伝承」ということ

今日は水道橋宝生能楽堂にて、「第4回和久荘太郎  演能空間」に出演して参りました。

近い先輩である和久荘太郎さんが40代の若さで始められた演能空間も、早くも4回目になり、今回は初めて宝生能楽堂にて開催されました。

荘太郎さんも40代でお若いのですが、今日は何と息子さんの和久凜太郎くんが、11歳にして初シテの能「花月」を見事に勤められました。

公演冒頭の挨拶で荘太郎さんが、「今回の公演のテーマは”伝承”です。職業選択が自由な現代において、能のような伝統芸能をどうやって次代に伝えるかを考えたいと思い、番組を組みました。」というような内容を仰いました。

私は能「花月」の後見として、後ろから凜太郎くんをずっと見ていたのですが、その背中には既に、玄人として厳しい稽古を耐え抜いた者が持つ「責任感」と「気迫」が漲っていました。

地頭は宝生和英家元、大皷は人間国宝の亀井忠雄先生。

正に能が世代を超えて伝承される瞬間を目撃した、貴重な経験でした。

和久荘太郎さん自身の能「自然居士」も、やはり先鋭的な舞台特有な熱気に包まれた熱い舞台でした。

私は個人演能会をする予定は全く無いのですが、今日の素晴らしい舞台を拝見して、いつか自分でも…と淡い夢を抱きつつ帰路につきました。

和久荘太郎さん、本日は凜太郎くん共々本当におめでとうございました。

橋弁慶山

昨日の夕方、新幹線で京都に到着するとコンコースに祇園囃子が流れていました。

そう言えば祇園祭は最近「後祭」が復活して、数は少ないながら今日からまた山鉾が建っている筈です。

ちょうど京都駅から宿に向かう途中に山鉾町があるので、少し覗いていこうと思い立ちました。

地下鉄烏丸線の四条駅を出て室町通を北に上がると、百日紅の花の向こうに山が見えて来ました。

「鯉山」、「黒主山」、「浄妙山」と3つほど見たところで、時間的にはたったの5分程度だったのですが暑さに耐えられずあっさり挫折…。

烏丸通西側の日陰に逃げ込んで、そのまま宿に向かおうとしました。

しかし烏丸通から蛸薬師通をちょっと覗くと、そこに「橋弁慶山」の文字が見えたのです。「橋弁慶山」は祇園祭の山鉾の中でもビッグネームです。これは一目見ていかねば。

後祭は人出も少な目で、むしろゆっくり山鉾を見ることが出来ます。

昨日の朝に「お山建て」で組み立てられて、午前中に「舁き初め」を終えたばかりの「橋弁慶山」。

横の町家の二階には、やはり朝組み立てられたばかりの「牛若丸」と「弁慶」の人形が飾られています。

一階には「五条大橋」も。

これらが24日の山鉾巡行の時には山の上に載せられて、下のようになるのです。

橋弁慶山の説明を改めて読むと驚きました。

弁慶と牛若丸の人形は、なんと1563年に製作されたそうなのです。

関ヶ原の合戦よりも前の、戦国時代真っ只中の頃に作られた人形。

それから幾多の大火や大雨、明治維新の混乱や二度の大戦も乗り越えて、無事に450年後の現代まで伝わって来た訳です。

能楽と人形は全く別の物ですが、「大事に守って後世に伝えよう」という人の心があって、今まで生き残って来たという点は共通していると思います。

感慨深い気持ちになり、また大きな満足感を持って、橋弁慶山を後に宿に向かいました。

時間にすると15分の、駆け足祇園祭見物でした。

海に潜ったり空を飛んだり

毎日こうも暑いと、無性に海に行きたくなったりします。

能で海の気分を味わえる曲といえばやはり「海人」、特に「玉之段」の部分ではないでしょうか。

「彼の海底に飛び入れば。空はひとつに雲の波…」

私は内弟子の頃、短い夏休みを使ってダイビング免許を取り、30を過ぎて初めて、深い海底に飛び入る経験をしました。

驚いたのは、海底から見上げる海面が本当に「雲の波」のように見えたことです。

「玉之段」には他にも、私がダイビング中に海底で経験したのと非常に似通った描写が幾つも出て来ます。

作者は世阿弥とも、もっと古い人とも言われますが、能「海人」の作者は作能の為に深い海に潜る事までもしたのでしょうか。

そう言えばもっと不思議に思うことがありました。

いわゆる「天狗物」の中入の時などに、シテが空に舞い上がって飛び去るシーンがあります。

このシーンでは、ゆっくりスタートした謡が徐々に早くなっていき、最もスピードに乗った所でシテが離陸する内容の謡があり、離陸後は急に「来序」というゆったりした囃子に移行して、遠くの空にゆっくり消えていく様を表現します。

これは、正に飛行機の離陸シーンを間近で眺めているのと同じ感覚なのです。

ジャンボ機は滑走路で徐々にエンジンの出力を上げ、ブレーキが解除されると一気に加速、ついに離陸すると高度を上げるに従って、地上からはゆっくりした速度で遠ざかるように見えます。

室町時代に空を飛ぶ物と言えば鳥くらいだと思いますが、この「来序」のシーンはもっと大きな物が離陸するのを実際に見てからでないと作れない気がするのです。

古の能の作者達が一体何を見て、どんな経験を踏まえて、「海人」や「天狗物」の能を作ったのか、これは一種の超常的なミステリーだと思います。

夏休みの思い出

江古田稽古では何人か高校生が稽古しています。

みんな今日が終業式だったらしく、明日から夏休みに入るようです。

夏休み…懐かしい響きです。

夏休みの思い出を色々考えてみたのですが、小学生の頃は夏休みになると毎年、「兼松キャンピングスクール」という野外学校に参加して、長野県の戸隠村にキャンプに行っていました。

大勢の小中学生が7〜8人ずつの班に分かれて、5泊6日テント泊で食事も自炊という、結構本格的なキャンプでした。

昼間は登山やオリエンテーリング、「水雷艦長」というゲームなどをして後は食事の準備。夜は毎晩キャンプファイヤーを囲んで、山の歌を歌いました。

「信濃の国」や「遠き山に陽は落ちて」、「燃えろよ燃えろ」など、いくつかの山やキャンプの歌を聴くと、兼松学校を懐かしく思い出します。

今でも焚き火やテント泊のキャンプはとても好きなのですが、なかなか行く機会が無くなりました。。

また、兼松学校では戸隠神社の奥社や戸隠山にも行ったので、その後に能「紅葉狩」をする時には、「あの戸隠山が舞台なのか…」と感慨深いものがありました。

暫く戸隠にも行っていません。いつの日か、また戸隠でキャンプをする…というのもひとつの夢です。
軟弱な都会暮らしが続いているので、すぐに音を上げてしまうかもしれませんが…。

通訳ガイド研修

今日は宝生能楽堂にて、「通訳ガイド研修」のお手伝いをして参りました。

これは日本人通訳の方々に、能楽を英語やフランス語、スペイン語やイタリア語などで紹介してもらう為の研修です。

私は今日初めてお手伝いしたのですが、通訳の方々10数人が、楽屋ツアーや体験型ワークショップを通して、能楽全般を所々英訳しながら研修しておられました。

能楽の歴史的背景のレクチャーから始まり、囃子や装束を見、また謡や型の稽古をして、更に面をかけて橋掛りから舞台へ出てみたりなど、研修内容は多岐にわたっていました。

その後通訳の皆さんは能「羽衣」の一部を、やはり通訳の為のアドバイスなどを受けてから鑑賞されました。

私のお手伝いはここまでだったのですが、更に座学の時間があり、最後に修了証が発行されるという事でした。

昨今は日本に来られる外国の方が増えて、これから先は更にそういう方々に能楽をPRする機会が増えていくと思います。

その時に能楽の精神性までも含めて正しく通訳してもらうことは、能楽のみならず日本そのものを知っていただく為に、重要なことだと思います。

実は今回、私の小中高の同級生で現在澤風会江古田稽古場の会員でもある、英語通訳の勝木一郎さんが研修に参加してくれました。

通訳の仕事をしている彼が、澤風会で能楽宝生流の稽古をしており、更に能楽を通訳するための研修も受けてくれたということは、大変意義深いことです。

これから彼には、能楽を英語圏の人に紹介する仕事をどんどんしていってもらえたらと思います。

勝木さんどうかよろしくお願いいたします。

祇園祭のエピソード

昨日は私は大阪能楽会館で松実会に出ておりましたが、京都では祇園祭の山鉾巡行が行われていたはずです。

実は私はこの「山鉾巡行」を生で見た事が一度もありません…。

学生の頃は、前日の宵山に繰り出して飲んでしまい、山鉾巡行の時間には部屋で爆睡…というパターンの繰り返しでした。

能の道に進んでからは祇園祭自体に行く時間がなくなってしまい、今の季節になると京都以外の何処かの土地で祇園祭を懐かしく思い出すばかりです。

祇園祭の思い出やエピソードを幾つか書き連ねてみます。

・京大宝生会現役だった頃のある日、BOXに行くと「辰巳先生が京都新聞に出てはる!」とみんなが新聞を囲んでいます。

覗いてみると…「祇園祭で大金拾う女神や!」というような見出しで辰巳孝先生の写真入りの記事が。内容は、辰巳先生が祇園祭の最中に現金二百万円入り(!)の財布を落としてしまったのを、見つけた京都女子大の学生が警察に届けてくれて事無きを得た、というものでした。

辰巳先生は能装束なども良い物を見つけると即金で買い求められた、というような豪気な伝説がたくさんある先生でした。

・同じく京大宝生会現役の頃、京大金剛会にI先輩という方がいらして、この方は毎年長刀鉾に乗って、祇園囃子の笛を吹いておられました。

そのご縁である年、私も長刀鉾に上がらせてもらいました。

思えばあれが祇園祭と最も深く関わった出来事でした。

I先輩は森田流の笛の名手で、また童顔な外見と裏腹に大酒豪で、よく楽しい大酒宴に参加させていただきました。

・つい先程、山鉾巡行翌日の京都を歩いていると、こんな鉾を見つけました。

「洛央小学校」の校門横にあった「洛央鉾」です。

この鉾は、祇園祭の山鉾ではありませんが、祇園祭と同じ時期に小学生が引いて、松原通りを巡行するようです。

洛央小学校は祇園祭の「山鉾保存会」に話を聞いて勉強したり、祇園祭の山鉾の「曳き初め」にも参加したりと、学校全体として祇園祭に積極的に関わっているそうで、とても羨ましい学校だと思いました。やはりお祭りは、見るだけではなく参加するものだと私は思うのです。

以上、祇園祭にまつわるエピソード三題でした。

松実会に出演して参りました

今日は大阪にて、石黒実都先生のお社中会「松実会」に出演して参りました。

今回の松実会は、実都先生のお父様の石黒孝先生の三回忌追善の会でもありました。

石黒孝先生は、私がまだ京大宝生会の学生だった頃から関西の宝生流の中心メンバーのお一人で、その後私が東京芸大に入り、内弟子になり、独立し…という道程の中で殆ど変わらぬお若いお姿でおられて、「この方は歳をとらないのだろうか…?」と不思議に思う先生でした。

一昨年、亡くなられる二日前の先生の最後の仕舞「三笑」の地謡に座らせていただきました。

私にはいつもと変わらないお姿に見えて、二日後の訃報に全く現実感を感じられなかったのを覚えております。

その石黒孝先生のお嬢様の石黒実都先生は、私と年齢も近く、私の意識としては同じ職業の同僚というよりも、幾多の山場修羅場を乗り越えた「戦友」と思っております。

その実都先生の本日の会では、今日はまたもう一つ下の世代、石黒孝先生のお孫さんの石黒空君と初めて一緒に舞囃子の地謡を謡いました。

空君は高校2年生。

これから彼と数え切れない回数の地謡を共にするであろう、その最初の舞台が今日であったと、これも未来にきっと思い出すであろう舞台でした。

実都先生お疲れ様でした。どうもありがとうございました。

五番立

昨日の五雲会では沢山の皆様にいらしていただきまして、誠にありがとうございました。改めて心より御礼申し上げます。

半蔀の後にロビーである方に、「半蔀は三番目なのです」というお話をしたところ、「三番目とは何でしょう?」と質問されました。

能の演目数は流儀によって異なりますが、及そ200曲前後です。

これをシテの属性や、曲の持つ特性によって5種類に区分したものを「五番立」と言います。

「神、男、女、狂、鬼」の5種類で、能の番組を組む時にもこの順番に沿って組んでいきます。

例えば昨日の五雲会では、

・初番目(神)-氷室

・二番目(男)-経政

・三番目(女)-半蔀

・五番目(鬼)-土蜘

の順で演じられました。

五番立をより詳しく例示する為に、私がこれまで舞った能を五番立で区分してみました。

①初番目(神)
「脇能」とも言われ、神様がシテです。鶴亀のシテ玄宗皇帝も神様として扱われているのですね。私が舞った脇能は…

嵐山、右近、加茂、高砂(後のみ)、竹生島、鶴亀、養老。

②二番目(男)
「修羅物」とも言われ、武将がシテです。勝者がシテの「勝修羅」は箙、田村、八島の3番のみで、あとは敗者がシテの「負修羅」です。負修羅が圧倒的に多いのも、能らしいことだと思います。私が舞った修羅物は…

生田敦盛、箙、兼平、俊成忠度、忠度、田村(前のみ)、巴。

③三番目(女)
「鬘物」とも言われ、優美な女性がシテです。能楽の幽玄性を最も強く深く表現します。

昨日の五雲会で私が舞った半蔀は、この三番目に入ります。これまで舞った鬘物は…

葛城、胡蝶、半蔀。

④四番目(狂)
「雑能物」とも言われ、ドラマチックなストーリー展開の演目が多いです。

私が舞った雑能物は…

花月、須磨源氏、忠信、道成寺、百万、富士太鼓、放下僧、巻絹。

⑤五番目(鬼)
「切能物」とも言われ、鬼や怨霊、天狗などがシテの、派手な動きが多い豪快な演目です。私が舞った切能物は…

春日龍神、黒塚、石橋、乱、是界、鵺、野守、船弁慶、紅葉狩、来殿。

こうして数えてみると、これまでに35番を勤めていたとわかりました。

生涯にあと何番勤められるかは神のみぞ知るところですが、これからも一番一番大切に舞わせていただきたいと思います。