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農繁期と能繁期

我々能楽業界では、「農繁期」をもじって「能繁期」という言葉を使うことがあります。

春は4月〜5月、秋は丁度今頃の10〜11月にあたり、舞台の数が年間で一番多くなる時期なのです。

ここ最近は正しく「能繁期」で、お仕事を頂戴するのは有り難いことながらもいつも以上にバタバタしておりました。

舞台が増えると稽古の日数が減ってしまうというのが悩ましいところで、澤風会各稽古場の皆様には大変申し訳無く思っております。。

今月後半には少し落ち着いて参りますので、また稽古頑張りたいと思います。

この「農繁期」と「能繁期」はだいたい同じ時期に重なっております。

春と秋の、一番過ごしやすく天候も安定している頃です。

厳しい自然と直接向き合う「農業」と、「能楽」を比較するのは大変失礼かと思います。

しかし、移動中の新幹線や電車の窓から「田植え」や「刈り入れ」が綺麗に済んだ田圃が見えると、「ああ、農業の皆さんも農繁期で頑張っておられるのだな。私も能繁期を頑張ろう!」と元気をいただくことがあるのです。

そして「農繁期」の産物を沢山食べて、更に元気をつけて、この秋の「能繁期」を乗り越えたいと思います。

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ひろしま平和能楽祭

昨日は香里園で七宝会がありましたが、今日は広島に移動して「ひろしま平和能楽祭」に出演いたしました。

広島は母親の家族が原爆で亡くなった場所です。

一度きちんとその辺りの町を訪ねておきたいと思いながら、なかなか時間が無く、広島に来るのは5〜6年に一度のこの「ひろしま平和能楽祭」だけになってしまっております。

今回は6年ぶりの広島でしたが、広島駅を始めとして街が新しくなっていて驚きました。

高級高層マンションがいくつも建ち並び、前回よりも街に活気があるように見受けられます。

車で会場のアステールプラザ能楽堂に向かう途中に平和公園の横を通り、原爆ドームが遠くに見えました。

あそこから程近い場所に、母とその家族の暮らしがあったのです。

色の褪せた写真でしか見たことのない祖父母、叔父叔母達は、もちろん子孫の一人が能楽師になっているなどとは思いもよらないことでしょう。

しかし能楽師としてこの広島で仕事を頂戴し、しかもそれが「平和」を祈る舞台だというのもまた何かの御縁だと思います。

今日は能「井筒」の後見と、能「鵜飼」の地謡を、母の家族と原爆で亡くなられた方々への鎮魂の心を込めて精一杯勤めさせていただきました。

バタバタと過ぎるばかりの生活ですが、次の平和能楽祭を待たずに、何とか広島の街を改めて訪ねてみたいと思っております。

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瞬きを止める方法

火曜日のプラスチック成形加工学会の時に、私は壇上で能の型のモデルを少し勤めました。

ずっと「構え」の状態で立ち、満次郎師の解説に合わせて「くもる」「しおる」「面を切る」などの型をやるのです。

その解説の中で満次郎師が「我々は能面をかけていなくても、”直面(ひためん)”と言って表情を変えずにいます。瞬きも一切致しません」と仰いました。

その瞬間、何となく会場の数百人が「へ〜っ」と感嘆の声を出して、私の眼に視線を集中した気がしました。

「これは瞬きしてはならないぞ」と内心ちょっと困ってしまいました。

実は白状すると、私は「瞬きを一切しない方法」というのを未だ会得しておりません。

その昔、東京芸大にいた頃に当時観世流の教官をしておられた野村四郎先生に「瞬きを止める方法はありますよ。」と伺ったことがあります。

しかし私が「それはどんな方法ですか?」と質問しても、先生は笑って「それは自分で考えてごらんなさい」と仰るばかりでした。

それ以降、例えば直面のツレで舞台にずっと立っている時などに、色々と瞬きしない方法を研究してみました。

…が、とりあえず現在のところ、

①瞬きをした「つもり」になって、僅かに眼を細めただけですぐまた元に戻すと、「瞬きをした気持ち」になれる。

…という程度の事しか出来ておりません。

そしてどうしても我慢出来なくなった時は、以前に書いた「手品師の手法」を使って、

②お客様の視線が明らかに自分に無い時に、素早く瞬きをする。

という小技を併用しております。

プラスチック成形加工学会の時にも①②の合わせ技を使い、「お客様にはどう見えただろうか?」と内心ドキドキしながら壇を下りました。

そして終了後のパーティの時にある大学教授が「舞台上で一切瞬きをしないと聞いてから、ずっと貴方の眼を見ていたのですが、本当に全然瞬きしていませんでしたね。すごいと思いました。」と私に話しかけてくださいました。

どうやら今回は私のやり方でクリア出来たようで良かったです。

しかし、野村四郎先生の仰ったのはおそらくもっと根本的な方法だと思われます。

今日も七宝会でずっと舞台におりましたので、密かに色々試してみたのですがやはり瞬きを「長時間」「完全に」止めるまでには、まだまだ研究と鍛錬が必要だと思いました。

なので舞台上で直面の私がいても、じっと眼だけを見たりしないよう、くれぐれもお願い申し上げます。。

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落日の扇

今日もまた新幹線に乗って、東京から関西に向かいました。

途中米原辺りで夕陽が窓から眩しく差し込んで来て、やがて琵琶湖の対岸、京都東山連峰の向こうに空を赤く染めて陽が沈んでいくのが美しく見えました。

このような時に私の頭には「遠き山に日は落ちて」という曲が流れて来ます。

ドヴォルザークの交響曲「新世界より」の第三楽章のメロディで、小学生の頃戸隠山麓にキャンプに行くと毎日のように、夕焼けに赤く染まる山々を眺めながら歌ったものです。

その記憶があるからか、私は昔から「背景に山がある風景」が好きな傾向にありました。

大学で京都に来た時には、「どちらを向いても山がある!」と喜んだものです。

逆に東京では、綺麗な夕焼けを見ても「この夕焼けの向こうに山々が見えたら、もっと良いのになあ」と思ってしまうのです。

山に沈む夕陽の次に好きなのが、「海の向こうに沈む夕陽」です。

実はこの「海に落ちて行く夕陽」を描いた能の扇があります。

「負修羅扇」です。

これは能における五番立のうちの「二番目」、更にその中でも滅亡した平家の公達を描く曲のシテが持ちます。

都を追われ、最期は壇ノ浦の海底に沈んだ平家。その運命を象徴する「西海への落日」を描いた扇です。

この扇を能「兼平」に使うこともあります。源氏方とは言え、兼平は粟津が原で自害したので「負修羅」と見なすということなのでしょう。

しかしやはり「海に沈む太陽」は「平家」を象徴している気がするので、私としては「兼平」には源氏の武将が持つ「勝修羅扇」の方が合うと思うのです。

そのような事を夕焼けを見ながらつらつら考えているうちに、新幹線は京都に到着しました。

夜には香里能楽堂で「七宝会」の能「蟬丸」の申合があります。

地謡を頑張って謡おうと思います。

新作能の「小本」製作

10月1日の澤風会大会から始まって、10月は慌ただしく過ぎて行きました。

今日から11月です。

…とは言え、月が改まっても私の生活パターンは全く変わりありません。

今月は新作能の地が2番あり、そのうち「復活のキリスト」は全く初めて謡う曲です。

「復活のキリスト」という曲は、昭和32年に当時の家元宝生九郎先生のシテで初演され、今年6月にバチカン・カンチェレリア宮殿にて現宗家宝生和英先生が再演を果たされました。

私はこのバチカン公演には参加していないため、まだ曲の全貌が掴めていない状態です。

さてこのような新作を覚えるにあたって、私が何から始めるかと言いますと、先ずは「小本」を作るのです。

「小本」。正式には「袖珍一番本」と言われますが、通常の謡本の約4分の1サイズの小さな謡本のことです。

我々はこの小本を束にしていつも持ち歩き、電車の中などで広げて謡を浚う訳です。

余談ですが、以前この「小本」を見た女の子が「え〜何これ可愛い〜!」と言うのを聞いて驚いたことがあります。

我々にとっては単なる「謡記憶ツール」であり、可愛いさなど欠片も感じたことが無かったのです。。「小本」を表紙をもっと綺麗な柄にして、女性向けに売り出せば意外にヒットするかもしれません…。

それはさて置き、私の手元にある「復活のキリスト」の本はB5サイズで、電車で片手で広げるには大き過ぎます。

これをコンビニで縮小コピーして、「小本」と同じサイズにします。

帰って裁断して、ホチキスで留めて出来上がりです。

「小本」サイズに揃えるのは、覚え終わった後に小本と同じ棚に収容して、次の機会まで保管する為です。

さて無事に「復活のキリスト」の小本が出来ました。

ここですぐに覚えれば良いのですが、私の場合「よし!小本が出来たらもう大丈夫だ!」と根拠のない安心を感じてしまい、「覚えるのは明日からにしようかな…」などと独り言を呟き、鞄にしまって満足してしまうのでした。。

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プラスチックと能楽

今日はまた新幹線で大阪に移動して、「プラスチック成形加工学会」という学会の特別講演をされる満次郎師の助手を勤めて参りました。

「プラスチック成形加工」と「能楽」。

一見何も接点が無いように思えます。

しかし満次郎師の実演を交えた講演の最中は、学会の皆さん大変熱心に見聞きしてくださいました。

終了後のレセプションでは、会長が「プラスチック素材が今後どのような分野に広がる可能性があるのか、模索して行くことが重要である。」という内容の事をお話されました。

そして全くの門外漢の私にも、大勢の学会の方々が話し掛けてくださり、例えば「扇の要」や、「紋付袴」などでは既にプラスチック素材や化学繊維が使われていることなどを話すと、大変興味深そうに扇の写真などを撮影しておられました。

「コルク」や「皮革」などは、少し前に比べると技術が進歩して、自然の物にとても近い素材が開発されているそうです。

ならば例えば小中学校のワークショップなどで使う「能面」を、木材に近い風合のプラスチックで大量に作れたら、低コストで多くの子供達に能面を掛ける体験をしてもらえるでしょう。

また薪能などで使う野外の舞台にプラスチック加工素材を用いることで、雨や湿気に強く、軽量で強い舞台が作れる可能性があります。

プラスチックというと失礼ながら何か「本物ではなく模造品である」というような先入観がありましたが、学会の方々は「本物を超える素材を作る」ということを目標に、研究開発を熱意を持って進めておられることを知りました。

普段は考えもしないことですが、我々のいる能楽業界も、急速に進化している様々な先端素材を如何に有効に使っていけるのかを、模索することが今後必要なのだろうと感じました。

大変勉強になった、学会参加の一日でした。

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台風22号→木枯らし1号

昨夜は台風22号が去ってから大阪を出て、東京に戻りました。

幸いに新幹線も空いていて、東京に到着した23時半頃には東京の空にも星が瞬いておりました。

しかし夜半になっても風が強いなと思っていたら、今日は東京と近畿に木枯らし1号が吹いたそうですね。

つまり「南風(はえ)」とも呼ばれる台風が、そのまま爆弾低気圧に変化して、大陸からの強い北風を呼び込んだことになります。

「最近の日本は秋が短い」と良く聞きますが、確かに「台風→木枯らし」という図式を見ると、「秋」が省略されてしまっているように感じます。

因みに宝生流においては「秋」の曲は、180番のうち約70曲もあります。

それはおそらく、秋から冬にかけてゆっくりと繊細に移ろっていくこの時期が、最も美しく、また侘しさや寂しさも一際強く感じられたからだと思います。

ところがここ数年の感覚だと、「秋」をじっくりと体感する時間がないままに、季節が大味に変わって冬になってしまう気がするのです。

舞台上で「松風」や「野宮」などの秋の名曲を謡いながら、「日本の秋の美しい情景は、いつまで現実に見られるのだろうか」と少し寂しく思ったここ数日なのでした。

すごい記憶能力

ここ数日、謡をたくさん頭に入れては、舞台で謡い終わると消去して、また次の謡をインプットするということを繰り返しております。

私の記憶方法は前に書いたことがありますが、それは例えば受験生が英単語を覚えるやり方と同じ、つまり普通の人の記憶方法と何ら変わりの無いものだと思います。

しかし私が昔京大農学部林学科にいた頃に、非常に特殊で羨ましい記憶能力を持つ友人がいました。

彼は生まれてこの方、授業で「ノート」をとったことが無いというのです。

何故ならば彼は黒板に書かれた内容を暫く眺めると、まるで写真のようにその黒板の映像ごと脳内に記憶することが出来るということなのでした。

実際彼は成績も優秀で、大学院試にはトップで合格していました。

私が能の道に進んでからは連絡も取らなくなってしまいましたが、今能楽師として思うのは、彼の「映像記憶能力」があれば、謡を覚えるのは実に容易いだろうということです。

「遊行柳」の20ページ6行目にある節は「大のマワシ」だったな。などとすぐに思い出せれば。

いやもっと言えば、脳内に謡本の映像が見えれば、絶対に間違えずに謡うことが出来るはずなのです。

今から思えば彼にその「映像記憶能力」の事をもっと詳細に聞いておけば良かったです。何かコツがあるのか、など。

でも今となってはもう連絡手段がありません。。

…という訳で今日も、先ほど京阪神巽会で謡い終わった謡を脳内から消去して、新たに明日謡う謡を記憶するという作業を、苦しみながら進めるしか無い私なのでした。。

京阪神巽会

もう昨日になりましたが、「大阪満次郎の会」は沢山のお客様にお越しいただきまして無事に終了いたしました。

そして明日は同じ会場の大阪能楽会館にて、「京阪神巽会」が開催されます。

この京阪神巽会は、実は私が京大宝生会を卒業してからすぐに入門した会なのです。

先日のブログにも書きましたが、私は卒業してすぐに七宝会の能「竹生島」の地謡につけていただきました。

当然その稽古をしなければならないということで、小川先生に連れられて辰巳孝先生の京都のお稽古場に入門のお願いに伺いました。

そのお稽古場はなんと祇園の「お茶屋さん」で、京大近辺しか知らなかった私にとってはほぼ初めての「京都らしい場所」だったのです。

当然昼間なので芸妓さんや舞妓さんはいないのですが、お茶屋さんの佇まいが何とも言えず「祇園」の雰囲気を醸し出していました。

それまで京大BOXでしか稽古していなかった私は、稽古を待つ間非常に緊張して待合で正座していた覚えがあります。

その後能楽師を目指すことになり、辰巳先生の鞄持ちとして、先生に付いて京阪神巽会の各稽古場をまわりました。

香里園の先生の御自宅舞台を始め、京都の「三上」、大阪の「大仙寺」、神戸の「湊川神社」。毎日のように京阪神巽会のどこかのお稽古場にいる日々でした。

それぞれのお稽古場の会員の方々とお知り合いになり、年に一度の「京阪神巽会」はそれらの皆さんが一堂に会する、私にとっては「お祭り」のような舞台になりました。

それから随分長い時間が経ち、会員さんも入れ替わりがありましたが、やはり京阪神巽会は特別な会だと思っております。

ただの学生が能楽師を目指すという過程で、ベテランの巽会会員の皆さんに色々教えていただきましたし、辰巳先生の稽古を間近で拝見出来た経験は何より今に生きていると思うのです。

明日が自分にとって何回目の京阪神巽会になるのか、最早はっきりとは判りませんが、今年も大切な舞台を精一杯謡わせていただきたいと思います。

大阪能楽会館

大阪は梅田に、格式ある大きな能楽堂があります。

「大阪能楽会館」という名前の舞台です。

私が京大宝生会の現役だった頃、七宝会の別会で受付のお手伝いに何度も伺ったのが大阪能楽会館の最初の思い出です。

中でも、私が4回生の秋にあった七宝会は、辰巳孝先生の能「松風」と、辰巳満次郎先生の能「道成寺」があるということで、勇んで受付に参りました。(受付の手伝いの学生は、舞台が始まると自由席で舞台を観られたのです)

「松風」と「道成寺」は勿論とても素晴らしい舞台だったのですが、私にとって一番強烈な記憶は、受付の用事で楽屋に入った時のことなのです。

楽屋の廊下で正座していると向こうから、とても大きな紋付袴姿の先生が歩いて来られました。

ハッとしてよく見ると、写真でしか拝見した事のない先々代宗家、宝生英雄先生です!

その圧倒的な存在感に、正にその場に平伏してしまい、通り過ぎて行かれるまで顔を上げられませんでした。

「オーラ」という言葉は当時使われていませんでしたが、雰囲気だけで圧倒される経験はそれが初めてで、いまだによく覚えております。

その「大阪能楽会館」も、寂しいことですが今年の年末をもって閉館されるということです。

実は明日、私は大阪能楽会館にて開催される「大阪満次郎の会」に地謡として出演いたします。

これは玄人会としては最後の大阪能楽会館の舞台になります。

しかも曲目は辰巳満次郎師の能「松風」です。

受付手伝いだった学生の頃から、能楽師になってからもずっとお世話になって来た「大阪能楽会館」。

そこで最後に謡うのが、思い出深い曲「松風」というのもまた感慨深いことです。

明日は大阪能楽会館に感謝しつつ、精一杯舞台を勤めたいと思います。