今年最後の五雲会

今日は水道橋宝生能楽堂にて五雲会に出演して参りました。

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ちょっと早いのですが、これが今年最後の水道橋の舞台になります。

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私は留(最後)の能「船弁慶」の地謡でした。

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今年最後の五雲会ということで、見所も沢山の人で溢れています。

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思い起こすと、私の今年最初の舞台はこの水道橋での1月の月並能で、しかもその初番の能「翁」の地謡でした。

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月並能の初番地謡で始まった今年を、五雲会の留地謡で締めくくれるのは、なんだか輪がぴったり閉じるようで嬉しいことでした。

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楽屋の何人かの人達や、ロビーでお会いした方々などに「今年お会いするのは多分今日で最後ですよね。どうか良いお年を」と挨拶を交わして宝生能楽堂を後にしました。

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来年からは五雲会の形式が変わって能が3番になり、そのかわりに新たな舞台「夜能」がスタートします。

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私も5月25日の夜能で能「夜討曽我」のシテを勤める予定です。

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今は新たな方向へとどんどんチャレンジを続ける宝生流です。

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私は基本的には変わらずに淡々と進んで行きたい性格なのですが、そうは言っても今年の自分に何か少しでも付け加えられるように、来年も精進して参りたいと思います。

散歩心に火がついて…

普段電車での移動ばかりで、文字通り「地に足のつかない」生活をしているためか、私は実は散歩が大好きです。

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今日は稽古のキャンセルなどがあり、ぽっかりと時間の空いた1日でした。

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ゆっくり休んで午後遅くに、細々とした買い物などをしようと近所のジョイフル三ノ輪商店街に行ったのですが、関係無いお店をぶらぶら見てまわったり、途中テレビの撮影(リリーフランキーと少年が商店街で買い物をするシーンでした)に出くわしたりしているうちに「散歩心」に火がついてしまいました。

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三ノ輪橋からぶらぶらと南下して、根岸辺りを抜けて鶯谷駅の横を通ると、上野寛永寺に出ました。

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そこから上野駅の公園口の横を通ってアメ横の方におりました。

上野駅越しにスカイツリーが綺麗でした。

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上野から今度は不忍池のほとりを通って、上野動物園をかすめて根津方面へ。

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言問通りに出てからは通称「へび道」と言われるくねくねした一本道を日暮里方面へ進みました。

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やがて「谷中銀座商店街」に辿り着き、日暮里駅に向かいます。

日が暮れた谷中銀座は、地元の人だけが行き交う懐かしい商店街でした。

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突き当たりの「夕焼けだんだん」を登って振り返ると、もうすっかり夜の谷中銀座が望めました。

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そして日暮里駅を横目に見て、今度はいわゆる「日暮里繊維街」に入ります。

ここを抜けると、三ノ輪まではもう僅かの道のりです。

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ここ最近は本当に身も心も地に足のつかない日々が続いていましたが、下町の何気ない暮らしを見ながら散歩して、ちょっと落ち着くことが出来ました。

雪の青森から

雪の青森から今朝何とか帰って参りました。

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「何とか」というのは、実は今朝青森駅で停電トラブルに巻き込まれてしまったのです。

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雪の影響なのかはわからないのですが、早朝に宿を出て青森駅に行くと、構内の停電で電車が始発からすべて止まっていて、タクシーで新青森駅まで代行輸送をするとの事でした。

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しかしタクシーには長蛇の列。

新青森駅に着いた時には私の乗る筈の新幹線はとうに出発していました。

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次の新幹線は1時間後です。

しかもその新幹線に乗ると今度は停電が復旧したとかで、青森から遅れて来る在来線を待ってなかなか出発してくれません。。

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それやこれやで、冷や汗をかきながら水道橋の宝生能楽堂に駆け込み、何とか五雲会申合に間に合ったという訳なのです。

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雪と寒さと停電と、最後まで気が抜けない東北巡業でした。

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今回の雪と氷の写真を何枚か。

新青森駅に巨大な天然のクリスマスツリーが出現していました。

左端のクレーンの先端にいる人と比べると、大きさがわかると思います。

実はこのツリーは一本ではなく、9本の「青森ヒバ」が円形に植えられているのだそうです。

しかし雪だけのシンプルなデコレーションがとても美しく見えました。

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先日のブログで書いた「雪だるま〜る」も雪を被って「雪だるま」になっていました。

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居酒屋 弁慶のキャラ、弁慶君も雪に覆われて寒そうです。。

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「つらら」を久しぶりに見ました。

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次の東北は来年1月の予定です。

その時にはまた北の町の有様を色々書きたいと思います

休息と復活

今日は枚方カトリック教会で植田竜二先輩の告別式がある日でした。

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私は東北での仕事があり、大変残念で申し訳無いことながらどうしても参列出来ませんでした。

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しかし何人かの方から式の様子をメールでお送りいただき、それを読むと本当に良い旅立ちだったのだなと思いました。

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聖堂に入りきらない程大勢の植田さんを慕う人達に囲まれて、京大宝生会OBが交互にシテ謡を謡っての「融」の素晴らしい謡も手向けられ、奥様と結婚式を挙げられた教会で、花に囲まれて旅立って行かれたとのこと。

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「ある人がどのように生きたのかは、その人が亡くなった時にわかる」というような意味の言葉を聞いたことがあります。

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植田さんは本当に良い人生を、最後まで植田さんらしく全うされたのだと思います。

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また式では、休息と復活というお話があったとのこと。

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植田さんもきっと生まれ変わって、また未来の京大宝生会を指導してくださるのでしょう、と石黒実都さんからのメールにあり、しみじみとその通りだと思いました。

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その時に京大宝生会がちゃんと続いているように、私がいる間は全力を尽くし、そして私がいなくなる時が来たら、次の誰かにきちんとバトンを渡していきたいと思います。

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植田さんどうかその時まで暫くの間は、天国でゆっくりとお休みになってください。

「緊張感」と「不安感」

今日の仙台稽古にて、お弟子さん達から色々なお話を聞きました。

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①舞台に出た時に頭が真っ白になる事がある。それは稽古の途中段階で舞台に出てしまった時で、それを超えてしっかり稽古した時の舞台では真っ白にならず冷静でいられる。

②能のシテで幕が上がった時に、地謡の先生方と視線が合った気がしてとても怖かった。

③同じく能のシテの時に、幕が上がって歩み始めようとしたら、金縛りみたいになって前になかなか進まなかった。

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まだまだ色々聞いたのですが、いずれも興味深い内容でした。

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例えば①に関しては、「緊張」と「不安」という異なる二つの要素の絡みだと思うのです。

稽古が足りないと思っている時には、当然「不安感」が大きく、それが「緊張感」と重なった時に頭が真っ白になって何もわからなくなるのだと思います。

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しかし充分な稽古をして舞台に臨めば不安感は少なく、そのような場合の「緊張感」は逆に舞台に集中させてくれる気がします。

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②は実は私も感じることで、視線を感じると無用な不安感を抱いてしまうので、私は地謡や後見とあまり目線が合わないように面の位置を調整したりいたします。

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③は、橋掛りには傾斜があって、舞台に向かって僅かに登り坂になっています。

あくまで推測なのですが、それが緊張感と相まって、金縛りのようになかなか前に進めないように感じてしまったのではと思います。

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私が普段感じていても、なかなか具体的に認識していなかった事を、お弟子さんに聞いて改めて考えてみて、「成る程そういう事だったのか」とわかる事があります。

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今日はたまたま「緊張感」と「不安感」に関して、仙台の皆さんに非常に有意義なお話を伺うことが出来ました。

とても有り難い時間でした。

2件のコメント

植田竜二先輩のこと

今から50数年前の京大キャンパスに思いを馳せてみます。

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そこでは能楽部宝生会に入部したばかりの1人の青年が、「浮き立つ雲の行方をや」と鸚鵡返しを受けています。

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きっとその容貌は今の宝生会現役とどこか似通っていて、そして初めて謡に触れた喜びに眼を輝かせていたことでしょう。

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青年は現役の4年間を全力で駆け抜けて、卒業してOBになってからも熱心に稽古を続け、京大宝生会と京都の学生宝生流を見守りながら、ずっとずっと過ごして来ました。

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やがてその存在は学生クラブの範囲を超えて、関西宝生流全体に多大な影響を及ぼすまでになりました。

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しかしそれほど大きな存在なのにもかかわらず、あくまで飄々とした佇まいで、片手にグラス、片手はポケットに突っ込んで、ユーモアに富んだお話でいつも周囲を笑わせている、それが植田竜二先輩です。

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私は京大宝生会の現役だった頃から、植田さんには本当に一番お世話になりました。

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私が能楽師になりたいと言い出した時、川端今出川の小料理屋「紀州屋」にて植田さんと徳永、米澤両先輩より頂戴した貴重なアドバイスは、今でも肝に銘じております。

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内弟子修行を終えて「澤風会」を立ち上げる時には、「紫明荘」を稽古場として使えるように手配してくださり、澤風会の中心メンバーを紹介してくださいました。

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植田さん無くして、今の私と澤風会は無いと思います。

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その植田竜二さんと、このように早くお別れをしなくてはならないとは。

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つい先週末に植田さんのお見舞いにいらした方からは「穏やかな口調でいつまでもお話しておられました」と伺い、私も年内にもう一度お見舞いに伺おうと思っていたのです。

話したいこと、伺っておきたいことは沢山ありました。

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「第1回京宝連」に参加されたという植田さんは、この春の「第116回京宝連」の舞台を、大江能楽堂の最前列で最初から最後までじっと見つめておられました。

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そして来週の日曜日には「第117回京宝連」にあたる関西宝連が大阪能楽会館で開催されます。

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その舞台や見所には、植田さんの姿は無いかもしれません。

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しかし、「この世にいなくなった人でも、その想念は世に残っている」というのは能楽の重要な要素のひとつです。

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ならば植田さんの想念は、きっと次の日曜日にも、この先もずっと、学生の舞台と共にあると私は信じます。

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そしてまた私がこの世にいる間は、「植田竜二先輩という偉大なOBがいらした」ということを、宝生会の現役に語り継いでいきたいと思います。

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いつかどこかで、再びご一緒に謡えることを願いつつ。

植田さん、どうもありがとうございました。

1件のコメント

能一番にかかる時間

今日は水道橋の月並能に出演して参りました。

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よく「能はどれくらいの時間がかかるものですか?」という質問を受けることがありますが、今日の月並では初番の能「巻絹」が70分、次の能「芭蕉」はなんと130分、そして私が地謡に入った留(最後)の能「乱」は40分と少しで終わりました。

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つまり、短い能では40分くらい、長いものでは2時間以上かかる曲があるのです。

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今日はたまたま「短い曲」「中くらいの曲」「長い曲」と、各種取り揃えての番組でした。

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因みに短い曲でも長い曲でも一曲は一曲として扱うので、どんなに長い曲でも途中でお囃子や地謡が交替する、などということはいたしません。

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今日で言うと、130分かかった「芭蕉」の出演者はさすがに相当に消耗して舞台から帰って来られました。

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今回私が出た「乱」は「芭蕉」の約3分の1の時間でしたが、また次は長い曲に出演することも当然あります。

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なので、出演者としては曲の長短にかかわらず、その日の一曲にとにかく全力を尽くして演ずるように心掛けるのみなのです。

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今日の能「乱」では、内弟子仲間の東川尚史くんがシテを勤めて、無事に「披き」を終えられました。

本当におめでとうございました。

崇寶会・松実会のお手伝い

今日は奈良春日野国際フォーラム舞台にて、「第18回崇寶会・松実会」のお手伝いをして参りました。

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崇寶会は山内崇生師、松実会は石黒実都師の同門会です。

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お2人は私と歳の近い先輩として、普段から何かと一番お世話になっている方々です。

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今日の会は、私は確か第10回の時に初めてお手伝いさせていただいてから続く御縁ですが、今回の第18回ではとにかく仕舞がたくさんあって驚きました。

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年齢層も、お子さんから学生、社会人、ベテラン勢と多彩な顔触れでした。

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学生の何人かは京都で授業に出てから、また社会人の方の中には仕事を終えてからいらして、すぐに舞台に出てくださる方がいらっしゃいました。

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小さなお子さんと一緒に来て、何とか舞台に出てくれた若いお母さんも印象的でした。

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そうやって色々やり繰りして駆けつけてくださる方が多いのは、やはりこの会の舞台が魅力的だからこそだと思います。

合同の会で18回の歴史を刻む会はそれほど多く無いと思いますが、これもお2人のチームワークが抜群だから出来る事なのです。

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この盛大でありながらも堅苦しく無い楽しい舞台が、今後も末永く続くように心より祈念いたします。

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本日はどうもありがとうございました。

三日会わざれば…

今日の京大稽古にて。

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私「では仕舞始めますか」

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2回生(副部長)「え〜七騎落の地謡は、○○さん、××さん、☆☆さん、△△さんです」

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七騎落を終えると次は…

2回生(副部長)「次の雲雀山の地謡は、□□さん、◇◇さん、●●さん、★★さんです!」

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おお、2回生がテキパキと指示しています。

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そして稽古が進んで夜遅くなり、何人かが帰る時間になると…

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2回生(部長)「一旦ミーティングします〜」

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おお、やはり2回生の新部長がきっちりと仕切っています。

更にそのミーティングでは…

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部長「何か話ある人いますか?」

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1回生「あ〜、新歓委員からですけど…」

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なんと、1回生も早くも仕事をする立場になっていたのですね。

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部長などの執行部学年を終えた3回生は、地頭にチャレンジして頑張っています。

そして4回生は、もう大学生最後の舞台を目前に控えて、貫禄すら漂わせています。

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「男子三日会わざれば刮目して見よ」は、三国志の話を基にした慣用句ですが、今日の稽古では正にその心持で、「みんないつの間に成長していたのだなあ」と瞠目したのでした。

張り扇の修理

我々は稽古の時に、普通の扇の他に「張り扇」というものを使います。

このような物です。

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張り扇は、扇の骨に和紙を重ねて貼り付け、更に上から牛や鹿の皮で包んで作ります。

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私も以前は自分で作ったものを使っておりましたが、今使っている写真の張り扇は私の自家製とは全く違う上等なものです。

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7年程前に、大皷方の佃良太郎さんの結婚式で、引き出物として頂戴したのです。

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出席した能楽師200人分の張り扇を、なんと良太郎さんのお父様の佃良勝先生が自ら一本一本作って下さったものなのです。

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以来7年、全国どこへ行くにもこの張り扇と一緒でした。

海外にも何度か一緒に行きました。

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何万回と叩いても頑丈に耐えてくれていたこの張り扇なのですが、実はついに少し痛んでしまいました。

一本の白い部分と茶色の持ち手部分の縫い目が解けて、スポッと抜けてしまったのです。

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扇の骨が芯になっている構造がよくわかりました。

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…しかしこのままでは明日以降の稽古に支障をきたすので、自分で修理することにしました。

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ごく普通の黒い糸と針で、白い部分と茶色の部分をジグザグに縫い、更に上からぐるぐる巻きにして完成です。

また明日からバシバシ叩いていかせてもらいます。

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張り扇さん、これからもどうぞよろしくお願いします。