多武峰にて

外山の宗像神社にて、宝生和英宗家の能「翁」奉納を見学した「能楽師と周るバスツアー」一行。

時間が押し気味なので、次の目的地「多武峰・談山神社(とうのみね・たんざんじんじゃ)」へと急いで出発しました。

「多武峰」に於いては室町時代に「八講猿楽」が行われていて、結崎座、坂戸座、円満井座、外山座(後の宝生流)の「大和四座」が交代で出勤していたそうです。

この出勤を怠ると、「罰金」や「追放」などの厳しいペナルティが課せられたということです。

能楽の黎明期の楽師達は、何となく自由で大らかな活動をしていたと想像していました。

しかし現実には座の中に厳しい戒律があり、また「田楽」などのライバルにも囲まれて、現代の我々よりも縛りの多い大変な毎日を送っていたようです。

「多武峰」に向かう道は完全に山道で、1.5車線のヘアピンカーブが連続していました。

紅葉の時期は大渋滞になるというのも頷ける道です。

多武峰に到着すると、先ずは昼食会場のある「多武峰観光ホテル」へ。

「素麺」や「鮎の塩焼」など、地元の名物が満載の豪華な昼食の後、参加者の皆さんは三々五々談山神社の見学に向かわれました。

私はと言うと、何人か観光ホテルに残ってゆっくりされている方々に付いて、神社は遠目に眺めて満足いたしました。

添乗員ですからね。(実際は夕方の舞台に向けて、体力の温存…)

因みに繰り返しですがこれは「能楽師と周るバスツアー」なので、私の格好は朝に京都の宿を出た時から「紋付袴」です。

紋付袴でホテルで立っていたら、従業員の方に声をかけられました。

「宗像神社でお能を奉納されて来たのですよね。私は外山の人間で宗像神社の氏子なのです。回覧板で神社に手伝いに行くように言われたのですが、このツアーがあるので今日はホテルに出勤したのです」とのこと。

そう言えば、宗像神社の境内には法被を着た氏子さんが沢山いらして、色々なお手伝いをしてくださっていました。

今回の奉納は、地域の皆さんのご協力で成り立っていたのだと、大変有り難く思いました。

外山も多武峰も、私はこれまでは殆ど訪れたことのない地域だったのですが、今回のことで御縁が出来たので、是非また度々来てみたいと思いました。

「多武峰観光ホテル」でお話しした従業員さんにも「今度は観光ホテルに泊まりに来ます!」と約束してお別れしました。

そしてバスツアーは次の目的地「大神神社」へ。

続きはまた明日にさせていただきます。

宝生流発祥の地・外山にて

今から600年と少し前に、奈良県桜井市の「外山(とび)」という所で「能楽宝生流」は誕生しました。

初代宗家蓮阿弥は、諸説ありますが世阿弥の弟とされています。

そして宝生流が生まれた地「外山」にある宗像神社の境内に、「能楽宝生流発祥之地」の石碑が昭和36年に建立されました。

今日は第20代宝生和英宗家がその宗像神社にて、能「翁」を奉納されるという記念すべき出来事がありました。

私はと言えば、今日は下のようなツアーの所謂「ツアーコンダクター」をいたしました。


…「能楽師と周る」の能楽師が、一応私だった訳です。。

このツアーには勿論、宗像神社での「翁」奉納の見学が組み込まれていました。

バスの中で宝生流オリジナル附祝言「五雲」の鸚鵡返しをしてから、いざ宗像神社境内へ。

翁の後に境内にいる全員で「五雲」を謡いました。

私は「翁」には参加しませんでしたが、宝生流発祥の地で謡う「五雲」は大変良いものでした。

また何とツアーには、生後間もない宗家のご長男、知永さんも参加されて、私のすぐ横で「翁」を大人しくご覧になりました。

宝生流の発祥から現在までの遥かな歴史を感じるこの場所で、宝生流の未来に繋がる小さな瞳がじっと「翁」を視ているのです。

私は得も言われぬ感動を覚えました。

ツアーは宗像神社の後も続いたのですが、続きはまた次回。今日はこの辺で失礼いたします。

マラソンポスター

澤風会の稽古場があったり、また定期的に仕事で行ったりする街には、同じ日本国内とは言えそれぞれ全く違うカラーがあります。

今回、面白写真を集める中でマラソンのポスターにその特徴が良く出ていたので紹介させていただきます。

街は東京、松本、京都、青森です。

まずは東京。

やはりスタイリッシュで洗練された印象です。

カラフルで楽しそうですが、ハジけた面白要素はあまり無いですね。

多様な人が暮らす首都東京で、ポスターも最大公約数に受け入れられるものにしたのでしょう。

次に松本です。

全くもって真面目なポスターです。

目に見える派手さは求めずに、日々を正しく気持良く生きている街、松本らしいポスターだと思います。

次は京都。

伝統を重んじる古都ながら、時代時代の新しい風も軽やかに取り入れて来た街です。

森見登美彦の小説などに感じられる、独特の怪しいユルさがあるこの街は、私の第二の故郷なのです。

ポスターのような格好で走ると面白そうですが、それをするとしたら京大生くらいでしょう。

しかし最後の街、青森は…


…。仮装でアフロ…。

もはやマラソンにする必要があるのかも良くわかりません…。

しかし、ユーモアのセンスで言うと、青森は私が行く街の中で群を抜いています。

冬が厳しいだけに、明るく暖かい季節をとことん楽しもうというある種の気迫、気合すら感じられます。

青森の皆さん、これからも面白写真を期待しております。

能のワキで多い役が「諸国一見の僧」で、僧は行く先々で不思議な出来事に巻き込まれます。
私は不可思議な目にはあまり遭いませんが、諸国を巡りながら、出会った面白い出来事をこれからも御紹介させていただきます。

今日はこの辺で。

出会いの化学反応

他の皆さんと同様に私も、これまでの人生の色々な段階で、沢山の面白い人達と出会って来ました。

全く違う時と場所で知り合ったそれら面白い人達を、引き合わせて友達になってもらうのが、実は私はとても好きなのです。

面白い人同士が友達になれば、化学反応を起こして更に面白いことが起きそうだからです。

実は今日の江古田稽古でそんなことがありました。

江古田稽古場に新たに入会してくれたのは、20数年前に京大宝生会の縁で知り合った人でした。英語の先生です。

そしてその人が稽古に来る時間帯に、私の小中高の同級生も稽古しているのです。こちらは英語の通訳をしています。

今日初めて稽古場で顔を合わせました。

私としては、その2人が目の前で会話しているのを見るのは不思議な感じなのですが、どちらも実に愉快な人物でテンションも高めなので、すぐに打ち解けて軽快に話していました。

また共に「英語」と「能楽」に関わる人になるわけで、この点でも今後何か面白いことに繋がっていけば良いと思います。

能楽を縦糸にして、これからも色々な面白い人達との出会いを織り重ねていけたら、有り難いことだと思います。

亀岡の花々〜夏から秋へ〜

昨日の亀岡稽古で、今年始めてツクツクボウシの声を聞きました。

空気も少し乾いて、暑さも僅かですが和らいで、いよいよ秋が近づいてきたと思いました。

亀岡には夏から秋への移ろいを感じさせる花々が咲いていました。

スズムシバナです。

ややこしいのですが、ランの仲間に「スズムシソウ」があり、そちらは鈴虫に形の似た花を咲かせるそうです。

こちらのスズムシバナは、鈴虫が鳴き始める頃に咲くので名付けられたということ。

オシロイバナと逆に、朝咲いて夕方には萎れてしまうので、写真を撮った時もちょっと元気が無い感じでした。

またこのスズムシバナは「キツネノマゴ科」に属するそうで、またしても新美南吉風な名前に興味が湧いて調べてみたのですが、「キツネノマゴ」の名前の由来は残念ながらはっきりしませんでした。

ヤブランです。

夏から秋に咲く花ですが、こちらは「キジカクシ科」だそうで、やはりメルヘンチックな科に属しているのですね。


ナデシコに似た花が咲いているなと思いましたが、これは「オグラセンノウ」というやはりナデシコの仲間でした。

なんと絶滅危惧種だそうです。

シーズン終わりの最後のひと花が見られてラッキーでした。

もう萩が咲いていると思ったら、これは「ヌスビトハギ」だそうです。萩よりも花の時期が少し早いのです。

この植物、花が終わると下のようになります。

この種子の形に見覚えはありませんか?

草原を歩いた後に、この種が服に大量に付いてしまって、取るのに苦労することがあります。

このような種を持つ植物を総称して「ひっつき虫」というそうです。なんだか今日は可愛らしい名前が多いのです。

秋の七草、オミナエシです。

ようやく能関係の花を見つけました。

能「女郎花(おみなめし)」では、この花を「花の色は蒸せる粟のごとし」と謡っていますが、確かに小さくて黄色い花は粟の粒に似ているように見えます。

ちなみに仲間の「オトコエシ」は白い花です。

こちらも秋の七草、フジバカマです。

能「善知鳥」に「間遠に織れる藤袴」という謡がありますが、こちらは本当の衣類の袴を指していると思われます。

フジバカマという植物には、実は特別な話のネタがあるのですが、それはまた回を改めて書きたいと思います。

今日はこの辺で失礼いたします。

坪光松ニ先生の思い出

京大宝生会で私がお世話になった先生方で、冬の寒い日になると思い出すのが小川芳先生ですが、また夏の暑い日に思い出される先生がいらっしゃいます。

坪光松ニ先生です。

坪光先生には謡を教えていただきました。

先生は宝生流職分でありながら、大阪大学で教授までされていた、数学の先生でもありました。

その話を聞いて、高校で使っていた数研出版の教科書を見ると、なんと著者一覧に坪光先生の御名前もありました。

今も「数研出版  坪光松ニ」で検索すると先生の著書が出てくる筈です。

如何にも学者然とした、静かで知的な風貌の先生の謡は、しかし迫力と味わいに満ちた「本物」の謡でした。

また僅か一文字も疎かにせずに技巧を凝らした謡い方と、曲全体を見渡した正確な位取りには、「謡に微分積分の考え方が応用されているようだ」と感じたりしました。

先生の鸚鵡返しの謡は、たとえ相手が経験の浅い学生だからと言って、一切手加減の無いものでした。

今でも残っている当時のテープを聴くと、学生のまだ幼い謡に対して、先生は何度でも繰り返して正確無比な本物の謡を謡って下さっています。

私などは、相手に応じて「ここはまだ出来なくて良いかな」などと注意を先送りすることがままあるので、先生の姿勢には本当に頭が下がります。

実は数年前に渡独した若手OBのT君は、その坪光先生の鸚鵡返しのテープを繰り返し聴いて謡の勉強をしていて、ドイツにも持って行っていました。彼が坪光先生最後の弟子と言えるかもしれません。

今の現役達も、出来れば坪光先生のテープを聴いてほしいものです。

実際には先生に4年間フルに習ったのは、私の学年が最後でした。

先生が亡くなられたのは8月の暑い日で、葬儀は教会で執り行われました。

先生がクリスチャンだったのをそこで初めて知って驚きました。

また、教会なので当然謡は謡えず、「先生をお送りするのには、賛美歌よりも謡が良いのになあ」と内心思ったことを覚えています。

いつか坪光先生のあの鸚鵡返しのように教えられるようになるのが、私にとっての遠い目標なのです。

奇妙な孤島の物語

最近読んだ本の中で、不思議な話がありました。

1979年2月にハワイ沖で、乗組員5名の小さなボートが嵐のために行方不明になりました。

10年近く後、その「サラ・ジョー号」の残骸が3600キロも離れたマーシャル諸島の無人の環礁で発見され、しかも残骸の横には簡易なお墓があって、乗組員の1人スコット・モーマンが埋葬されていたというのです。他の4人の行方は杳として知れませんでした。

とても想像力を掻き立てられる話です。

「奇妙な孤島の物語」という題名の本なのですが、驚くのはこの本の作者は一度も行ったことのない50の孤島の話を書いていて、それぞれが上の様な不思議な余韻を残すエピソードなのです。

この本の持つ雰囲気が能楽に通じると私は思いました。

・自らが体験したのでは無い話を、主に伝聞を基に物語にしている。

・全てを説明せずに、読者に想像力を働かせる余地を多分に残している。

・歴史に埋もれて忘れ去られた人物や、名も無い市井の人々に光を当てて、そこにも壮大な物語があることを教えてくれる。

普段は文庫本しか読まないわたしですが、この大判ハードカバーの本は毎日少しずつ大事に読んでいます。

ニュージーランド沖の無人島で、ペンギンの大群に囲まれて行方不明になった兵士は、その後どうなったのか。

10数人の男だけが暮らす、インド洋に浮かぶ絶海の孤島の観測所で、それでも彼等が感じている自由とは一体どんなものなのか。

そしてサラ・ジョー号の4000キロ近くにわたる漂流の旅路と、5人の乗組員の運命。

今夜も能を観るように「奇妙な孤島の物語」を少しだけ読んで、一生行かないであろう海の彼方の孤島のドラマを想像しながら、休もうと思います。

最新の舞台出演予定です

平成29年2月4日(土)13時半始 於香里能楽堂
七宝会新春公演 能「兼平」シテ澤田宏司
平成29年2月12日(日)朝6時~6時55分
NHKFM「能楽鑑賞」兼平 シテ山内崇生 ワキ 澤田宏司
平成29年4月15日(土)正午始 於宝生能楽堂
五雲会 能「百萬」シテ澤田宏司
平成29年7月15日(土)正午始 於宝生能楽堂
五雲会 能「半蔀」 シテ澤田宏司

ホームページ開設

ホームページを開設いたしました。

この度は能楽師澤田宏司のホームページをご覧いただきましてありがとうございます。
私の家は代々繋がる能楽師の家柄では無いのですが、様々な御縁に支えられて能楽の道に進むことができました。
能楽の素晴らしさや稽古の充実感を、出会った方々と少しでも共有できたら幸いに存じます。
どうぞよろしくお願いいたします。

能楽宝生流シテ方 澤田宏司