異名同曲と同名異曲

今日は昼過ぎに京都金剛能楽堂で京大能楽部自演会「能と狂言の会」の申合があり、その後バタバタと東京に移動して、これから水道橋宝生能楽堂にて「リレー公演」に出演いたします。

3ヶ所の能楽堂(宝生能楽堂、矢来能楽堂、梅若能楽学院会館)で今日から3週間にわたって同じ演目を上演する企画です。

「同じ演目」と書きましたが、チラシの表には「黒塚」と「安達原」の2つの曲名が書かれています。

内容は同じ曲でも宝生流では「黒塚」、観世流では「安達原」と呼ぶのです。

このように全く違う名前になるのは珍しいのですが、同じ曲を「少しだけ違う」曲名で呼ぶことは多くあります。

・宝生流「草紙洗」は観世流では「草子洗小町」、喜多流では「草紙洗小町」。

・宝生流「大原御幸」は喜多流では「小原御幸」。

・宝生流「八島」は観世流では「屋島」。

などなど。ややこしいところでは、

・宝生流「枕慈童」は観世流では「菊慈童」ですが、観世流「枕慈童」という曲もあり、こちらは宝生流とは内容が違う曲になります。更に金剛流には、同じ慈童が出てくる「彭祖」という曲もあります。

こうなると書いていても訳が解らなくなります。。

しかし逆に曲名通になると、曲名を見ただけでどの流儀かわかるようになり、それはそれで楽しいかもしれませんね。

興味ある方は是非調べてみてくださいませ。

今日はこれにて。

渡り鳥

今日は夜に香里能楽堂で、新作能「復活のキリスト」の稽古がありました。

京都から香里園に京阪電車で向かったのですが、途中車窓から、渡り鳥の編隊飛行を見ました。

淀を過ぎて八幡市との中間くらいの所で、遠くの空でしたが10数羽の比較的大型の鳥達が、逆V字の隊列を組んで、北東から南西方向に向かって飛んで行ったのです。

「ああ、秋だなあ」としみじみ思いました。

私が見たのは、推測ですが鴨の一種で、大阪城公園にある飛来池を目指していたと思われます。

能「花筺」のシテ照日の前は、南に渡っていく渡り鳥である「雁」を道案内にして、越前国を出発し大和国桜井にあった玉穂宮を目指しました。

しかし、実は現代日本においてはこの「花筺」のエピソードは成立し得ないのです。

…というのは、雁がシベリアから飛来する南限が、現在は島根県の宍道湖だそうだからです。

日本海側までしか渡って来ないと言うことは、福井県から奈良県に向かうための道案内にはなりません…。

これにはやはり地球温暖化が影響しているようです。

明治の頃には上野の不忍池にも雁がいたそうで、もっと昔の継体天皇の時代には、大和国辺りまで渡っていたかもしれません。

しかし、じわじわと暖かい地域が北上して行き、もしかすると遠い将来には、本州では雁の渡りが見られなくなる、という日が来るかもしれません。

一介の能楽師の私ですが、やはり地球の環境が変化していくのは気がかりなことです。

渡り鳥を見てしみじみと秋の深まりを感じる風情が、いつまでもこの日本にあってほしいと思うのです。

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農繁期と能繁期

我々能楽業界では、「農繁期」をもじって「能繁期」という言葉を使うことがあります。

春は4月〜5月、秋は丁度今頃の10〜11月にあたり、舞台の数が年間で一番多くなる時期なのです。

ここ最近は正しく「能繁期」で、お仕事を頂戴するのは有り難いことながらもいつも以上にバタバタしておりました。

舞台が増えると稽古の日数が減ってしまうというのが悩ましいところで、澤風会各稽古場の皆様には大変申し訳無く思っております。。

今月後半には少し落ち着いて参りますので、また稽古頑張りたいと思います。

この「農繁期」と「能繁期」はだいたい同じ時期に重なっております。

春と秋の、一番過ごしやすく天候も安定している頃です。

厳しい自然と直接向き合う「農業」と、「能楽」を比較するのは大変失礼かと思います。

しかし、移動中の新幹線や電車の窓から「田植え」や「刈り入れ」が綺麗に済んだ田圃が見えると、「ああ、農業の皆さんも農繁期で頑張っておられるのだな。私も能繁期を頑張ろう!」と元気をいただくことがあるのです。

そして「農繁期」の産物を沢山食べて、更に元気をつけて、この秋の「能繁期」を乗り越えたいと思います。

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ひろしま平和能楽祭

昨日は香里園で七宝会がありましたが、今日は広島に移動して「ひろしま平和能楽祭」に出演いたしました。

広島は母親の家族が原爆で亡くなった場所です。

一度きちんとその辺りの町を訪ねておきたいと思いながら、なかなか時間が無く、広島に来るのは5〜6年に一度のこの「ひろしま平和能楽祭」だけになってしまっております。

今回は6年ぶりの広島でしたが、広島駅を始めとして街が新しくなっていて驚きました。

高級高層マンションがいくつも建ち並び、前回よりも街に活気があるように見受けられます。

車で会場のアステールプラザ能楽堂に向かう途中に平和公園の横を通り、原爆ドームが遠くに見えました。

あそこから程近い場所に、母とその家族の暮らしがあったのです。

色の褪せた写真でしか見たことのない祖父母、叔父叔母達は、もちろん子孫の一人が能楽師になっているなどとは思いもよらないことでしょう。

しかし能楽師としてこの広島で仕事を頂戴し、しかもそれが「平和」を祈る舞台だというのもまた何かの御縁だと思います。

今日は能「井筒」の後見と、能「鵜飼」の地謡を、母の家族と原爆で亡くなられた方々への鎮魂の心を込めて精一杯勤めさせていただきました。

バタバタと過ぎるばかりの生活ですが、次の平和能楽祭を待たずに、何とか広島の街を改めて訪ねてみたいと思っております。

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瞬きを止める方法

火曜日のプラスチック成形加工学会の時に、私は壇上で能の型のモデルを少し勤めました。

ずっと「構え」の状態で立ち、満次郎師の解説に合わせて「くもる」「しおる」「面を切る」などの型をやるのです。

その解説の中で満次郎師が「我々は能面をかけていなくても、”直面(ひためん)”と言って表情を変えずにいます。瞬きも一切致しません」と仰いました。

その瞬間、何となく会場の数百人が「へ〜っ」と感嘆の声を出して、私の眼に視線を集中した気がしました。

「これは瞬きしてはならないぞ」と内心ちょっと困ってしまいました。

実は白状すると、私は「瞬きを一切しない方法」というのを未だ会得しておりません。

その昔、東京芸大にいた頃に当時観世流の教官をしておられた野村四郎先生に「瞬きを止める方法はありますよ。」と伺ったことがあります。

しかし私が「それはどんな方法ですか?」と質問しても、先生は笑って「それは自分で考えてごらんなさい」と仰るばかりでした。

それ以降、例えば直面のツレで舞台にずっと立っている時などに、色々と瞬きしない方法を研究してみました。

…が、とりあえず現在のところ、

①瞬きをした「つもり」になって、僅かに眼を細めただけですぐまた元に戻すと、「瞬きをした気持ち」になれる。

…という程度の事しか出来ておりません。

そしてどうしても我慢出来なくなった時は、以前に書いた「手品師の手法」を使って、

②お客様の視線が明らかに自分に無い時に、素早く瞬きをする。

という小技を併用しております。

プラスチック成形加工学会の時にも①②の合わせ技を使い、「お客様にはどう見えただろうか?」と内心ドキドキしながら壇を下りました。

そして終了後のパーティの時にある大学教授が「舞台上で一切瞬きをしないと聞いてから、ずっと貴方の眼を見ていたのですが、本当に全然瞬きしていませんでしたね。すごいと思いました。」と私に話しかけてくださいました。

どうやら今回は私のやり方でクリア出来たようで良かったです。

しかし、野村四郎先生の仰ったのはおそらくもっと根本的な方法だと思われます。

今日も七宝会でずっと舞台におりましたので、密かに色々試してみたのですがやはり瞬きを「長時間」「完全に」止めるまでには、まだまだ研究と鍛錬が必要だと思いました。

なので舞台上で直面の私がいても、じっと眼だけを見たりしないよう、くれぐれもお願い申し上げます。。

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プラスチックと能楽

今日はまた新幹線で大阪に移動して、「プラスチック成形加工学会」という学会の特別講演をされる満次郎師の助手を勤めて参りました。

「プラスチック成形加工」と「能楽」。

一見何も接点が無いように思えます。

しかし満次郎師の実演を交えた講演の最中は、学会の皆さん大変熱心に見聞きしてくださいました。

終了後のレセプションでは、会長が「プラスチック素材が今後どのような分野に広がる可能性があるのか、模索して行くことが重要である。」という内容の事をお話されました。

そして全くの門外漢の私にも、大勢の学会の方々が話し掛けてくださり、例えば「扇の要」や、「紋付袴」などでは既にプラスチック素材や化学繊維が使われていることなどを話すと、大変興味深そうに扇の写真などを撮影しておられました。

「コルク」や「皮革」などは、少し前に比べると技術が進歩して、自然の物にとても近い素材が開発されているそうです。

ならば例えば小中学校のワークショップなどで使う「能面」を、木材に近い風合のプラスチックで大量に作れたら、低コストで多くの子供達に能面を掛ける体験をしてもらえるでしょう。

また薪能などで使う野外の舞台にプラスチック加工素材を用いることで、雨や湿気に強く、軽量で強い舞台が作れる可能性があります。

プラスチックというと失礼ながら何か「本物ではなく模造品である」というような先入観がありましたが、学会の方々は「本物を超える素材を作る」ということを目標に、研究開発を熱意を持って進めておられることを知りました。

普段は考えもしないことですが、我々のいる能楽業界も、急速に進化している様々な先端素材を如何に有効に使っていけるのかを、模索することが今後必要なのだろうと感じました。

大変勉強になった、学会参加の一日でした。

すごい記憶能力

ここ数日、謡をたくさん頭に入れては、舞台で謡い終わると消去して、また次の謡をインプットするということを繰り返しております。

私の記憶方法は前に書いたことがありますが、それは例えば受験生が英単語を覚えるやり方と同じ、つまり普通の人の記憶方法と何ら変わりの無いものだと思います。

しかし私が昔京大農学部林学科にいた頃に、非常に特殊で羨ましい記憶能力を持つ友人がいました。

彼は生まれてこの方、授業で「ノート」をとったことが無いというのです。

何故ならば彼は黒板に書かれた内容を暫く眺めると、まるで写真のようにその黒板の映像ごと脳内に記憶することが出来るということなのでした。

実際彼は成績も優秀で、大学院試にはトップで合格していました。

私が能の道に進んでからは連絡も取らなくなってしまいましたが、今能楽師として思うのは、彼の「映像記憶能力」があれば、謡を覚えるのは実に容易いだろうということです。

「遊行柳」の20ページ6行目にある節は「大のマワシ」だったな。などとすぐに思い出せれば。

いやもっと言えば、脳内に謡本の映像が見えれば、絶対に間違えずに謡うことが出来るはずなのです。

今から思えば彼にその「映像記憶能力」の事をもっと詳細に聞いておけば良かったです。何かコツがあるのか、など。

でも今となってはもう連絡手段がありません。。

…という訳で今日も、先ほど京阪神巽会で謡い終わった謡を脳内から消去して、新たに明日謡う謡を記憶するという作業を、苦しみながら進めるしか無い私なのでした。。

京阪神巽会

もう昨日になりましたが、「大阪満次郎の会」は沢山のお客様にお越しいただきまして無事に終了いたしました。

そして明日は同じ会場の大阪能楽会館にて、「京阪神巽会」が開催されます。

この京阪神巽会は、実は私が京大宝生会を卒業してからすぐに入門した会なのです。

先日のブログにも書きましたが、私は卒業してすぐに七宝会の能「竹生島」の地謡につけていただきました。

当然その稽古をしなければならないということで、小川先生に連れられて辰巳孝先生の京都のお稽古場に入門のお願いに伺いました。

そのお稽古場はなんと祇園の「お茶屋さん」で、京大近辺しか知らなかった私にとってはほぼ初めての「京都らしい場所」だったのです。

当然昼間なので芸妓さんや舞妓さんはいないのですが、お茶屋さんの佇まいが何とも言えず「祇園」の雰囲気を醸し出していました。

それまで京大BOXでしか稽古していなかった私は、稽古を待つ間非常に緊張して待合で正座していた覚えがあります。

その後能楽師を目指すことになり、辰巳先生の鞄持ちとして、先生に付いて京阪神巽会の各稽古場をまわりました。

香里園の先生の御自宅舞台を始め、京都の「三上」、大阪の「大仙寺」、神戸の「湊川神社」。毎日のように京阪神巽会のどこかのお稽古場にいる日々でした。

それぞれのお稽古場の会員の方々とお知り合いになり、年に一度の「京阪神巽会」はそれらの皆さんが一堂に会する、私にとっては「お祭り」のような舞台になりました。

それから随分長い時間が経ち、会員さんも入れ替わりがありましたが、やはり京阪神巽会は特別な会だと思っております。

ただの学生が能楽師を目指すという過程で、ベテランの巽会会員の皆さんに色々教えていただきましたし、辰巳先生の稽古を間近で拝見出来た経験は何より今に生きていると思うのです。

明日が自分にとって何回目の京阪神巽会になるのか、最早はっきりとは判りませんが、今年も大切な舞台を精一杯謡わせていただきたいと思います。

大阪能楽会館

大阪は梅田に、格式ある大きな能楽堂があります。

「大阪能楽会館」という名前の舞台です。

私が京大宝生会の現役だった頃、七宝会の別会で受付のお手伝いに何度も伺ったのが大阪能楽会館の最初の思い出です。

中でも、私が4回生の秋にあった七宝会は、辰巳孝先生の能「松風」と、辰巳満次郎先生の能「道成寺」があるということで、勇んで受付に参りました。(受付の手伝いの学生は、舞台が始まると自由席で舞台を観られたのです)

「松風」と「道成寺」は勿論とても素晴らしい舞台だったのですが、私にとって一番強烈な記憶は、受付の用事で楽屋に入った時のことなのです。

楽屋の廊下で正座していると向こうから、とても大きな紋付袴姿の先生が歩いて来られました。

ハッとしてよく見ると、写真でしか拝見した事のない先々代宗家、宝生英雄先生です!

その圧倒的な存在感に、正にその場に平伏してしまい、通り過ぎて行かれるまで顔を上げられませんでした。

「オーラ」という言葉は当時使われていませんでしたが、雰囲気だけで圧倒される経験はそれが初めてで、いまだによく覚えております。

その「大阪能楽会館」も、寂しいことですが今年の年末をもって閉館されるということです。

実は明日、私は大阪能楽会館にて開催される「大阪満次郎の会」に地謡として出演いたします。

これは玄人会としては最後の大阪能楽会館の舞台になります。

しかも曲目は辰巳満次郎師の能「松風」です。

受付手伝いだった学生の頃から、能楽師になってからもずっとお世話になって来た「大阪能楽会館」。

そこで最後に謡うのが、思い出深い曲「松風」というのもまた感慨深いことです。

明日は大阪能楽会館に感謝しつつ、精一杯舞台を勤めたいと思います。

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能「安宅」無事終了しました

宝生会別会の能「安宅  延年之舞」はおかげさまで無事終了いたしました。

シテツレ子方合わせて10人が一斉に楽屋で装束を着けて、着いた者から順に鏡の間に移動するので、楽屋はてんてこ舞いです。

楽屋はとても大変なのですが、この「安宅」や、「正尊」、「七人猩々」、「春日龍神 龍神揃」、「鞍馬天狗 天狗揃」などのいわゆる「人数もの」の楽屋は、独特の華やかな空気に包まれます。

装束を着けたツレ同士が互いの姿を見て、「おっ、兜巾が似合うね。ベスト・トキニスト・オブ・ザ・イヤーだね!」などと評し合ったりしています。

安宅のツレ同行山伏の着付(最初に着る装束)は、大抵が白地に紺、緑、茶などの格子柄の模様が入った、そこそこ色のある装束です。

今日の私の着付は…とズラリと並んだ装束を見渡すと…。

白地に格子は皆と一緒なのですが、格子の色は薄い茶と銀鼠色で、全体に非常に落ち着いた(地味な…)色に見えます。。

しかし内弟子さんが言うには「澤田さんの着付は、僕のおすすめのシャンパンゴールドです!」

成る程!シャンパンゴールド!

…何か派手な着付に見えて来ました。

装束を着けて鏡の間に行くと…

先輩「あれ、澤田くんの着付、なんか地味だね」

私「いえいえ派手です。シャンパンゴールドですから!」

そういった空気も本番が近づくにつれて、まるでゴム飛行機のプロペラを廻すように徐々に引き締まっていきます。

そして囃子方の「お調べ」が始まる頃、鏡の間には、各々の緊張感が綯交ぜになった非常に張り詰めた空気が漂います。

やがて聞こえてくる「次第」の囃子に乗って、身も心もツレ同行山伏となった私は舞台へと飛び出して行くのでした。