立春能

今日は水道橋宝生能楽堂にて「立春能」の地謡に出演して参りました。

立春能は宝生流の女流能楽師が中心になって催される舞台です。

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「能楽師には女性もいらっしゃるのですか?」という質問を度々受けるのですが、人数比では男性よりも少ないものの、たくさんの女性能楽師が活躍しておられます。

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私のような男性が、三番目などの優美な女性のシテを演じるのには、やはり色々と苦労苦心があります。

女性能楽師は、むしろそういった役は自然体で出来るのかもしれません。

逆に二番目や切能などの荒々しいシテを女性が演じるのは、また越えるべき高いハードルがあるのでしょう。

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能楽師の場合、初番目から切能まで満遍なく役が付くので、結局男性も女性もどこかで自分とキャラの異なる役を演じる苦労は経験する訳です。

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しかしその苦労のしどころはある意味で正反対なので、男性と女性それぞれどんな役でどんな苦労をしたか、情報交換をすると面白い気がします。

今日も男の霊、少年、美女、老人、貴公子などの様々な役があり、それぞれの演者の解釈や演技が興味深く、色々と勉強させていただきました。

目印になるもの

今日は水道橋宝生能楽堂にて、3月2、3日の郁雲会澤風会で出る能4番の稽古をいたしました。

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私が面をかけて能のシテを舞う時には、色々な物や人を目印にして舞っております。

・舞台の4本の柱

・橋掛りの3本の松

・舞台上にいるワキ方、ツレ、地謡、囃子方、狂言方

・作り物

などなどです。

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しかし更に、その能舞台特有の目印も沢山存在します。

宝生能楽堂ならば、

・何ヶ所かある扉

・扉の上の非常灯

・客席の列の数

・写真室の窓

・欄干の本数

などは目印になってくれます。

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まだ面をかける経験が少ない方には、これら宝生能楽堂特有の目印を覚えることが非常に重要なことなのです。

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今日は何度か舞を止めて、その目印を説明させていただきました。

後は申合で最終的にそれらを確認すれば、舞台上の位置取りは心配無いと思います。

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皆さん順調に準備が進んで、いよいよ本番が視界に入って参りました。

雪の盛岡にて

昨日の朝青森を出て仙台稽古に向かったのですが、途中盛岡で新幹線を降りました。

去年写真家のマグダレナ・ソレさんからの撮影依頼を仲介して下さった、岩手未来機構の皆さんとお会いする約束があったのです。

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今年から再来年にかけて何か能に関わるプロジェクトができないか、何ヶ所か会場の候補地を見学に行き、色々お話をしました。

まだ具体的に申し上げられる段階ではありませんが、岩手未来機構の方々はとても熱意があると感じました。

それこそ未来に繋がる催しが何か出来れば良いと思います。

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それらの打ち合わせの合間に、また何ヶ所か盛岡近辺の観光スポットにも立ち寄っていただきました。

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先日は「岐阜」の県名が織田信長由来であると聞いて驚いたのですが、昨日は「岩手」の名前の由来を初めて知ることが出来たのです。

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昔、この地域で悪さをする鬼がいました。

その鬼が「三ツ石」という大岩の神様に懲らしめられて、二度とこの地を荒らさないという確約を手形として三ツ石に残した、という伝説があるそうです。

大岩に手形をつけたので「岩手」。

その三ツ石がこれなのです。

鬼の手形はどこに?と雪の中を一周してみたのですが、見つかりません。

実はすでに手形は風化して、残っていないとのことなのでした。。

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次に、「報恩寺」というお寺にあるという「五百羅漢像」を見に行きました。

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この頃から雪が俄かに強くなり、気温もぐっと下がって来ました。

この報恩寺の中に五百羅漢像があるお堂があったのですが、なんと格子戸で外と繋がっており、お堂の中に雪が吹き込んでいます。

極寒の中で五百羅漢像を見学。

聞けば江戸時代に9人の仏師が手分けして京都で製作した像で、中には何故かマルコ・ポーロの像もあるとか。

お堂の四面にズラリと並んだ羅漢像を見ていると、驚くことがありました。

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像のいくつかが、「能面」に似たお顔をされているのです。

「景清」「猩々」「平太」に気がつきましたが、本気で探せばもっとあると思います。

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9人の仏師の中に能面も彫る人がいたに違いないと思います。

これもまた想像力を掻き立てられるドラマがありそうでした。

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僅かの間の盛岡滞在でしたが、大変実りの多い時間になりました。

岩手未来機構の皆様どうもありがとうございました。

プロジェクトが具体化したら、またこのブログでも御案内させていただきたいと思います。

足の痛い話

昨日の「耳の痛い話」に続いて、今日もちょっと痛いお話です。

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昨日も書きましたが、「正座」、特に「長時間の正座」というのは実に辛いものであり、そして我々能楽師が生涯ずっと向き合わなければならない試練でもあります。

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正座の問題点はいくつかありますが、実は「痛い」「痺れる」といった事はさほど問題ではなく、最大の問題は「立てなくなる」という事です。

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正座で足が完全に痺れた状態になると、爪先が伸びたままで固まってしまいます。

そこで普通に立とうとすると、伸びた爪先に全体重がかかったまま転倒して、最悪骨折する怖れもあるのです。

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また経験上、正座にはいくつか不思議な点があります。

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「45分の能で痺れる時もあれば、120分の能であまり痺れない時もある。」

短い能だと思って舞台に出ると、最初の15分で完全に痺れたりします。

逆に120分かかると覚悟して座ると、最初の45分など全く痺れなかったりするのです。

正座の痺れには精神的なものも関係しているのでしょうか?

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「能楽堂によって痺れ具合が違う」

私にとっては、宝生能楽堂が一番痺れが少なく、某千駄ヶ谷や某大阪市内の舞台などはとても痛くて痺れる感じがします。

しかしこれも逆に宝生能楽堂が一番痺れる人もいるかもしれません。

正座の痺れには、その場所への慣れも影響するのでしょうか…。

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「時間帯が遅いほど痺れる」

これはやはり足のむくみが関係しているのでしょうか。

夕方から夜の舞台で座ると、すぐに痺れてしまう事が多いです。

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以上のように、「正座」と一口に言っても、様々な問題点や疑問点があります。

実はこの「正座」について、専門家の先生に色々お話を伺ってみようという企画があるのです。

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5月13日(日)12時〜13時、宝生能楽堂にて開催の「能プラスワン〜五感で楽しむ能〜」にて、京都大学薬学部教授で「生体機能解析学」を研究されている金子周司先生をお招きして、私と2人で学術的立場と能楽師の立場から「正座」について対談をいたします。

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「マウスを使った正座の研究」といった、ちょっと想像がつかない興味深いお話が沢山聞けそうです。

料金は1000円(自由席)で、当日月並能のチケットをお持ちの方は500円になります。

お問合せは宝生会事務局℡03-3811-4843まで。

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皆さまこの機会に是非ご一緒に「正座」の勉強をいたしましょう。

「痺れない方法」が分かる、かもしれません。

どうかよろしくお願いいたします。

耳の痛い話

今日は夜に国立能楽堂定例公演の能「忠度」の地謡に出演して参りました。

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今日の「忠度」もそうだったのですが、能の一番最初には、笛が「ヒシギ」と呼ばれる「ヒーヤー、ヒーッ!」という強く甲高い音を出してから始まる事が多いです。

そして、この「ヒシギ」を至近距離で聴くと、大変耳が痛いのです。。

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最も至近距離で聴くのは、地謡前例の一番右のポジションです。

そこは一番若手が座る場所でもあります。

私も能の地謡につき始めた頃は必ずその前例右端に座り、最初の「ヒシギ」を聴く度に耳がキーンとなって、暫くは聴こえ辛くなっていたものです。

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ある時、「ヒシギ」の間に息を吐くようにすると、耳の痛みが少なくなることがわかりました。

笛方が笛を構えたら、よく息を吸って準備します。

そして吹きそうになったら息をゆっくり細く吐いていくのです。

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「ゆっくり細く吐く」というのは、笛方によっては構えてからなかなか吹き出さない人もいるからです。

最初の頃は普通に吐いていたのですが、今にも吹き出しそうにされているのに、なかなか「ヒシギ」が始まらず、ちょうど私の息が無くなって、大きく息継ぎをした瞬間に「ヒーッ❗️」と来て、死ぬかと思った事がありました。。

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今では前例右端に座る事も少なくなりましたが、やはり能の始めには、よく息を吸ってゆっくり細く吐いていくのが習い性になっております。

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耳が痛いのと並んで痛いのが「正座の足の痛み」なのですが、これに関してはちょっとお知らせがありますので、また別の日に宣伝させていただきたいと思います。

今日はこれにて。

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舞台から舞台へ

今日は午前中に水道橋宝生能楽堂にて、土曜日開催の五雲会の申合があり、能「源氏供養」の地謡を謡いました。

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終わってから午後は国立能楽堂に移動して、明日開催の定例公演の申合にて今度は能「忠度」の地謡を謡って参りました。

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今日は申合の掛け持ちでしたが、本番でも1日に2回別々の場所で舞台があることがあります。

私はそれ程忙しくない能楽師なのですが、最も忙しい楽師になると、1日に2箇所の舞台でどちらもシテを勤める、という先生もいらっしゃいます。

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また、海外公演から帰った日に、早速日本の舞台に立つ人もいらっしゃるようです。

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以前の澤風会京都大会では、お囃子方で「朝に北海道網走を発って紀伊田辺に移動して、舞台を済ませてから夕方に京都大江能楽堂に来た」という方もおられました。

そんな事が可能なのですね。。

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それを思えば、今日は水道橋〜千駄ヶ谷を総武線で移動しただけなので、とても楽な移動でした。

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私の場合、昔の話なのですが、全宝連金沢大会の鑑賞能の後に、最終の飛行機で小松空港→羽田空港へ。

羽田空港内にあるカプセルホテルに泊まって、翌朝6時の飛行機で韓国釜山に飛び、釜山の舞台を終えて日帰りで夜に羽田空港に帰国、ということはありました。

これは日を跨いでいますが、感覚としては東京→金沢→羽田→釜山→羽田が同じ日にノンストップで続いた気がしました。

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今年もまたそんな日もあるかもしれません。

やはり最後は体力勝負なので、きちんと食べて寝て、1日に何度舞台があっても、全て全力投球出来るようにしたいと思います。

ゆっくり喋りたい!

今日はちょっとユルいお話です。

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ごく偶に、舞台の合間に「アナウンス」をしないといけない時があります。

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「ただ今より15分間の休憩をいただきます」

と言った簡単なアナウンスなのですが、私はこれがとても苦手なのです。

というよりも、ゆっくり丁寧に喋るのが不得手で、つい口調が早くなって結果噛んでしまったりするのです。

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これには実は思い当たる原因があります。

私は普段の稽古の時に、かなり早口で喋っているのです。

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舞の稽古の時には、地謡や唱歌を謡いながら、合間に型の説明を入れつつ稽古していきます。

そうすると謡の切れる一瞬の間に沢山の情報を喋らなくてはならず、自然早口になっていくのです。

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例えば、「中之舞」のメロディを文字に直したいわゆる「唱歌(しょうが)」は、

「オヒャ〜〜ア〜〜ラア〜〜、オヒャイヒョ〜イ、ヒャ〜リウヒ〜、オヒャ〜ラ〜イ、ホ〜ウホウヒ〜」

という風に謡います。

しかしこれを型の説明付きの「稽古バージョン」にすると、

「オヒャ〜〜、っと笛が鳴りだしたらサシて!

ア〜〜、っと左ヒネって。

ラア〜〜、で右から三足出て!

オヒャイヒョ、で左引いて、ォ〜イ。

ヒャ〜リウヒ〜、でヒラキ終わって。

オヒャ〜ラ〜イ、いっぱいで手を張りながら正へ向いて引き揃えて。

ホ〜ウホウヒ〜、で改めて左ヒネって角柱に向けてスタート!」

…というようになってしまい、この「稽古バージョン」を、「唱歌」だけの場合と大体同じ速さになるようにする為には、文字の部分が猛烈な速さになってしまう訳です。

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なので、こうありたい自分の理想像は、「口数は決して多くないが、じっくり考えてから言葉を選んで、ゆっくり丁寧に話す人」

であるにもかかわらず、現実は「早口で沢山の事をペラペラ喋って、偶に早すぎて内容が聞き取れないと言われる人」になってしまっているのです。。

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せめてスイッチを切り替えて、「稽古の時は早口で、普段はゆっくり丁寧に」と喋る速さを変えられるようになりたいものです。

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そして、偶に私のアナウンスをお聞きになるかと思いますが、早口で噛んでしまってもどうか御容赦くださいませ。。

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とうとうたらり…

今日は水道橋宝生能楽堂にて、日曜日開催の月並能の申合がありました。

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私は昨年に続いて、初番の能「翁」の地謡でした。

昨年も書いたのですが、やはり新年に「翁」を謡うのはとても気持ちが良いものです。

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この「翁」は最初の謡が、「とうとうたらりたらりら たらりあがり ららりどう」という謎めいた呪文のような言葉で始まります。

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この言葉が何を意味するのか、昔から様々な説があるようなのですが、実はまだ明快な回答は得られていないそうです。

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笛の音色や滝の音の「聞きなし」という説や、外国の言葉だという説などある中で、私が一票入れたい説があります。

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河口慧海師という明治から昭和にかけて生きた僧侶がいるのですが、この人が「翁の謡はチベットの古い言葉である」と言ったそうなのです。

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有名な説なので、聞いたことのある方も多いと思います。

因みにその後この説は日本の学者などによって完全に否定されているとか。

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それでも私がこの説の肩を持つのは、河口慧海師が僧侶でありながら「探検家」とも呼ばれる人だからです。

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明治時代には厳しい鎖国政策をとっていたチベットに、この人は完璧なチベット語を身に付けて、遥かヒマラヤ山脈を越える苦難の旅の末に、チベット人として潜入に成功するのです。

それはもう「探検」と呼ぶしかない偉業です。

目的はサンスクリット語とチベット語の仏典を入手することでした。

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そして日本人とバレることが無かったばかりか、チベット人医師として有名になり、なんとダライ・ラマ13世から直接お呼びがかかって侍従医のオファーを受けたというエピソードもあるそうなのです。

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そのような卓越した語学力を持つ人が、自ら命をかけて潜入した先のチベットに「とうとうたらり たらりら…」という言葉があったというのです。

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日本人と露見したら命が無いという極限状況で、彼が身体を張って獲得して来た情報には、特別な重みがあると私は感じます。

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…それに私はやはり夢のある話が好きなのです。

たとえ学者には全否定されているとしても、「チベットからどうにかして伝わって来たらしい」という説には想像力を掻き立てられる夢があると思うのです。

1000年程も昔に、チベットから伝わって来たかもしれない謎の言葉。

それを謡っていると思うだけで、私は一層気持ちが良くなります。

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この日曜日、皆さま是非宝生能楽堂の月並能においでいただき、「翁」をご覧になってその不思議な「とうとうたらり…」を聴いていただきたいと思います。

木の間に光る稲妻は…

今日は冬型の気圧配置で寒い中、香里能楽堂にて今週土曜日開催の七宝会新春公演の申合がありました。

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能「葛城 神楽」の地謡を謡ったのですが、この葛城のクセに、「葛城や 木の間に光る 稲妻は」という歌が引用されています。

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稲妻というと、太平洋側で育った私は夏だけ見られるものだとずっと思っておりました。

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ところがある時、金沢出身の京大宝生会の後輩T君から、「金沢辺りでは、冬には雪が降る時に稲妻が光るので、葛城クセの内容は非常に良くわかります。」と聞いたのです。

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それはもう10年程前に、そのT君がシテを勤めて、京大宝生会が能「葛城」を出した時の話でした。あれは思い出深い演能でした。

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その年の秋。

京大宝生会は、葛城山上の国民宿舎で「葛城 能合宿」を敢行しました。

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夜に皆で外に出て、すすきが靡く山頂でT君が「葛城キリ」を舞った時のこと。

丁度地謡が「月白く雪白く…」という文句に差し掛かった所で、夜空を覆っていた雲が一瞬途切れて、雲間から一筋の月光がT君を目掛けてサッと射し込んできたのです。

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居合わせた全員が、鳥肌が立つような何とも言えない気分になりました。

「葛城の神様」という存在を強く感じたのです。

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この能合宿ではその後も、いくつも不思議なことがありました。

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そして11月半ばの本番の朝。

京都市内に季節外れの雪がぱらついたのです。

「葛城の神様がやって来たのだ」と皆で言い合いました。

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最後まで神がかっていたこの時の能「葛城」。

舞台が終わって数年後には、シテT君と地頭のWさんが結婚するという後日談まで付きました。

葛城の女神は縁結びの神様でもあられたのでしょうか。

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私はその後も現在に至るまで、稲妻と共に降る雪を見ることが叶わずにいます。

いつの日か見てみたいと願っております。

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因みに今度の七宝会新春公演での能「葛城」は、「神楽」の小書が付くので、通常の葛城をご存知の方は「おお!」と驚くような変化があると思います。

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香里能楽堂にて13日土曜日13時半始曲の七宝会新春公演に、皆さま是非お越しくださいませ。

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七草の日

今日1月7日は五節句のひとつ「人日の節句」にあたる日で、「七草粥」を食べる慣わしがあります。

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考えてみれば、私はもう長いこと「七草粥」を食べておりません。。

しかし京大宝生会現役の頃は、毎年1月7日に小川芳先生のお供をして亀岡の大本本部に「七草粥」をいただきに伺っておりました。

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お正月前後は普段にも増して不摂生をしていましたので、7日に食べる七草粥は如何にも胃に優しく感じられて、また数々の掛け軸や焼き物やお花などを拝見して、心身共に健康になっていく気分になったものです。

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能には「七草粥」は出て来ませんが、「七草」という言葉が出て来る曲はあります。

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少々意外な曲「求塚」です。

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曲の冒頭、早春の野原に可憐な菜摘乙女が4人登場して、華やかに「春の七草の若菜を摘みましょう」と謡うのです。

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そこから暫くの間は、乙女達が旅の僧と会話をしたり、菜摘み唄を歌ったりと、一見長閑なシーンが続きます。

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ところがこの曲は前半のロンギという部分を過ぎた途端に、3人の男女の哀しく凄惨な悲劇へとガラリと変貌してしまうのです。

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爽やかな七草摘みの光景を、その後の地獄の有様との対比として使ってしまうとは、随分思い切った演出だと思います。

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「求塚」は非常に難しく、大切に扱われる奥伝の曲ですので、私のような若輩者があまり長く話すのは憚られます。

しかしひとつ思い出した話があります。

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以前に読んだ、森田流笛方で京大宝生会OBでもある故帆足正規先生の文章に、ご自身が能楽に惹かれたきっかけについて書かれていました。

それは終戦直後の高校時代に、名人野口兼資師の能「求塚」を観たことだそうなのです。

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映画や舞台などを片端から観る毎日を過ごしていた帆足青年は、ある日殆ど予備知識も無く、初めての能「求塚」を観に行きます。

そして後シテが地獄へと真っ逆様に落ちていくシーンの野口師の型を見て「大地に引きずり込まれていくような力に圧倒され」、そこから正に能楽の世界へと惹き込まれてしまったということです。

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「求塚」は特別な舞台でしか出ない大曲ですが、もしチャンスがあれば是非一度ご覧くださいませ。

帆足先生のように、人生が変わる程の経験が出来るかもしれません。

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今日は「七草」に纏わることを、思い出すままにつらつらと書かせていただきました。