父親のこと

三重県の父親が先週木曜日、11月21日の朝に92歳の天寿を全ういたしました。

眠ったまま静かに亡くなったようで、とても穏やかな顔でした。

その前の週に施設の方から、

「全身のむくみがひどくなり、酸素濃度が低下して状態が良くない」

と連絡がありました。

本当は11月22日に見舞いに行く予定でしたが、急遽18日月曜日、宝寺稽古と京大稽古の合間に三重県の施設に会いに行くことにしました。

どんな様子なのか、少し恐る恐る父親の部屋に入ってみると、意外にも本人は普通に車椅子に座っており、状態は少し改善しているようでした。

ゆっくりですが会話も出来て、

「また来るね」

と握手して、別れ際には笑って手を振ってくれました。

しかし施設の方から、

「色々な数値は悪くなっています。この先、急に何かあった時には、夜中や明け方でもお電話して大丈夫でしょうか?」

と聞かれて、やはり良くない状態なのだと知りました。

それから僅か3日後の21日木曜明け方5時頃。枕元の携帯の着信で飛び起きた私は、着信番号が施設からのものであるのを見た瞬間に全てを悟ったのです。

能楽とは無縁だった父親ですが、趣味が多い人で施設での最後の半年は、絵を描いたり読書したり、和歌を詠んだりしてのんびりと過ごしていました。

棺には、スケッチブックと12色のペンシル、好んで読んでいた岩波文庫の「唐詩選」、そしてこれも大好きだった地元久居の銘菓「野辺の里」を入れておきました。

父親の通夜には、昼間に斎場の前を偶然通りかかったという絵画同好会のお仲間が、以前に描かれた父親の肖像画を持って来てくださいました。

趣味が多く友人も多く、医師なのに最後まで病院とは殆ど無縁の健康体で、苦しまずに大往生した父親は幸せだったと思います。

天上でもお菓子を食べて読書して、スケッチなどしながら穏やかに過ごしてくれたらと祈っています。

ひと息に冬へ

4日前の土曜日には、宝生会定期公演での能「夜討曽我」の主後見で、汗だくで働いておりました。

もちろん私だけで無く、シテもツレもみんな口を揃えて

「舞台が暑かった!」

とやはり汗にまみれて言っていたのです。

しかし昨日から今日にかけて、季節が一変してしまいました。

気持ちとしては一気に夏から冬です。

しかも私は昨日今日は北の街、青森稽古だったのです。

夕方に青森に着くと気温は3℃。

暑がりの私も流石に震え上がりそうな温度です。

しかし天気予報をちゃんとチェックしていました。

新幹線で上野を出る時はシャツ一枚だけの軽装。

でも荷物にはカーディガン、ジャケット、マフラーを装備して、青森到着前にそれらを着込んでいたので寒さはそれほど感じませんでした。

北の街は暖房設備が充実しているので、稽古場の公民館で仕舞を始めるとむしろ暑いくらいです。

すぐにまたシャツ一枚に戻ってしまいました。。

そして今朝青森を出て上野に向かう新幹線に乗ると、車窓からは白くなった八甲田山が望めました。

今シーズン初めて見る雪景色でした。

まだ綺麗な紅葉をみていないので、どこかで今年の「秋」も味わってみたいものです。

藤原清貫という人物

私は現在、能「雷電」の地謡を覚えるのに必死になっています。

この曲は宝生流では「来殿」という曲名に変わって、後半の謡が全く違うものになっているのです。

長らく演じられていなかった宝生流の「雷電」ですが数年前に復曲されて、今回は11月24日に熱海のMOA能楽堂で辰巳満次郎師によって演じられます。

前半の地謡は「来殿」と同じですが、後半の「雷電」部分の地謡は馴染みが無いので、中々覚えられずにいます。

そこで「雷電」という曲の元になったという

「清涼殿落雷事件」

について調べてみることにしました。

何か覚えるための手掛かりになるかと思ったのです。

「清涼殿落雷事件」とは、

延長8年(西暦930年)6月26日に内裏の清涼殿と紫宸殿を激しい落雷が襲い、死者5名、重傷者4名という宮中においては未曾有の大惨事になった出来事です。

中でも清涼殿の中に居ながら雷の直撃を受けて即死したという、最も悲惨な犠牲者の名前を見て私は驚愕しました。

「藤原清貫」

…実はこの人物、能「蝉丸」でワキとして登場するのです。

帝の密命を受けて、第四皇子である「蝉丸」を逢坂山に連れて行き、出家させて捨て置いてくるという役柄です。

そして清涼殿落雷事件をさらに調べると、この「藤原清貫」は太宰府に左遷された「菅原道真」の動向監視をせよという”密命”を藤原時平より受けていたようなのです。

その為に菅原道真の強い恨みを買い、怨霊となった道真による雷撃で殺された、という噂が広まったそうです。

様々な秘命を受けて、宮中の闇の中の仕事をする男…

などと考えると、「藤原清貫」を主人公にした小説が書けそうな気にもなってきます。

清貫の他のエピソードや人物像などの資料があるかどうか、また探してみたいと思います。

というわけで、「雷電」を覚える手掛かりを探した結果、思わぬ人物に辿り着きました。

「雷電」の背景も少しわかったので、先ずは頑張って地謡を覚えようと思います。

藤原清貫のことをさらに調べるのはその後で。

本格能楽漫画「シテの花」

10月から週間少年サンデー誌において、

「シテの花」

という漫画が始まりました。

実はこの漫画、宝生和英宗家が監修された本格的な「能楽漫画」なのです。

今週発売の第4話まで、私は全部読ませていただきました。

宝生流の装束や能面が細部まで精密に描かれていて、大変高い画力だと感じました。

しかしそれ以上に感心したことがあります。

能楽堂における「楽屋」、「鏡の間」、「幕際」といった、お客様から見えない場所での能楽師の作法や働き方が忠実に再現されているのです。

例えば能「清経」を終えて幕に入ったシテが、楽屋に戻ってワキ方、囃子方、地謡と挨拶を交わすところ。

またその後に装束を脱ぐ時のシテ若宗家と内弟子(多分)のやり取りなど、実際の空気感に近いので、まるで楽屋にいるような気分になりました。

主人公が師匠の稽古場で初めて謡「鶴亀」の稽古をして、難解な謡本に四苦八苦するシーンなども同様で、京大宝生会の新入生が初めて稽古するのを見ているみたいでハラハラしながら読みました。

作者さんは、能楽にまつわるたくさんの事柄を、とても丁寧に取材されたのだと拝察いたします。

高校生の主人公は、この後に東京芸大に入学したり、卒業すると内弟子になったりするのでしょうか…。

その頃の自分を思い出しながら、主人公の能楽師への道のりを楽しみに見守って参りたいと思います。

喉の不調を経て

しばらくブログ更新が滞っておりました。

実は9月20日頃から、定期的に来る喉の不調に悩まされていたのです。

しかも今回はかなり酷い症状で、扁桃腺が腫れて熱を持ち、毎晩布団に入った途端に咳が出始めて止まらなくなり、うとうとしては咳き込んで起きてしまい、一晩中殆ど寝られないという状態が3週間ほど続きました。

しかし不調なのは喉だけで、食欲はあり、体力的にも普段と変わりはありませんでした。

なので「働きながら治す」という決意を固めました。

その頃ちょうど仕事の大きな山場が来ていたのです。

新作能のツレ、また能大原御幸の法皇の役をいただいており、加えて京都澤風会、松本澤風会があり、薪能や定例会、七葉會などの地謡も難しい曲が何曲かついておりました。

鞄に入れて持ち歩く小本も常時7〜8曲あり、新幹線で一通りさらうだけで東京から名古屋あたりまで移動している感じでした。

声を全力で出すと咳が出て破綻してしまうので、そうならないギリギリの声量で謡う日々が続きました。

喉の不調のピークは10月初旬までで、その後は少しずつですが症状は回復していきました。

10月第2週頃から夜の咳が止まって、寝られるようになったのが大きかったです。

今では喉はほぼ元通りに回復しました。

まだ右の耳に水が溜まっている感じがして、地謡の調子を合わせるのが少し困難なのですが、これも過去の経験で早晩回復すると思います。

ベストな喉の調子で謡えずに、ご迷惑をおかけした舞台もあったと思います。大変申し訳無く思っております。

何とか回復しましたので、今後はまた全力で謡って参りたいと思います。

ブログも徐々に書いていくつもりですので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

今は東北新幹線で北に向かっているのですが、ブログを書きながらふと車窓を見て驚きました。

福島の空にくっきりとした虹が掛かっていたのです。

何かこの虹に力をもらえた気がいたしました。

北の街の名月

今月から来月にかけて仕事がまた山場を迎えており、鞄には覚えるべき謡本がたくさん入っていて、移動中は殆どがそれらを見るだけで過ぎていきます。

それでもやはり、たまに見るニュースで季節毎の節目を思い出してハッとする瞬間があります。

今日の昼間に北に向かう東北新幹線で見たスマホのニュースの見出しで、

「今日は中秋の名月」

とありました。

能の題材にも多く取り上げられている「中秋の名月」。

綺麗に見える年もあれば、月を見る暇もなく過ぎる年もあります。

今年はどうでしょうか…

北の街に到着して日が暮れると、夜空には少し雲に覆われた名月が輝いていました。

雲が良いアクセントになって、一幅の絵画を見るような美しさでした。

この月のイメージを、またいつかの舞台に活かせたらと思います。

熱帯のような仙台…

先週の金土日は福岡で仕事がありました。

月火は京都で稽古して、夜に東京に戻りました。

そして今日水曜は仙台稽古。

九州から東北まで、段々と北上しております。

仙台まで来ると、福岡に比べてかなり涼しいだろうと思われるでしょう。

ところが仙台駅で東北新幹線を降りると、まるで熱帯のような高温多湿の空気がムッと身体を包みました。

稽古場に向かって歩き出すと、スコールのような雨も降り出して、湿気が一層増してドッと汗が吹き出してきました…

これは寧ろ福岡よりも暑く感じるほどです。

9月半ばの仙台で熱帯のような気候を味わうとは…。

実は2018年の今日9月11日も仙台稽古に来ていて、ブログには「今日の東北の街は涼しくて穏やかで…」と書いてありました。

それからわずか6年ですが、コロナ禍もあり、気候もすっかり変わってしまい、地球はいま大変な状況を迎えているのだと実感してしまいます。

6年前と同じ市場を訪ねてみました。

今年も秋刀魚はやはり高くて、1匹250円でした。

他にも枝豆が一盛り400円で売られていましたが、6年前の写真を見ると一盛り200円で、6年で値段が倍増していて驚きました。

気温も物価も高騰しております…

6年後のブログに書く内容が、どうか今よりも良くなってほしいと願いながら、汗を拭き拭き稽古場への道を急いだのでした。

大同二年の謎

今日は水道橋宝生能楽堂にて、明後日21日開催の「青雲会」の申合がありました。

昨日書きましたように、私は能「田村」の地頭を勤めました。

「田村」の申合が始まって、前シテ童子の謡を聴いていて「おや?」と思いました。

語りの冒頭で、

「そもそも当寺 清水寺と申すは 大同二年のご草創」

と謡われているのです。

昨日「清水寺建立の日付までは謡われていない」と書いてしまいましたが、それは大間違いでした。お詫びして訂正いたします。

そして思い返してみれば、能「花月」のクセの冒頭にも、

「そもそもこの寺は 坂上田村麻呂 大同二年の春の頃 草創ありし…」

という謡がありました。

しかしここで不思議なことがあります。

清水寺建立は「延暦17年(西暦798年)」という史実がある一方で、謡では

「大同2年(西暦807年)春のご草創」

となっているのです。

色々調べてみると、東北地方を中心とした非常に多くの神社や寺が、この「大同2年」に建立された事になっているそうなのです。

ある説を読むと、

①なんらかの理由で清水寺建立の時期が「大同2年」とされ、それが能「田村」や能「花月」の謡の詞章になった。

②坂上田村麻呂の伝説と共に「大同2年」という謡の詞章も東北地方に広がった。

③いつしか清水寺との関わりが忘れられて、「大同2年」は「坂上田村麻呂に縁のある年号」として認識されて、田村麻呂が創建したとされる多くの寺社の創建年号になった。

という事だそうです。

謡にのって「大同2年」という年号が東北地方に広がったというのは大変興味深く、ロマンのある話です。

…しかし、何故「延暦17年」が「大同2年」に変化したのか、という理由はまだ謎のままなのです。

「善知鳥峠の謎」などとともに、またひとつ今後調べていきたい謎が増えました。

翁最中の餡は”松の翠”

今年1月25日に書いた「翁堂の翁最中」というブログに、本日コメントを頂戴いたしました。

私のブログでは、松本の老舗菓子店「翁堂」の翁最中は中の餡が緑色で、これは翁が宇宙人という説に則ったものでは…

という内容をちょっとコミカルに書かせていただきました。

しかし頂いたコメントでは、

「餡の緑色は”松の翠”をあらわしているのでは」

と書かれていたのです。

茶道の表千家では、初釜に「常盤饅頭」というお菓子を用いるそうです。

そのお饅頭には”千年変わらない松の翠”を表す緑色の餡が使われているという事なのです。

成る程、確かに翁の詞章には「千秋、千年、千歳」などの言葉が出て来るので、そこに”松の翠”を結び付けて餡を緑色にするのは理にかなっています。

コメントの方は「個人的には翁宇宙人説が面白くて好きです」と書いてくださいました。

しかしコメントを拝読した私は「松の翠説」が明らかに正解だと確信できて、何かモヤモヤがスッキリと晴れた気持ちになりました。

素晴らしいコメントどうもありがとうございました。

ねぶた小屋の夜

今日は7月16日。ただ今の時刻は19時です。

京都では今頃、祇園祭の宵山で賑わっているのでしょう。

一方の私は、北の街に来ております。

現在の気温は24℃ほどで、とても過ごしやすいです。

京都祇園祭は今月が本番ですが、青森の「ねぶた祭」は来月8月2日〜7日が本番なので、今がねぶた製作の真っ最中なのです。

今年もねぶた製作を見学に、ねぶた小屋に向かいました。

三角形の「アスパム」の麓、写真の左下に「ねぶた小屋」が並んでいます。

今は夜なので隙間からちょっと覗く事しかできません。

しかしこの時間でも小屋の中には煌々と明かりが灯り、人々が作業しています。

これは龍ですね。

こちらは武将。

題材がわからないのが残念ですが…。

そして今回は、完成したねぶたを載せる”台車”

を見つけました。

この巨大な台車がアスパムの麓に何台も据え置かれて、ねぶたの登場を待っていました。

…実は私は、ねぶた祭も、祇園祭の山鉾巡行も、生で見た事が一度も無いのです。

そろそろ一度くらい眼の前で観てみたいものです。

…そして更に続きです。

稽古を終えた22時頃に、私は再びねぶた小屋を訪ねてみました。

やはりまだ作業は続いていました。

先ほどの龍のねぶた小屋を始め、半数近い小屋に人の姿があり、音楽を流しながら作業されているようでした。

おそらく仕事を終えてからねぶた小屋に来て、夜を徹して作業されるのでしょう。

人々の熱い思いの詰まったねぶた祭、成功をお祈りしております。