加茂物狂のワキツレ

今日は国立能楽堂にて能「加茂物狂」の地謡に出演して参りました。

「加茂物狂」は宝生流の謡本では主な登場人物はシテ「狂女」とワキ「その夫」のみです。

しかし今日のワキ方の”福王流”ではその他にワキツレとして「賀茂明神の神主」も登場しました。

加茂物狂という曲は現在では一場ものですが、元々は前後に分かれていたようで、神主が出るのはその頃に近いやり方だそうです。

しかし神主が出ることで宝生流の謡本とはかなり違った構成になります。

謡が増える所があれば、ごっそり無くなる所もありました。

これだけ謡が変わるとシテや地謡にも影響しそうなのですが、驚いたことにシテ謡と地謡は全く変わらないのです。

我々シテ方は謡本通りの「加茂物狂」を謡って、ワキ方のみがガラリと変わるのです。

ワキ方の流儀によって微妙に謡が変わることは良くありますが、今日ほど大きく変化する曲はちょっと経験したことが無く、またひとつ勉強になりました。

時代も、国も飛び越えて

神保町稽古場の団体謡稽古では、曲が新しくなる度に、会員さんの一人が詳細な参考資料を作って解説してくださいます。

今は「昭君」を稽古していて、今日もその会員さんの解説を聞いてとても勉強になりました。

昭君は言わずと知れた中国のお話です。

しかし前シテツレの最初の謡

「散りかかる 花の木陰に立ち寄れば 空に知られぬ 雪ぞ降る」

は、実は紀貫之の歌

「桜散る 木の下風は寒からで 空に知られぬ 雪ぞ降りける」

が元になっているそうなのです。

また、クセの中の

「賢聖の障子に 似せ絵にこれをあらはし」

の”賢聖の障子”とは、なんと日本の御所の紫宸殿にある障子だそうです。

つまり能「昭君」の作者は、紀元前の中国のお話を、中世の日本人が理解しやすいように、巧みに日本の文物を取り入れて能に仕上げていたわけです。

現代でこれをやると、

「時代考証がなっていない!」

とクレームが来そうですが、能の作者は大胆に国や時代を飛び越えて曲を作っています。

それが結果的に「昭君」という曲のスケールを大きくしているように思えるのです。

やはり能は知れば知るほど新しい驚きと面白さがあると、今日の解説を聞いて再認識したのでした。

みかん色の街

昨日今日と「松山城二ノ丸薪能」に出演するために愛媛県の松山に行っておりました。

愛媛県と言えばなんと言っても「愛媛みかん」が有名ですが、松山市内はこの「みかん」の色で溢れていたのです。

バスも”みかん色”

路面電車も…

普通の電車も全て”みかん色”で統一されています。

ゆるキャラも、みかんと犬が合わさった「みきゃん」です。

最近は「こみきゃん」や「ダークこみきゃん」など、キャラが増えてきたようです。

そして食べ物では…

空港の売店で見た「みかんごはん」が衝撃的でした。

ちょっと怖くて買えませんでしたが…

しかし、「愛媛みかん」そのものはやはり美味しいです。

今朝空港で飲んだ100%オレンジジュースは本当に美味しくて、普段ほとんどオレンジジュースは飲まない私が思わずおかわりしてしまいました。

ここまで名産品のカラーにこだわる街も珍しい気がします。

松山もまた面白い街でした。

やはり「みかんごはん」買えば良かったか…

2024年松山城二ノ丸薪能

今日は「松山城二ノ丸薪能」に出演して参りました。

6年前の2018年5月10日のブログに前回の二ノ丸薪能の事を書いておりますので、あれから6年ぶりの松山という事になります。

薪能の舞台はやはり滴るような新緑と重厚な石垣を借景にした、非常に趣きのあるものでした。

舞台の前に天守閣も見に行きました。

司馬遼太郎が、四国最大の城でありながら辺りの風景が優美なために厳しく感じられない、と書いているように、何処となく安心感を与えてくれるような落ち着いた城構えでした。

お城周辺には何故か猫がたくさんいて、薪能の間にも「ニャア」という声が微かに聞こえてきて、それも何か優しい感じがしました。

3日ぶりに謡うと…

昨日までの3日間、つまり5月4〜6日は全く謡を謡わない3日間でした。

三重県の実家で能とは関係ない家の色々な用事で動いていたのです。

こんなに長い時間謡わない事は滅多にない事です。(覚え物のために謡本は開いていましたが…)

今日は終日リモート稽古の予定でしたので、3日ぶりに謡を謡いました。

3日喉を休めたので、喉の調子が良くなっているのか、或いは逆に謡わない事で感覚が鈍っているのか。

謡ってみるまでわかりませんでした。

そして最初の稽古で謡い始めてみると…

まあ全然普段と変わりませんでした。。

3日くらいでは良くも悪くもそんなに影響はないようです。

しかし思い返してみると、去年は今頃から喉の調子が悪くなり、夏頃まで3ヶ月ほど全く声が出なくなってしまったのでした。

今年は今のところ普段通りなので、気をつけてこのままの調子を保っていこうと思います。

実家にて

今日は三重県久居の実家に来ております。

今後ちょっとブログが休みがちになる可能性がありますが、私は全く変わらず元気にやっております。

遠く見える「布引山」。

布を引いたような平らな山は、今日も優しい表情で私を迎えてくれました。

裃の手伝い

“裃(かみしも)”を着るのは、特別な舞台の時です。

今日は綾部での会の最後に辰巳満次郎師の番外仕舞「三山」があり、そこで裃を着ました。

裃はひとりで着るのがちょっと難しいのです。

字の通り”上”と”下”に分かれています。

先ず”上”を羽織った後に”下”を普通の袴と同じように着るのですが、この時に”上”の背中部分が邪魔になり、誰かが背中部分の布を持ち上げてくれていると助かるのです。

内弟子時代にはこの裃を何とか自分一人で着られるように練習しました。

楽屋の人員が裃の補助で結構削がれてしまうのです。

その頃は補助に来る人を、

「あ、俺は大丈夫だから楽屋の仕事して!」

と断っていたのですが、最近は逆に断らずに手伝ってもらう事が多くなりました。

今日も若手に手伝ってもらいながら裃の着け方を教えたりして、そう言えば私も昔、先輩の裃の補助をしていた時に、

「君、そんなに引っ張ったら格好悪くなるから駄目だよ」

と、逆に邪魔になって怒られて反省したのを思い出しました。

裃を着用する舞台はとても華やかですが、楽屋ではその着付けでまた色々な学びと修練が必要なのです。

亀岡の花々〜杜若のイメージトレーニング〜

昨日亀岡稽古に行くと、つい先日満開だった「牡丹」が早くも葉っぱだけになっておりました。

入れ替わりに咲いていたのが、”顔佳花(かほよばな)”とも呼ばれるあの花…

「杜若」です。

今年もちょうどいい時期に再会することが出来ました。

毎年のように見るのですが、今年も亀山城跡のお堀に無数の紫色の点が散らばっているのを見ると、

「おおっ…!」

と思わず感嘆の声を上げてしまいました。

私にとって今年の杜若にはまた特別な意味がありました。

実は来年の澤風会で能「杜若」が出る予定なのです。

そしてこの亀山城跡の杜若は、三河の沢から移植されたもので、正に能「杜若」に出てくる花と遺伝子的にも同じものなのです。

来年に向けてこの「杜若」をじっくりと見て、「イメージトレーニング」をいたしました。

あまりに綺麗だったので、来年に能「杜若」のシテを勤める予定の方にも写真を送って

「イメージトレーニング」をしてもらうようにお願いしたのでした。

1件のコメント

佐藤孝靖先輩のこと

私が京大宝生OB会の集まり(主に宴会)に参加する時には、たいていが舞台を終えてからの途中参加になりました。

そんな時、会場に到着すると真っ先に声を掛けてくださるのが佐藤孝靖先輩でした。

「オウッ!澤田クンッ、こっちこっち!」

そして私が席に落ち着くと、

「それじゃあ澤田君よ、ひとつ次の舞台の宣伝も兼ねて、一言お願いしますよ!」

と自然に宣伝の機会を作ってくださいました。

私だけでなく、久しぶりにOB会に来られた方などにも、

「オイッ、○○君!久しぶりに謡ったにしては中々に味のあるワキだったよ!何か感想を一言!」

という風に、チャキチャキとした中にも細やかな心配りと親愛の情が感じられる独特の口調が大変魅力的でした。

佐藤先輩の軽妙な仕切りで、京大宝生OB会の宴会はいつも笑いの絶えない楽しいものになりました。

私の舞台や澤風会大会の折には、毎回佐藤先輩が京大宝生OB会の皆様の参加の取りまとめをしてくださいました。

またコロナ禍で能楽師の仕事が激減した時には、「zoomでの団体稽古を試験的にしてみませんか?」と何人かのOBの皆さんを集めてzoom稽古を設定してくださり、おかげ様で何とか生活を維持する事が出来ました。

この1月に私が「翁」を勤めた時にも、これまでと変わらずにチケットの取りまとめから後席まで全てを取り仕切っていただき、久々に大勢のOBの皆さんとの楽しい後席になりました。

そのすぐ後に、入院手術をされることになったと伺いました。

それでも3月末には、退院が決まったというお元気そうなメールを拝読して、また次のOB会でお会いするのを楽しみにしておりました。

しかし一昨日のこと、佐藤先輩が御自宅で眠るように息を引き取られたとの報せを受け取り、未だ信じられない思いでおります。

4月半ばに退院された後は、6月のOB会での復帰に向けて、気合を込めてリハビリに励んでおられたという事です。

京大宝生会の精神を正に体現されたようなお人柄と人生を、最後の最後まで全うされた偉大な先輩でした。

きっと今頃は、

「イヤァどうも!お久しぶりです!」

と小川先生や植田竜二先輩などと、あの軽妙な口調で楽しくお話しされている事でしょう。

心よりご冥福をお祈りいたします。

また誠にありがとうございました。

医大生と能楽

自治医大宝生会の学生さんと話していた時の事です。

6年生で実際に病棟で実習があり、色々な事情を抱えた患者さん達をたくさん見て、しんどくなった事があったそうです。

その時に、能の事を思い出して、

「医師は”ワキ方”に徹すれば良いのだ」

と考えて気持ちが救われたというのです。

ワキ方は、まずシテに話しかけます。

そして、シテの出身地を聞いたり、外見上の特徴を指摘してその理由を尋ねたりします。

するとシテは詳しい身の上話をワキに語ります。

身の上話や悩み事を聞くと、大抵はそれに対して何かアドバイスを与えたりするでしょう。

しかし能楽に置けるワキはそれを聞いても、すぐにシテに影響を与える立場にはならず、最後の方までひたすら聞き役に徹します。

自治の学生さん曰く、

「ワキとシテの間には一本線が引かれていると思います。

一方でシテとツレは同じ立ち位置で繋がっていると思います」

なるほど確かに。

ワキがお医者さん、シテが患者さんで、ツレが患者さんの御家族とします。

医師がワキに徹すれば、過度にシテツレに干渉する事なく、適切な関係を保てるでしょう。

その同じ学生さんは3月の澤風会郁雲会で能「砧」などの舞台を観て、

「このシテの心情は現代の患者さん達と変わらないなあ」

と、そこにも何か救いを感じたそうです。

病棟での実習は命との向き合いの日々で、本当に大変な事ばかりだと思います。

能楽がそういう人の気持ちの助けになるならば、それは私のような能楽師にとって何よりの喜びです。

自治医大宝生会では、普通の稽古とはまた違った意味で、気持ちを込めて大切に稽古させてもらいたいと思ったのでした。