伝統芸能を志す中高生達

今日は「都立白鵬高校・附属中学校創立130周年記念式典」

というものに行って参りました。

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私が江古田で稽古している男の子が、白鵬高校の”日本の伝統文化枠”というコースに通っていて、今日の式典ではそのコースの生徒達による公演があったのです。

男の子は仕舞「嵐山」での出演でした。

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と言っても私がしたのは裃の着付けの補助だけで、あとは舞台袖で公演を見守っていました。

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中1から高3まで、9人の生徒達が箏曲、長唄囃子、能、狂言、歌舞伎舞踊、日本舞踊を披露しましたが、皆玄人を目指しているだけあって非常にレベルの高い舞台でした。

そしてまた9人の子供達は皆、学年を超えてとても親しくしているようでした。

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これは大変良いことだと思います。

というのは、伝統芸能の修業では周りに大人しかいない状況が生まれがちで、気楽に話せる同年代がいなくて孤独感を感じることが多いのです。

特に中学高校では、学校で同じような修業をしている生徒はまずいないので、やはり孤立してしまうおそれが高いと思います。

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その点白鵬の生徒達は、同じ日本の伝統芸能を志す同世代の仲間と6年間を過ごせるわけです。

修業の苦労などもお互いに理解して共感し合える筈で、それは精神的にとても救われることだと思うのです。

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また今日の式典では、生徒の保護者の方々がとても沢山手伝いに来て、ステージの設営などをしておられたのも印象的でした。

文化祭などの行事でも必ず保護者が手伝いをするそうです。

仲間達の存在と共に、保護者の方々の手厚いサポートがあればこそ、彼らは中高時代の修業を乗り越えて来られたのでしょう。

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彼らが白鵬での6年間の経験を糧にして、東京芸大など次のステージに進んでいき、更に長く厳しい修業を経てやがて一人前になることを祈って会場の東京文化会館を後にしたのでした。

最高の環境での巡回公演

昨日に続いて、今日は川崎の小学校での巡回公演でした。

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会場の体育館に6年生達が入って来ると、先ずは小学校の先生から開始の挨拶がありました。

「皆さんの前にある立派な能舞台は、舞台を作る方々が昨日の夜9時半頃までかかって組み立ててくださったのです。」

生徒達から驚きの声が漏れました。

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楽屋で聞いていた私も、改めて驚きました。

今回お世話になっている”影向社”の皆様のプロフェッショナルな仕事ぶりの凄さにです。

昨日の舞台が終わったのが16時頃。

そこから舞台解体→移動→設営で夜9時半。

そして今日は我々能楽師が朝9時前に到着した時には、皆様もう忙しく働いておられました。

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楽屋に必要な机、椅子、鏡などの備品の調達から、飲み物や食べ物の用意(今日は朝早かったのですが、楽屋には朝ご飯用にとサンドイッチとお握りがズラリと並んでいました)、また学校毎に微妙に違う進行を把握して、MCの私に的確な指示を出してくださるのも影向社の方でした。

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今回の巡回公演は、今までに経験した数多の舞台の中でも最も仕事のしやすい環境でした。

それらを全て整えてくださった影向社の皆様に、心より感謝いたします。

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さて、小学校の先生の挨拶はまだ続いています。

「それでは、舞台の壁の向こうにいらっしゃる役者の皆さんに、大きな声で”よろしくおねがいします!”と言いましょう!」

おお、それはかつて無いパターンです。

子供達「よろしくお願いします‼️‼️

壁も震えるような大声に、またしても驚かされながらMCの私は切戸をくぐって舞台に出たのでした。

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今回は6年生限定というだけあって、とても行儀よく真面目な姿勢の子供達でした。

しかし笑ったり驚いたりの反応は良く、また最後の質問コーナーでも次々に手を挙げてくれました。

「良い子達だなぁ」と感心していると、一番最後になんと我々にプレゼントまで用意してくれていたのです。

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「それでは、今日お世話になった先生方に、折り紙の花束の贈呈です!」

上の写真のような花束を持った子供達がズラリと立ち上がり、私は慌てて楽屋の能楽師達を舞台に呼び出して、皆で照れながら花束をもらったのでした。

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MCの大役も今日で無事に終わり、非常に良い気分で小学校を後にしました。

坂戸小学校の皆さんと、今一度影向社の皆様に心より御礼申し上げます。

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12月にあと1回残っている巡回公演も、精一杯頑張ろうと思います。

巡回公演のMC

今日は相模原の小学校にて「巡回公演」に出演して参りました。

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巡回公演への参加は6月の長野公演と小田原公演以来です。

小学校の体育館には、あの時と全く同じ舞台が綺麗に設営されていました。

演目は狂言「柿山伏」と能「黒塚」で、これも6月の時と同じです。

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しかし私にとっては、あの時とは大きく違う点がひとつありました。

私は今日の公演で、各演目の前後に舞台に出て解説などをする「MC」を仰せつかったのです。

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普段から小学校での能楽教室は頻繁にやっており、喋るのは慣れていると自分では思っていたのですが、今回ばかりは勝手が違いました。

あらかじめ用意された原稿に沿って、ほぼ決まった内容を話さなければならなかったのです。

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謡の暗記はやり方がわかっているのに、現代語の原稿を覚えようとしても何故か全く頭に入って来ません。

先週1週間は毎日MC原稿を眺めて、ため息ばかりついておりました。。

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そしていよいよ今日は本番です。

MCは原稿を見ながらでも良いとは言われていたのですが、私の場合はおそらく原稿を見るとかえって言葉に詰まりそうな気がします。

ここは思い切って、原稿は持たずに手ぶらで舞台に出ました。

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今日の子供達は1年生から6年生まで全校生徒の450人。

私はこういう時は、低学年に合わせて喋るようにしています。

とにかく易しい言葉で、「能舞台の揚幕の向こうは別の世界なのです。」とか、「狂言は面白かったら大きな声で笑ってください!その方が演者も嬉しいのです。」

と言った内容を話して、一度切戸に引きました。

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狂言「柿山伏」が始まると、冒頭から本当に大きな笑い声が起こって、なんだか大変な盛り上がりになってしまいました。

ちょっと効果があり過ぎかな…?

と思いながらも、私の言葉はどうやら子供達の心に伝わってくれているようで、少しホッとしました。

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それから御囃子方の実演の前後、また最後の能「黒塚」の前後にもMCに出て、何とか原稿の内容を大きく逸脱せずに喋ることが出来ました。

子供達が「黒塚」の間狂言でも大声で盛り上がりだしたので些か不安になりましたが、後場が始まるとちゃんと静まって”能”の鑑賞モードになってくれました。

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実は明日も朝から巡回公演があり、また別の小学校でMCをするのです。

今日1回終えているのでだいぶ気は楽ですが、より良い内容を話せるようにしたいと思います。

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…ちなみにMCだけではなく、一応能の地頭としても舞台に出て働きました。念のため…。

船場能「経政」に出演して参りました

今日は大阪船場にある「坐摩神社」にて「第2回船場能」に出演して参りました。

番組は辰巳満次郎師による能「経政」でした。

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「坐摩神社」と書いて、何と読むかすぐにわかる人は余程の大阪通だと思われます。

これで「いかすりじんじゃ」と読むのです。

“摂津国一宮”で、とても古い歴史を持つ神社だそうです。

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船場は大阪町人文化の中心地であり、おそらく江戸時代には能楽も多く演じられたに違いありません。

その頃御屋敷や御座敷の中では、燭台の灯りで能を演じることが多かっただろうということで、今日は舞台の四隅に4本の燭台を置いて、”蝋燭能”の形式で「経政」が演じられました。

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そもそも「経政」では、燭台の灯火の中で管絃講が行われている所に経政の霊が現れるわけで、今日の演出はストーリーにぴったり合っていたわけです。

見所のお客様達は、ひと時タイムスリップして、当時の旦那衆が楽しんだのと同じ感覚で能を体感していただけたのではないでしょうか。

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「船場能」が終わると私はすぐに京大稽古に移動しました。

来月12月16日に香里能楽堂にて開催される関西宝連の稽古をしたのですが、最後には能「経政」を稽古して終えました。

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今日は経政に始まって経政で終わる1日だったのです。

不思議な運転手さん

今日は少し不思議なことがありました。

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松本稽古の場所がいつもの大手公民館ではなく、お城の北側にある”城北公民館”だったので、松本駅からタクシーに乗ったのです。

初老の運転手さんは城北公民館を知らないようだったのでとりあえず「お城の北の、開智小学校の辺りまでお願いします」と頼んで走り出しました。

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しばし走ると、運転手さんが話しかけて来ました。

「お客さんは松本の人ですか?」

私が違うと答えると、

「私は生まれも育ちも松本なんですよ」

と言って、走りながら見える街並みが昔はああだった、こうだったと説明を始めました。

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そして松本城の横に差し掛かった時。

「お城も昔はこんなに綺麗じゃなかった。

お城そのものが南側にちょっと傾いていたのですよ。

冬になると、凍ったお濠でスケートをしたもんです。ほら、あの赤い太鼓橋の辺りで。」

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私はそんな時代があったのかと素直に驚き、傾いた城をなおすのはさぞや大変だっただろうと想像しました。

その工事の話などを聞きたいと思ったのですが、タクシーは間もなく城北公民館に到着してしまいました。

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稽古場でお城が傾いていた話を早速すると、会員さん達に「それは結構昔の話ですよ。その運転手さんはかなりのお年じゃないですか?」と言われました。

そこでお城の話は終わり、稽古が普通に始まりました。

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無事に稽古を終えて、特急あずさでの帰り道。

なんとなく傾いた松本城の話が気になり、スマホで調べてみました。すると…

「明治30年代頃から天守閣が大きく傾き、明治36年から大正2年にかけて”明治の大修理”が行われた」

と書いてあったのです。

大修理の期間を西暦になおすと、1903年から1913年です。

改めて書くまでもありませんが、今から100年以上前の出来事です。

しかしあの運転手さんの語り口は、伝聞ではなく確かに自分の目で見たという口調でした。

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…あの初老の運転手さんは何歳だったのか、そもそも一体何者だったのか。

能の定型パターンだと運転手姿は前シテで、この後に私の夢枕に後シテとして本来の姿を現す、ということになる筈です。

今夜は心して睡眠に入りたいと思います。。

般若か顰か

今日は宝生能楽堂にて五雲会に出演いたしました。

私は初番の能「小督」の地謡を勤めました。

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小督が無事に終わり、その後私は最後の能「紅葉狩」のツレの装束などをつけました。

そして紅葉狩が始まってシテとツレが舞台に出てしまうと、楽屋の仕事は一段落です。

「紅葉狩」は中入での装束の着替えを、舞台上の作り物の中で済ませるのです。

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なのでモニターで「紅葉狩」の舞台を見ながら、何人かの若手能楽師で話をしていました。

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「紅葉狩の後シテは、今日みたいに般若の面でやる時と、”顰(しかみ)”をかける時があるね」

「でも、”顰”は男の鬼だから、この場合おかしいんじゃない?」

「実はシテはオカマだったとか…」

「…」

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確かに、前シテは妖艶な女性なのに後シテで男の鬼に変身するのは違和感があります。

しかし「紅葉狩」の謡本には、何故か後シテが”顰”のバージョンの装束とイラストが載っているのです。

そちらが本来なのでしょうか…?

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答えは出ないままに、また別の楽師が話し始めました。

「そういえば、先月の月並の留(最後の能)が”葵上”、先月の五雲会の留が”鉄輪”、今月の月並の留が”黒塚”、今日の留が”紅葉狩”だから、ずっと鬼女で終わる能が続いてますね」

確かに。では来月の月並の留は…

「乱 和合」でした。面は当然”猩々”です。

そして来月五雲会の留は、私がシテの能「舎利」。面は”顰”です。

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私「こうなったら乱も舎利も、般若で出ちゃう…とか(笑)」

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などとつらつら話しているうちに能「紅葉狩」も無事に終わり、楽屋はまたバタバタと片付けの仕事に突入したのでした。

亀岡の花々〜返り咲き〜

今日は亀岡稽古でした。

前回の稽古では、もう秋も深まって花は咲いていないだろうと思って、ほとんど探しませんでした。

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しかし今回時間があったので少し歩いてみたところ、いくつかの植物を見つけることが出来ました。

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中でもこの花。

名前は「ホクリクタツナミソウ(北陸立浪草)」と言って、シソ科の植物です。

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じつは通常、ホクリクタツナミソウの開花時期は5〜6月で、今咲いている筈が無い花なのです。

時期を外して秋や初冬に花が咲くことを「返り咲き」、あるいは「帰り花」などと言うそうです。

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“返り咲き”というと、一度落ち目になった歌手やスポーツ選手や政治家などが再び勢いを取り戻した時によく使われる言葉です。

しかし元々は春に一度咲いた花が、秋から初冬に再び花をつけることを言うのです。

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また”帰り花”の説明には、「11月頃の小春日和に本来の季節とは異なって咲いた花のこと」とあり、「忘れ花」とか「狂い咲」も同様の意味で使われるそうです。

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ちなみに「帰り花」は俳句では冬の季語になっていますが、和歌の題にはなっていないということなので、残念ながら謡の文句には出てこないと思われます。

私が思い出す限りでは「帰り花」という謡は無かったと思うのですが、もし見つけた方はどうかご一報下さいませ。

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これは「ワカサハマギク(若狭浜菊)」と言って、「リュウノウギク(竜脳菊)」の変種だそうです。

開花時期は10〜11月ということで、この花は”返り咲き”ではありません。

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「花梨」の木の前に拳大の実が落ちていました。

「かりん酒は喉に良い」と言って、倉本先生などはご自分の「梗風会」の時には楽屋に”かりん酒”の小瓶を置いておられました。

「あんたも飲んでいいわよ」と言われましたが、私は酒を飲むと謡えなくなる性質なので、効果を確かめることは出来ませんでした。。

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確か4月頃のブログに花を載せたことがあったと思いますが、「ハクサンボク(白山木)」の実がなっていました。

あとで調べたら、興味深い情報がありました。

「果実は食用になる。秋には酸味があるが、冬にかけて甘くなる」

ということなのです。

来月の稽古の時に、もし可能ならば味見をしてみたいものです。

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今度こそは今年最後の”亀岡の花々”だと思いますが、もしまた”返り咲き”の花など見つけたら紹介したいと思います。

今日はこれにて失礼いたします。

秋の薔薇

今日は午前中に五雲会申合があり、能「小督」の地謡を勤めました。

そして午後からは11月24、25日に開催の「満次郎の会」の申合で、能「安宅 延年之舞」と新作能「オセロ」の2番の地謡を勤めました。

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さすがに1日に能3番だと、脳内メモリーがいっぱいいっぱいです。

とりあえず五雲会申合を終えて、宝生能楽堂近くの本郷給水所公苑に「安宅」と「オセロ」の地謡のお浚いに向かいました。

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久しぶりに公苑に入ると、丁度秋の薔薇の時期に当たっており、苑内には色とりどりの薔薇が咲き誇っていました。

実は新作能「オセロ」は、”白き花”が重要なモチーフになっているのですが、私が撮ったのは”赤い薔薇”でした。

雲ひとつ無い青空に映えて、とても綺麗だったのです。

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撮影後は、すぐさま謡のお浚いに突入したのでした。

左右逆転

今日は田町稽古でした。

仕舞の稽古を昨年から始められた方が、今は3つ目の仕舞「猩々」を稽古されています。

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「先生すみません、今日は先生の舞を後ろから撮影させてもらえませんか?」

稽古の冒頭で、その方から上のようなリクエストが。

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確かに、正面から撮影した映像を見て稽古すると型が逆に見えてしまいます。

一旦脳内で映像を逆転させて、それをなぞって稽古するというのは慣れて来ないと難しいと思われます。

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昔東京芸大時代に、太鼓の観世元信先生が手を完全に左右逆転させて稽古しておられました。

“カシラ”の手も、右撥を左肩に持っていく訳です。

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そしてシテ方でも、仕舞の稽古の時にはお弟子さんに正対して型を左右逆転でされる方がいると聞いたことがあります。

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私は不器用なのでそのようなことは出来ず、澤風会稽古の時は会員さんの斜め前に同じ方向で立って、顔だけ振り返って説明しながら稽古する方法をとっております。

しかしこれだと、私が振り返る時に会員さんまで一緒に後ろを振り返ってしまうという、笑い話のようなことが起こってしまうのです。。

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背後から撮影するか、正面から左右逆転で稽古するのか。これは意外と難しい問題です。

しかしおそらく近い将来には立体映像の撮影が可能になり、あらゆる方向からシテの動きが見られる時代が来るのではないでしょうか。

その時にはきっと、こういった苦労自体が笑い話になっていくのでしょう。

玉鬘神社にての演能

今日は奈良県桜井市の初瀬にこの度建立された「玉鬘神社」にて、創祀奉納能がありました。

番組は宝生和英家元による能「翁」と、辰巳満次郎師による半能「玉葛」で、私は2曲の地謡を勤めさせていただきました。

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玉鬘神社は、長谷寺から初瀬川を挟んで対岸にあたる山腹に建立されていました。

この地は昔、玉鬘ゆかりの「玉鬘庵」があった場所だそうです。

社殿の前に特設の舞台が敷設されており、周りは立ち見を含めて沢山のお客様で溢れていました。

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澤風会の会員さんも3人見に来てくださいました。その内のお1人は、つい先日の澤風会京都大会で舞囃子「玉葛」を舞われた方です。

自分で舞った曲を、その曲ゆかりの地で観能するというのは滅多に出来ないことで、大変素晴らしいことだと思います。

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時折雨がパラつく天気でしたが、修祓や玉串奉奠などに続いて先ずは家元の能「翁」演じられ、辺りは厳かな空気に包まれました。

続く半能「玉葛」も、全員が裃姿での「袴能」の形式で予定通り演じられました。

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地謡として舞台に出ているので、当然周りに眼をやることなどは出来ません。

玉鬘ゆかりの地で能「玉葛」を謡っているという実感もあまり無いままに舞台は進んでいきました。

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しかし、キリに差し掛かって「人を初瀬の山おろし」という文句を謡った瞬間に突然、「此処こそが”初瀬の山”なのだ」という感慨に打たれました。

山間の舞台で、お囃子の音も謡の声も初瀬の山に反響して実に良く通っています。

自分の謡が此処から初瀬川を渡って、対岸の長谷寺の方まで響いていけば良いと思いながら、残りのキリを精一杯の声で謡ったのでした。