自由が丘発表会2024

昨日は自由が丘にあるモンテッソーリ幼児教室での発表会がありました。

仕舞と太鼓を習っている、幼稚園から中学校までの子供達の発表会です。

私がお手伝いするのは4回目になります。

番組の最初は5歳前後の、まだ太鼓の稽古を始めて2ヶ月くらいという子供達4人の”初舞台”でした。

太鼓の「お調べ」を1人ずつ交代でするのですが、舞台が始まる前まではみんなで走り回っていた子供達が、太鼓の前に座るとまるで別人のように真剣な顔になるのです。

太鼓の真ん中にある「撥皮」に撥を当てるのが意外に難しいのですが、それぞれ一生懸命に狙って打っているのが大変好ましく思えました。

仕舞は小学校高学年と中学校の生徒さんが「国栖」と「竹生島」をしっかりと元気に舞ってくれました。

2人とも澤風会で稽古しており、宝生能楽堂でも何度か舞台に立っているので、安心して見ていられました。

会場には親御さん達もたくさんいらしていたので、曲の合間の解説は親御さんにも興味を持っていただけるように意識してお話しいたしました。

終了後に親御さんからの感想で

「解説により成る程と思う瞬間がありました。日本人の世界観が舞と音とでこんなにも豊かに昔から続いていたなんて!と驚きました」

というような有り難いお言葉をいただき、解説冥利(?)に尽きる思いでした。

何も知らずに見るだけだとさっぱりわからない舞台が、ちょっと解説を加えるだけで豊かな世界に変わるのが能楽なのです。

そしてまた知れば知るほどに面白く、新たな興味がわいてきます。

子供達も終始眼を輝かせて舞台や解説を見聞きしてくれたので、非常に実りある発表会になったと思います。

関係者の皆様今回もどうもありがとうございました。

美ヶ原は美しかった

先々週の日曜日10月20日には松本市内の「才能教育会館ホール」にて「松本澤風会大会」がありました。

その翌日21日に、松本澤風会会員で山登りのエキスパートのお2人にガイドしていただき、前日の舞台の参加者9人で「美ヶ原高原」に行って参りました。

車でも上の方までいけるようですが、我々は山登りが主眼なのでちゃんと歩いて登ります。

ここから山に入ります。

最初は川沿いの深い森を歩きます。

道端にはリンドウの花。

そして高度が上がっていくと、まだ早いと思われた紅葉もちらほらと。

やがて森林限界を越えて、巨大な岩山が見えてきます。あの岩山の上が山頂のようです。

思ったよりも本格的な山道でしたが、総勢9人で山の話や能楽の話など楽しくお喋りしながら登ったので、それほど疲れは感じませんでした。

2時間ほど登ってようやく「美ヶ原高原」に到着です。

山頂部はとにかく広大な原っぱで、牛が放牧されていました。

日本ではなく、ヨーロッパアルプスあたりのような風景です。(行った事は無いのですが…)

そしてこの日は快晴で空気も澄んでおり、360°どこを見回しても山また山の絶景でした。

八ヶ岳と富士山。

槍穂高連峰。中央が槍ヶ岳です。

中央アルプスの山々。

ちなみに右端が能楽師東川尚史君、左のお2人が松本澤風会の山登りエキスパートです。

他にも浅間山や、北アルプス、南アルプスの山々もくっきりと見えました。

山頂には各放送局のテレビ塔が林立しており、何か宇宙基地のような光景です。

この山頂まで登って、「王ヶ頭ホテル」という四つ星ホテルで美味しいカレーをいただいてから下山しました。(カレーが美味しすぎて、写真を撮る間も無く食べ終えてしまいました…)

下山して見上げた美ヶ原高原。

山上に小さくテレビ塔が見えます。

あそこまで登って、降りてきたのか…と皆それぞれ感慨深い面持ちでした。

今回は朝10時の登山開始から午後2時半の下山まで、終始快晴で絶好の眺望に恵まれました。

おそらく今後再び美ヶ原高原に登っても、今回程の絶景は見られないかと思われます。

全員の思い出に残る素晴らしい山行でした。

松本澤風会の山登りエキスパートのお2人に、心より感謝申し上げます。

(写真は私が撮影したものと、参加者Nさん、Yさんが撮影したものです。NさんYさんありがとうございます)

喉の不調を経て

しばらくブログ更新が滞っておりました。

実は9月20日頃から、定期的に来る喉の不調に悩まされていたのです。

しかも今回はかなり酷い症状で、扁桃腺が腫れて熱を持ち、毎晩布団に入った途端に咳が出始めて止まらなくなり、うとうとしては咳き込んで起きてしまい、一晩中殆ど寝られないという状態が3週間ほど続きました。

しかし不調なのは喉だけで、食欲はあり、体力的にも普段と変わりはありませんでした。

なので「働きながら治す」という決意を固めました。

その頃ちょうど仕事の大きな山場が来ていたのです。

新作能のツレ、また能大原御幸の法皇の役をいただいており、加えて京都澤風会、松本澤風会があり、薪能や定例会、七葉會などの地謡も難しい曲が何曲かついておりました。

鞄に入れて持ち歩く小本も常時7〜8曲あり、新幹線で一通りさらうだけで東京から名古屋あたりまで移動している感じでした。

声を全力で出すと咳が出て破綻してしまうので、そうならないギリギリの声量で謡う日々が続きました。

喉の不調のピークは10月初旬までで、その後は少しずつですが症状は回復していきました。

10月第2週頃から夜の咳が止まって、寝られるようになったのが大きかったです。

今では喉はほぼ元通りに回復しました。

まだ右の耳に水が溜まっている感じがして、地謡の調子を合わせるのが少し困難なのですが、これも過去の経験で早晩回復すると思います。

ベストな喉の調子で謡えずに、ご迷惑をおかけした舞台もあったと思います。大変申し訳無く思っております。

何とか回復しましたので、今後はまた全力で謡って参りたいと思います。

ブログも徐々に書いていくつもりですので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

今は東北新幹線で北に向かっているのですが、ブログを書きながらふと車窓を見て驚きました。

福島の空にくっきりとした虹が掛かっていたのです。

何かこの虹に力をもらえた気がいたしました。

北の街の名月

今月から来月にかけて仕事がまた山場を迎えており、鞄には覚えるべき謡本がたくさん入っていて、移動中は殆どがそれらを見るだけで過ぎていきます。

それでもやはり、たまに見るニュースで季節毎の節目を思い出してハッとする瞬間があります。

今日の昼間に北に向かう東北新幹線で見たスマホのニュースの見出しで、

「今日は中秋の名月」

とありました。

能の題材にも多く取り上げられている「中秋の名月」。

綺麗に見える年もあれば、月を見る暇もなく過ぎる年もあります。

今年はどうでしょうか…

北の街に到着して日が暮れると、夜空には少し雲に覆われた名月が輝いていました。

雲が良いアクセントになって、一幅の絵画を見るような美しさでした。

この月のイメージを、またいつかの舞台に活かせたらと思います。

安心して「静寂」を味わうこと

今日は水道橋宝生能楽堂にて、明後日日曜日開催の特別公演の申合がありました。

私は能「石橋」の地謡を勤めさせていただきました。

実はこの曲の地謡は、シテの「獅子」が出て来る前に殆ど謡い終わってしまうという珍しい曲なのです。

今日も前半のツレ「樵童」のところの地謡が終わって、やや安堵して後半の獅子を待っておりました。

すぐに勇壮な獅子の出囃子「乱序」が始まりますが、途中で急にシンと静まる箇所があります。

石橋が架かる深山幽谷に水滴が滴る有様を、数秒の静寂を空けて打たれる小鼓と太鼓の極めて小さな打音で表現する、繊細微妙な囃子です。

今日はその緊張感のある静かな場面を、何故かいつもより安心して聴いている事ができました。

いつもは私はもっと緊張して聴いているのです。

何故だろう…と考えて、

「そうか、申合なので携帯などの電子音が鳴る心配が無いからだ」

と思い至り、微妙な気持ちになりました…。

ほんの少し前、携帯や腕時計の電子音が存在しなかった頃には、本番でも安心して、

「静寂」

を聴いている事ができたのです。

明後日の特別会本番では、もちろんアナウンスで「携帯電話の電源をお切りください」という放送があると思います。

特にこの能「石橋」では「静寂」が本当に大事ですので、どうか一時、携帯が無かった頃に戻って、電源を落として安心して静寂を味わっていただければと思います。

熱帯のような仙台…

先週の金土日は福岡で仕事がありました。

月火は京都で稽古して、夜に東京に戻りました。

そして今日水曜は仙台稽古。

九州から東北まで、段々と北上しております。

仙台まで来ると、福岡に比べてかなり涼しいだろうと思われるでしょう。

ところが仙台駅で東北新幹線を降りると、まるで熱帯のような高温多湿の空気がムッと身体を包みました。

稽古場に向かって歩き出すと、スコールのような雨も降り出して、湿気が一層増してドッと汗が吹き出してきました…

これは寧ろ福岡よりも暑く感じるほどです。

9月半ばの仙台で熱帯のような気候を味わうとは…。

実は2018年の今日9月11日も仙台稽古に来ていて、ブログには「今日の東北の街は涼しくて穏やかで…」と書いてありました。

それからわずか6年ですが、コロナ禍もあり、気候もすっかり変わってしまい、地球はいま大変な状況を迎えているのだと実感してしまいます。

6年前と同じ市場を訪ねてみました。

今年も秋刀魚はやはり高くて、1匹250円でした。

他にも枝豆が一盛り400円で売られていましたが、6年前の写真を見ると一盛り200円で、6年で値段が倍増していて驚きました。

気温も物価も高騰しております…

6年後のブログに書く内容が、どうか今よりも良くなってほしいと願いながら、汗を拭き拭き稽古場への道を急いだのでした。

6年ぶりの新入会員さん!

今日の京都はまだまだ大変な残暑で、最高気温35℃という事でした。

その苛烈な残暑の中、大山崎稽古場に向かいました。

「大山崎澤寳会」という稽古場の名前は、稽古会場である「宝積寺」からとられていて、私がまだ内弟子の頃に一番最初に出稽古を始めた場所なのです。

もう20年以上の歴史があります。

(現在は宝積寺が改修工事中で、長岡京駅前の公民館で稽古しております)

しかし当初10人以上いらした会員さんも年々高齢化などで減っていき、最近では3人でかろうじて稽古を続けておりました。

その「大山崎澤寳会」に、実は今日6年ぶりの新入会員さんが来てくださいました!

辰巳満次郎師のお力添えで、大山崎近辺で稽古に興味がある方を探した結果、まず最初の1人が今日いらして下さったのです。

久々の女性会員さんという事もあり、稽古場がパッと華やいだ感じがしました。

これをきっかけに、大山崎澤寳会に更に人が増えていくと有り難いです。

そして午後からは亀岡稽古場に移動しました。

稽古場の建物の入り口近くにある「フジバカマ」という植物の前を通ると、もう一部が開花していて嬉しくなりました。

秋になるとアサギマダラという蝶が、日本の高原地帯から旅立って、この花の蜜を吸いながら遠い南国まで渡っていくのです。

この厳しい残暑では”秋”という言葉はなかなか思い浮かばないのですが、花は確実に季節が秋へと移っていくのを教えてくれます。

あと2〜3週間もすると写真のフジバカマの花にアサギマダラがやって来る事でしょう。

今日は大山崎でも亀岡でも嬉しい事があり、良き一日になりました。

後半は体育会系で

昨日は水道橋宝生能楽堂にて宝生流若手勉強会の「青雲会」が開催されました。

今年から能の地頭に青雲会OBが呼ばれる体制になり、今回はOBの私が能「田村」の地頭を勤めました。

私以外の7人の地謡は全員が20〜30代の若者達です。

このような若いメンバーと能地を謡うのは初めてのことで、普段とは違う緊張感と難しさがありました。

やはり舞台のシチュエーションによって地謡のあり方も微妙に変わると思います。

今回の「田村」をどう謡おうか…と色々考えて、

「前半は文化系、後半は体育会系」

というイメージでいってみようと思いました。

青雲会は若手勉強会なので、宝生流の若手の溌剌としたパワーをお客様に感じていただくのが目標です。

本番の前半「文化系」が終わって、後半が始まった時です。

大鼓のやはり若い楽師が、一セイの囃子を非常な気合いを込めて打ってきたのです。

それに呼応して、後シテ坂上田村麻呂の謡も最大限の気迫がこもったパワフルな謡になっていました。

最早申合とは全く違う迫力です。

しかし私の後半コンセプトは「体育会系」なので、望むところです。

力任せになって破綻しないように注意しつつ、ゴリゴリと腹に力を込めて謡っていきました。

若い地謡メンバーと声が合うか不安でしたが、皆伸び伸びと大きな声でついて来てくれて、最後までイメージ通りに溌剌と謡い切る事ができたと思います。

思えばこの先は、彼ら若手と一緒に謡う機会がどんどん増えていくはずなのです。

今回の「青雲会」は私にとっても今後に繋がる大変貴重な舞台になりました。

大同二年の謎

今日は水道橋宝生能楽堂にて、明後日21日開催の「青雲会」の申合がありました。

昨日書きましたように、私は能「田村」の地頭を勤めました。

「田村」の申合が始まって、前シテ童子の謡を聴いていて「おや?」と思いました。

語りの冒頭で、

「そもそも当寺 清水寺と申すは 大同二年のご草創」

と謡われているのです。

昨日「清水寺建立の日付までは謡われていない」と書いてしまいましたが、それは大間違いでした。お詫びして訂正いたします。

そして思い返してみれば、能「花月」のクセの冒頭にも、

「そもそもこの寺は 坂上田村麻呂 大同二年の春の頃 草創ありし…」

という謡がありました。

しかしここで不思議なことがあります。

清水寺建立は「延暦17年(西暦798年)」という史実がある一方で、謡では

「大同2年(西暦807年)春のご草創」

となっているのです。

色々調べてみると、東北地方を中心とした非常に多くの神社や寺が、この「大同2年」に建立された事になっているそうなのです。

ある説を読むと、

①なんらかの理由で清水寺建立の時期が「大同2年」とされ、それが能「田村」や能「花月」の謡の詞章になった。

②坂上田村麻呂の伝説と共に「大同2年」という謡の詞章も東北地方に広がった。

③いつしか清水寺との関わりが忘れられて、「大同2年」は「坂上田村麻呂に縁のある年号」として認識されて、田村麻呂が創建したとされる多くの寺社の創建年号になった。

という事だそうです。

謡にのって「大同2年」という年号が東北地方に広がったというのは大変興味深く、ロマンのある話です。

…しかし、何故「延暦17年」が「大同2年」に変化したのか、という理由はまだ謎のままなのです。

「善知鳥峠の謎」などとともに、またひとつ今後調べていきたい謎が増えました。

清水寺の建立された日

昨日の事になりますが、スマホのニュースで「清水寺は798年8月17日(旧暦延暦17年7月2日)に坂上田村麻呂によって建立された」というのを読みました。

能「田村」では前シテの童子によって清水寺の縁起が語られますが、建立の日付までは語られておりません。

私は昨日初めて知りました。

ニュースを見て先ず思ったのが、

「こんな暑い時期に建立されたのか…」

という事でした。

“平安時代は実は気温が高かった”

と聞いたことがあります。

いくら何でも最近の猛暑ほど暑くはなかったでしょうが、エアコンの無い時代の真夏に大きな寺を建てるのは、さぞかし大変な工事だったと想像します。

実は今日は亀岡稽古日で、その前に清水寺に行こうと思えば行けたのですが、今日の京都の予想最高気温は37℃。

そしておそらく清水道と境内は、外国人観光客などで溢れかえっている事でしょう。

真夏の暑さに耐えて大伽藍を建立した人々の苦労を偲びつつ、新幹線の中から遠く見える清水寺に小さく合掌したのでした。

ちなみに偶々なのですが、今週水曜日に宝生能楽堂にて開催される「青雲会」で能「田村」が出て、私はその地頭を勤めさせていただきます。

平日ですが、皆さまご都合よろしければどうか宝生能楽堂にいらしてくださいませ。

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