全宝連第2日目

今日も短めの内容で失礼いたします。

全宝連第2日目もおかげさまで盛会のうちに終了いたしました。

終了後にOBの皆さんとの交流会が、これまた盛大に行われました。

それも終わって、京大宝生会は新幹線組、夜行バス組、もう一泊組に分かれて解散しました。

今はお祭の後の、ちょっと淋しい気分です。

全宝連に関することは、書きたいネタがたくさんあるので、また日を改めて書かせていただきます。

今日は私も早く休みたいと思います。

OBの皆さん、また応援に駆けつけてくださった部員のご家族や友人の皆さん、また澤風会の会員の方々、その他能楽愛好家の方々も含めて、今回は見所が本当に賑やかでした。誠にありがとうございました。

またこの舞台が盛会裡に終了できたのは、幹事の学生の皆さんと、その御指導にあたられた先生方のおかげです。こちらも心より御礼申し上げます。どうもありがとうございました。

全宝連第1日目

全宝連東京大会が始まりました。

私にとって全宝連の舞台は特別な感慨があり、本日も朝から一瞬一瞬を噛み締めて記憶に留めました。

心に残る舞台でした。

舞台のことはまた改めて書かせていただきますが、終了後に東京ドーム横の後楽園飯店にてレセプション、その後京大と神戸大と南山大で水道橋串八珍にて二次会、それも終わって解散し、宝生能楽堂で荷物の片付けをしていたら早稲田の先生より三次会の誘いの電話があり、水道橋駅西口の笑笑にて関宝連及び金沢大の皆さんとやや厳しく呑み、今年も全宝連にどっぷり浸かっております。

明日はまた朝から夕方まで全宝連の舞台です。

どんなことを体感できるか、わくわくしながら休みたいと思います。


全宝連最初の合同連吟「鶴亀」です。横板まで学生で一杯で壮観でした。

全宝連鑑賞能 竹生島

全宝連東京大会に関して何回か書いておきながら、鑑賞能のことを宣伝しておりませんでした。

全宝連鑑賞能は、明日15時より宝生能楽堂にて開催されます。

今回は仕舞5番と能「竹生島」です。

思えば竹生島という能は、私の色々な節目で経験して来た演目なのです。

先ず、はるか昔に私が委員長を務めた全宝連京都大会での鑑賞能がやはり竹生島でした。

シテが先代宝生英照家元、ワキに福王茂十郎先生、地頭が辰巳孝先生という、今考えるとあり得ないような豪華な番組でした。

次に8年前の京宝連100回記念大会にて演じられた竹生島は、前シテ京大、後シテ同志社、ツレ京女、地謡は京大同志社の混成という企画能でした。

記念大会前の春休みにメンバーで「竹生島合宿」を近江今津で行い、全員で竹生島詣したのが懐かしい思い出です。

そして昨年の澤風会10周年記念大会では、信州松本稽古場から出た初めての能が竹生島でした。

明日の竹生島では、私は後見のひとりとして舞台をサポートいたします。

因みにツレの藪克徳師は東大宝生会OB、ワキの御厨誠吾師は金沢大宝生会OBなのです。

京大の2番も含めて、鑑賞能の直前には学生の舞囃子が4番演じられます。その前には仕舞と謡も沢山あります。

学生の熱い舞台を観ていただき、その後に我々職分の鑑賞能もどうか御覧くださいませ。

よろしくお願いいたします。

こきりこ、ささら、玉すだれ

昨日は結局新幹線で6時間過ごして東京に到着しましたが、その後のニュースを見ると私はまだ幸運だったようです。新幹線で夜を明かした方々は本当にお疲れ様でした。。

東京に到着して田町稽古に直行しました。

いつも元気な韓国人留学生のSさんは、今は放下僧の小歌の仕舞を稽古しています。

そのSさんに質問されました。

「先生!こきりこって何ですか⁉︎」

え〜、「こきりこ」は楽器の一種で…と言いながらスマホで検索して、見せてあげた画像が「南京玉すだれ」の写真でした。

「こんな感じの筈です」「へ〜、わかりました!」

しかし稽古を続けながら、「こきりこと南京玉すだれはちょっと違うのだっけ?あれ、自然居士に出てくる”ささら”も関係あったような…」ともやもやしていました。

帰ってまた色々調べてみると、「こきりこ」「南京玉すだれ」「ささら」には思ったよりも複雑な関係がありました。先ず、

①こきりこ:中世に放下が携帯していた楽器。指の太さの竹を七尺五寸に切って、両手の指先に一本ずつ持ち、回しながら打ち鳴らす。

②ささら:竹の先を細かく割って、茶せんを長くしたような物を作り、これを「ささら子」という刻みをつけた細い棒でこすると「さらさら」と音がする道具。

…ということで、「こきりこ」と「ささら」は別物だとわかりました。ところが…

③こきりこささら:富山県五箇山の民謡「こきりこ節」に用いる楽器。108枚の木片と両端のグリップを紐で結びつけた形。両手で持って片手だけスナップをきかせると、木片が次々に衝突して「しゃらしゃら」と鳴る。

…なんと、「こきりこ」と「ささら」が融合した名前で、全く別の構造の楽器「こきりこささら」が存在しました。更に…

④南京玉すだれ:江戸末期頃に始まった大道芸のひとつ。当初の名前は「唐人阿蘭陀南京無双玉簾」で、「唐人、阿蘭陀、南京」が当時のハイカラの代名詞だった為に付けられた名前。「南京」には「南京玉すだれ」は存在しない。また「日本南京玉すだれ協会」は五箇山の「こきりこささら」が「南京玉すだれ」のルーツであると認定している。

…という訳で①②が融合した名前の③から、更に④が発生したという事のようです。

とてもややこしいですが、とりあえず確かなのは、能「放下僧」の小歌に出てくる「こきりこ」の説明は①でした。

Sさんごめんなさい。次回の田町稽古で訂正させていただきます。

そして、④の南京玉すだれの映像を観たのですが、これが大変面白かったのです。個人的に是非習ってみたいと思いました。

「日本南京玉すだれ協会」に問い合わせてみようかと、半ば本気で思っております。

夏至の豪雨

今日は夏至だったのですね。

北欧では沈まない太陽の下で「夏至祭」が盛大に行われるそうです。

しかし今日の日本は太陽を拝むどころか、空梅雨から一気に大雨になってしまいました。

能「歌占」のシテ渡会某の出身地である伊勢国の二見ヶ浦では、夏至の日の出に合わせて海中で禊をする「夏至祭」が毎年行われているそうですが、今年はその辺りは豪雨だった筈なのでどうなったのか気になります。。

かく言う私は実は今、豪雨の為に新幹線に缶詰め中なのです…。

京都から東京に向かっていたのですが、豪雨の影響で豊橋辺りでもう3時間以上止まったままなのです…。

近年の夏の雨は、降れば豪雨で新幹線が遅れることが多い気がします。

能「雨月」のツレ姥は「月が見えなくなるから屋根を葺かないでおきましょう」と言いますが、現代日本でそれをするとゲリラ豪雨の時には大変なことになってしまうでしょう。

新幹線の遅れの影響を受けやすい生活で、そのうえ暑さが大の苦手な私には、少々憂鬱な夏がまた始まったのだな…と、止まったままの新幹線車内で溜息などついているのでした。

全宝連委員長だった頃

先日もお知らせしましたが、今週末の6月24、25日に水道橋の宝生能楽堂にて全宝連東京大会が開催されます。

数年前と比べると加盟する学校が増えて、学生の数も徐々に上向きになっていると感じます。

熱意を持って指導される先生方と、親御さん始め学生の活動を支援してくださる様々な立場の皆様のおかげであると、深く感謝いたします。

私は大学3回生の時に全宝連京都大会の委員長を務めましたが、その頃の全宝連は、今とは違う点がいくつかありました。

初日の鑑賞能の後に、「シンポジウム」という時間がありました。学生がいくつかのグループに分かれて、討論や勉強会をするのです。

しかし私が入学した時には既にシンポジウムという名前は半ば形骸化しており、真面目に能楽を勉強するグループがある一方で、「能楽山手線ゲーム」といった全く学問的で無い時間を過ごすグループもありました。

当時はパソコンがまだ今ほど普及しておらず、番組などの下書は全て手書きでした。

また携帯も存在しなかったので、留守番電話が活躍する一方、割と頻繁に全宝連各支部の代表が集まって話し合いをしました。

これは「全宝連幹事会」と呼ばれましたが、私が委員長の時は例えば嵯峨野や大原辺りの民宿に集まって、1時間程真面目な話し合いをしたらあとは観光と大宴会、というかなり不真面目な幹事会でした。。

我ながら結構いいかげんな委員長でしたが、その時に初めて「大人の社会」との様々なやり取りを経験しました。

先生方への手紙の書き方や、楽屋での作法、またホテルや宴会の大人数の予約や、役料の計算なども、思えばその時の経験が今に活きている気がします。

今年の委員長さんも、今が一番大変だと思いますが、どうか頑張ってほしいです。

当日は私や京大の現役も、全宝連の舞台が円滑に進む為に出来る事があれば、なんでもやりたいと思っています。

学生達は舞台に向けた稽古は勿論のこと、この日の為に様々な準備を積み重ねて来ました。繰り返しですが、彼らの舞台をどうか1人でも多くの方に御覧いただければと思います。

どうかよろしくお願いいたします。

能の街・松本を目指して

昨日の松本稽古では、この半年ほどお休みされていた大切なメンバーが同時に何人か顔を見せてくださり、とても嬉しく賑やかな日になりました。

1人の方は、その人がもしいなければ、松本稽古場はおそらく存在すらしていないという非常に重要な方です。昨年の澤風会10周年大会では能も舞ってくださいました。

「これからまたよろしくお願いします」こちらこそ、どうかまたよろしくお願いいたします。

また、兼平の末裔かもしれない女の子とそのお母さんも、久々の稽古です。

女の子はこの春中学生になって卓球部に入り、毎日早朝と放課後遅くまで練習しているそうです。

でも昨日は、親子で着物と浴衣で頑張って稽古してくれました。

私「いつの日か兼平の仕舞を舞ってもらいたいのです」お母さん「それを目標に頑張ります!」

また昨日は、澤風会の稽古と平行して、別の公民館で幸流小鼓と金春流太鼓の稽古もありました。掛け持ちの人は慌ただしい中にも謡と仕舞をしっかり稽古してくださり、これも有り難いことでした。

松本に少しずつですが着実に能楽が根付いていっているのを実感しています。

この流れがより深く大きくなって、いつか松本が宝生流の一大拠点なるのを最終目標に、一回一回の稽古を大切に丁寧にして参りたいと改めて思いました。

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藤戸雑感

昨日の五雲会では、能「藤戸」の地謡を勤めました。

この藤戸という曲。ワキの佐々木盛綱は、戦功を立てたいが為に罪の無い漁師を自らの手で殺害し、その母親に向かって「これは前世の報いなのだから恨むなよ」と言ってのけます。

現代の私にはこの「武士の理論」は到底理解出来ません。

しかし、前シテである漁師の母親と、後シテである漁師その人に焦点を当てて考えると、また違った見方が出来そうです。

この母子を「理不尽な力で人生を翻弄された名も無い人々」と私は見てみます。

すると、現代においてもこの曲と同じように、世界中が「理不尽な力」とそれに「翻弄される人々」で溢れているように思えて来るのです。

そしてこの900年近く前の名も無い母子を襲った悲劇を、能楽は目の前の舞台で体感させてくれます。

前シテ母親はクセのクライマックスで、盛綱に向かって自分も子供と同じように殺せ!と走り寄ります。その瞬間の迸るような悲しみ。

後シテ漁師の、胸を二度も刺される瞬間の痛み、暗い海底に沈み漂う無念と苦しみ。

この能は観る人に直接の救いを与えてはくれません。しかし「はるか昔の先祖達にも、このような悲しみや苦しみがあった」と確かに思えることで、現代の我々が悲しみや苦しみに耐える為の「生きる力」のようなものが得られる気がするのです。

そしてこの母子は、「藤戸」という曲に封じ込められたことで、千年先の人々をも「生かす」ことが出来る存在になったのだとも思います。

先日千葉の中学生達にも話したのですが、このように先人達の喜怒哀楽を曲に封じ込め、後世の人々がそれを追体験出来るということが、能楽の凄さ、素晴らしさなのだと私は思うのです。

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半蔀の旧蹟を訪ねて  後編

「五条辺りの夕顔の宿」を後にして、紫野にある雲林院を目指しました。

堺町通りを少しだけ南下して、松原通りを東に歩きます。

松原通りは元々の五条大路でした。

牛若丸と弁慶が出会ったのも松原通りに掛かっていた「旧五条大橋」の上なのです。

他にも「鉄輪の井戸」や「藤原俊成屋敷跡」など、松原通り周辺には能に関わる見所が多いのですが、今回はスルーして河原町通に直行。

河原町通から市バス205系統北行きに乗って、京都北山は紫野方面に向かいました。

40分ほど乗って、「大徳寺前」バス停で降ります。

大徳寺前交差点をほんの少し南下した東側に、こぢんまりした現在の「雲林院」がありました。境内は30m四方位でしょうか。

しかしこれは江戸時代に建てられたもので、雲林院は昔はもっと広大なお寺でした。鎌倉時代に大徳寺が出来るまでは、250m×300m位の敷地があったようです。

それにしても能「半蔀」のワキが「雲林院の僧」であり、前半の舞台が五条辺りではなく、雲林院のある紫野辺りなのは何故なのでしょうか。

それは、そもそも源氏物語の作者である「紫式部」がこの紫野の雲林院辺りの生まれだったからだと思われます。

紫式部の「紫」の字は「紫野」からとったそうです。

上に写真を載せた雲林院縁起の看板に、紫式部の墓所が雲林院の近くにあると書いてありました。

これは行ってみなければ!

雲林院から歩いて数分、堀川通沿いの島津製作所紫野工場のすぐ北隣に、「紫式部墓所」の碑がありました。碑に被さるように、小さく可憐な薄紫色の花が咲いています。

これはもしかして…

やはりムラサキシキブの花でした!秋に生る鮮やかな紫色の果実が馴染み深いですが、花が咲くのはちょうど6月の今頃だったのです。

ムラサキシキブの開花に合わせて紫式部の墓参をするのも、また不思議な縁だと思いました。

お墓そのものは更に奥にあります。墓所の写真撮影は控えましたが、小野篁の墓所と並んで、築山になったお墓でした。

今度は夕顔の墳と違って、墓所を前にしてきちんと長い時間をかけてお参りいたしました。

能「半蔀」の舞台の無事を祈念しつつ、堀川北大路バス停から今度は市バス206系統東行きに乗って、京大稽古に向かったのでした。

半蔀の旧蹟を訪ねて  前編

私は来月7月15日の五雲会で能「半蔀」のシテを勤めます。

今日は夕方からの京大稽古まで時間があったので、「半蔀」に関わる旧蹟を訪ねてみることにしました。

最初の目的地は「五条辺りの夕顔の宿」の跡です。

宿のある四条河原町から、先ずは西に向かい、堺町通りまで来ました。

四条堺町北西角には謎の石像があり、「お気張りやす」と励ましてくれます。

励ましを受けた後信号を渡って、堺町通りを五条方面へ南下開始。

しかし仏光寺通でフランス風(?)町家に突き当たってしまいました。。

少し西に行くと、仏光寺沿いに道が続いていました。更に南下すると…

「夕顔町」にやって来ました。マンション名も夕顔。

バケツも夕顔。

消火器も夕顔。そばには何故か朝顔ですが…。

只ならぬ「夕顔愛」を感じます。そして…

道端に「夕顔の墳」の石碑が。「夕顔の墳」そのものはこちらの民家の庭にあり、見る事は出来ません。庭の外から手を合わせました。

…しかし、思えばフィクションである「源氏物語」の登場人物である「夕顔」さんにお墓があるというのは不思議な話です。

これはやはり「源氏物語  夕顔の巻」が如何に人気があり、「夕顔」その人も如何に人々に愛されているかの印であると思われます。

何せ町名にしてしまうほどなのです。

しばらくの間「五条辺りの夕顔の宿」の風情を体感した後、今度は紫野にある雲林院を目指しました。

雲林院のお話は後編で。