源氏供養の不思議

一昨日の土曜日に水道橋宝生能楽堂にて「五雲能」が開催され、私は能「源氏供養」を無事に勤めさせていただきました。

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緊急事態宣言下で席数を半分に減らしての開催でしたが、有り難いことにその半数の座席がほぼ満員でした。

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先日、能LIFEに載せるために「源氏供養」の短い解説を書いた時に、

この能は源氏物語というフィクションを書いたために「妄語の罪」に苦しむ紫式部の霊が、物語を供養するために舞を舞うお話。しかし、能「源氏供養」自体がまたフィクションなのであり、不思議な”入れ子構造”になっているのだ。

…というようなことを書きました。

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しかし更に深く考えると、この「源氏供養」という能の構造はもっと複雑なものである気がします。

…能「源氏供養」の作者自身が、源氏物語と紫式部の供養をしたくてこの曲を作ったのではないかと私は思うのです。

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能の中には「源氏物語」を題材とした曲がたくさんあります。

「葵上」「半蔀」「野宮」「玉葛」「須磨源氏」などなど…。

つまり世阿弥を筆頭とする能作者達は、「源氏物語」のおかげで数多の名曲を生み出すことができた訳です。

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そのお世話になった「源氏物語」を供養して、尚且つ作者の「紫式部」をリスペクトする作品をひとつくらい作るべきではないか、と考えた能作者がこの「源氏供養」という曲を書いたのではないでしょうか。

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更にまた、この「源氏供養」を舞う私自身も、これまで能役者として何番もの源氏物語関係の曲を勤めて参りました。

私もまた源氏物語には大変お世話になってきた訳なのです。

なのでこの「源氏供養」を舞うことで、能役者もまた源氏物語と紫式部への感謝と供養をしている気がするのです。

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「紫式部の霊」と「能作者」と「能役者」

今”源氏供養”をしている主体はいったい誰なのだろうか…?

何とも不思議な気持ちになる曲でした。

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…今日私は京都稽古の合間を縫って、北山紫野にある「紫式部墓所」に行って参りました。

そして千年以上前に生きたひとりの女性に、

「今まで色々な曲でお世話になりました。今後ともどうかよろしくお願いいたします」

と生きている人にするようにご挨拶をしてきたのでした。

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