院展に行って参りました

この度、上野の東京都美術館で開催されている「院展」に行って参りました。

実は澤風会田町稽古場の森田さんが日本画家で、毎年「院展」に出品されているのです。

昨年初めて券をいただいて行ってみたのですが、絵心の皆無な私にも明確にわかる程に素晴らしい作品が無数に展示されていました。

しかし昨年は閉館直前に行って駆け足で見て回っただけでしたので、今年は少し余裕を持って出掛けました。

会場に入ると、今年もやはり素晴らしい大作がずらりと展示されています。

その中の一枚の絵にふと心を奪われた私は、しばしその絵の前に茫然と佇んでしまい……と、いうような豊かな感受性を持ち合わせていない私は、「なんだかみんなすごいなぁ」などという曖昧な感想のまま、無限に続く絵の行列の前をふらふらと歩いていきました。

異国の街角、寂しい無人駅、飛翔する鷲、月夜に揺蕩う海月、眠る母娘、真夏の光射す森の道、南国の青い海、誰かの心の中、遺跡に住む猿達、平安貴族の春秋の御遊、象の親子、長崎の夜景、松明を持った修験者達…

これらの絵が掛けられている展示室は不思議な構造をしています。

大小幾つかの部屋がまとまってひとつの大きな区画を構成していて、その区画の出口の先には全く同じ構造の次の区画があり、またその先にも次の区画が現れ…というように、まるで同じ道を何度もぐるぐるまわる「リングワンデルング」に陥ったように感じます。

森見登美彦の小説に、京都祇園祭の路地を何度もぐるぐる回っているうちに、宵山の奥の奥にある異界に取り込まれていってしまう姉妹の話がありましたが、丁度そんな感覚でした。

無数のイメージの奔流に晒されて、このまま終わりなく「院展」の世界をぐるぐる回り続けるような錯覚を覚えながら絵の間を逍遥するのは、しかし大変心地良い時間でした。

それにしても、能楽のような再現芸術とは違って、全くの「無」から素晴らしい「作品」を生じさせる画家の人達は、一体どんな想像力を持っているのか不思議でなりません。

風景画にしても、無限に広がる世界の中から絵にするべき一画だけを的確に「切り取る」能力が必要です。

これらの「創造力」とでもいう力は、考えてみると最初に「能楽」を作った室町時代の人達は持っていたはずです。

しかし今の自分には「創造力」は全くありません。。

「絵を描く」という行為は、中学時代の美術の授業以来縁遠くなっているのですが、これはいつか自分も絵を勉強して、「創造力」の欠片でも身につけたいなあなどと、大それたことを思いながら「院展」の迷宮を抜け出して現実世界へ戻って来たのでした。

森田さんありがとうございました。夏から秋へと移ろう生命を描いた森田さんの作品には、今年も大変感銘を受けました。

会期はまだ続いています。「院展」皆様にもおすすめいたします。

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