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藤戸雑感

昨日の五雲会では、能「藤戸」の地謡を勤めました。

この藤戸という曲。ワキの佐々木盛綱は、戦功を立てたいが為に罪の無い漁師を自らの手で殺害し、その母親に向かって「これは前世の報いなのだから恨むなよ」と言ってのけます。

現代の私にはこの「武士の理論」は到底理解出来ません。

しかし、前シテである漁師の母親と、後シテである漁師その人に焦点を当てて考えると、また違った見方が出来そうです。

この母子を「理不尽な力で人生を翻弄された名も無い人々」と私は見てみます。

すると、現代においてもこの曲と同じように、世界中が「理不尽な力」とそれに「翻弄される人々」で溢れているように思えて来るのです。

そしてこの900年近く前の名も無い母子を襲った悲劇を、能楽は目の前の舞台で体感させてくれます。

前シテ母親はクセのクライマックスで、盛綱に向かって自分も子供と同じように殺せ!と走り寄ります。その瞬間の迸るような悲しみ。

後シテ漁師の、胸を二度も刺される瞬間の痛み、暗い海底に沈み漂う無念と苦しみ。

この能は観る人に直接の救いを与えてはくれません。しかし「はるか昔の先祖達にも、このような悲しみや苦しみがあった」と確かに思えることで、現代の我々が悲しみや苦しみに耐える為の「生きる力」のようなものが得られる気がするのです。

そしてこの母子は、「藤戸」という曲に封じ込められたことで、千年先の人々をも「生かす」ことが出来る存在になったのだとも思います。

先日千葉の中学生達にも話したのですが、このように先人達の喜怒哀楽を曲に封じ込め、後世の人々がそれを追体験出来るということが、能楽の凄さ、素晴らしさなのだと私は思うのです。

2件のコメント

  1. 澤田先生

    いつもブログたのしみにしています。
    今日のおはなし。何となく目頭が熱くなりました。
    先生の道成寺を観せてもらった時のことをよく思い出します。
    何度も何度も足を行ったり来たり小さな動きの中に大きく動いていた昔むかしの人の想いが私の心の中にズシンと届きました。
    私のお稽古はまだまだ小さくて何にも届かないけれど、それでも澤田先生に教わることが出来ること感謝いたします。
    いつもありがとうございます。気持がたかまって少し恥ずかしいお便り。失礼いたしました。

    1. コメントどうもありがとうございます。このように素晴らしい感想を送っていただけると、頑張ってブログを書いて良かったと思えます。
      今後もどうかよろしくお願いいたします。
      澤田

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