女装、男装…

今日9月9日は重陽の節句の日でした。

水道橋宝生能楽堂では月並能が開催され、私は能「井筒」の後見を勤めて参りました。

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「井筒」の後シテは、紀有恒の娘が在原業平の形見の衣と冠を身に纏った姿で登場します。

何度見ても美しい姿だなあと思いながら後見座から見ていたのですが、そこで何やら妙な既視感を感じました。。

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よくよく思い出してみると、それは一昨日夜のことでした。

京大能楽部BOX棟の横にある”吉田寮”では、いつもの如く何やら怪しげなお祭りが開かれていました。

大量の材木を組み合わせて、本格的な二階建の出店が寮食堂前に出現しており、カレー屋やチャイ屋やバーなどなど、実に魅力的な異世界空間が展開されていました。

誰かが「リアル森見登美彦の世界だ」と言っていたそうですが、全くその通りに見えました。

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このような魅惑的な祭りには、ついつい吸い寄せられてしまいます。

京大宝生会の何人かと、祭りを覗きながら吉田寮方向に歩いて行きました。

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その時に吉田寮の玄関から、何人かの大学生がぞろぞろと出て来たのですが、これが皆何故か女装した男子学生だったのです。。

女装してはいますが、顔は普通のむさ苦しい男子なので、思わず「おえ〜っ」と声を上げてしまいました。

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男装の女性は美しく見えるのに、逆は何故あんなに不快に感じるのだろうか…。

あの一昨日のセーラー服男子は実に不気味であった…。

と井筒の美しい序之舞を見ながらぼんやりと考えたところで、「しかし自分も舞台の上では頻繁に女装しているな…」と気付いて、「うーむ」となってしまいました。。

宗家継承10周年

昨日の夜は水道橋宝生能楽堂にて、宝生和英家元の宗家継承10周年の記念行事が行われました。

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20代前半の若さで、亡くなられた先代の跡を継いで宗家になられてから10年。

御苦労の連続だったと思います。

宝生流のみならず、能楽界全体が高齢化などで危機的状況を迎えている中で、しかし若い和英家元はひたすらに前向きでした。

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希曲大曲を次々と演じて伝統を受け継いでいかれる一方で、能楽以外の様々な業種の人々と積極的に交流されました。

宝塚俳優やアニメ声優を起用した朗読劇など、この10年で新しい舞台の可能性を広げて、また若い世代を意識した企画を多く立ち上げられました。

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この10年間の新進的な試みは、和英家元と共に成長してきた20代30代の若手能楽師達に自然に浸透しているように見えます。

この先彼ら若手能楽師が、家元の思想を汲みつつそれぞれ自分で動くようになれば、新たな能楽の可能性が更に広がっていくことと思います。

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そして、継承10周年を迎えてもまだ30代前半という若さの和英家元です。

ご自身の可能性もまだ無限大にあるお年だと思います。

今のまま真っ直ぐに前向きにあと数十年進んでいかれたら、大変な功績を挙げて能楽の歴史に名を残す家元になられるのは間違いないと思います。

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この家元と同時代に生きられる幸せを感じつつ、微力ながら家元のために働かせていただきたいと存じます。

怒涛の8月を終えて

今日から9月になりました。

思えば8月は、水道橋宝生能楽堂にて能「鵺」を稽古しながら迎えたのでした。

そして正に怒涛のように過ぎていきました。

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9月は一応静かに布団の中で迎えたのですが、果たしてどんな月になるのでしょうか…?

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9月1日といえば、小中高生の頃は始業式の日でした。

ひと月半ぶりに教室で同級生達と再会して、夏休みの話などをしたものです。

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高校の時には陸上部だったので、夏休みも毎日練習でした。

始業式で会う運動部の連中は、私も含めてひと夏の練習で黒く日に焼けて、筋肉がついて一回り大きく逞しくなったように見えました。

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時は流れて、私の今年の9月1日は通常の亀岡稽古でした。もう始業式は無いのです。

そしてこの夏は、陸上部のようなトレーニングも勿論しませんでした。

しかし今年の8月を思い返してみると、心に強烈に残る出来事がいくつもありました。

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ひと月で4回通った岡山吉備津神社の子供能楽教室。

薪能で初めてシテを勤めた松本城薪能では、雨雲が逸れてくれるように天に祈りながら能「鵺」を舞いました。

東広島のこども園での能楽教室では、1〜4歳児40人を相手にするという得難い経験をしました。

初めて銀座の観世能楽堂にて舞囃子を舞った佳名会。

そして8月最終日の昨日には盛岡で、伝統文化活動の担い手が集まってのセミナーでの発表という、これも全く初めての経験をいたしました。

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他にも七葉会の舞台や、琥珀の会立ち上げの稽古や、京大宝生会合宿などなどがあり、それら全てがまた自分の肥やしになったと感じます。

日焼けもしていないし、筋肉も増えておりませんが、夏の前の自分よりも少しだけ強くなった手応えがあります。

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宝生流の在京能楽師にとっては、始業式に近いのが9月9日の月並能だと思います。

8月は定例会が無いので、宝生能楽堂に約ひと月半ぶりに楽師達が集まるのです。

皆さんどんな経験を積んで、どんな顔でまた水道橋の楽屋に戻ってくるのでしょうか。とても楽しみです。

私もこの夏の経験を活かして、また秋の能楽シーズンに全力で向かっていこうと思っております。

岡山子供能楽教室発表会

今日はいよいよ吉備津神社にて、岡山子供能楽教室の発表会がありました。

この1ヶ月で4回も吉備津を訪れて、私はすっかりこの土地と人々が好きになっていました。

今回で一旦終了かと思うと、なんだか学校の卒業式に行く時のような寂しさを感じます。

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いつものように桃太郎線に乗って無人の吉備津駅で降りて、松並木を通って吉備津神社へ。

昼前に社務所に到着して待っていると、年上チームが先ずやって来ました。

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色とりどりの自前の浴衣に、こちらで用意したカラフルな袴をはいてもらいます。

「すっごいかっこいい〜❗️」

と如何にも高校生らしい反応で、お母さんに写真を撮ってもらったりして、テンションが急上昇していくのがわかりました。

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しかし私が「じゃあ一回羽衣キリを稽古しようか」と言った途端に、

「うえ〜…」というような声をあげて、テンション急降下です。。

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それでも、稽古してみるとシテ謡も正確に謡っているし、型もほぼ出来ていました。

皆とても緊張している様子ですが、本番はまず大丈夫だろうという目処が立ちました。

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続いて年少チームが到着して、仕舞「猩々」の稽古です。

こちらはやはり少し苦労している感じでしたが、中には完璧に覚えている子供もいて感心しました。

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稽古を終えて、いよいよ本番の舞台である”拝殿”に向かいます。

今日の岡山は晴れて残暑が非常に厳しく、拝殿も屋根はあるもののムッとする暑さです。

直前に水分補給などは終えており、子供達と我々能楽師は拝殿内にスタンバイしました。

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観覧にいらした子供達の御家族なども席につかれ、宝生和英家元の御挨拶からついに発表会がスタートしました。

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年少チームの「猩々」から、1人ずつ順番に仕舞を発表していきます。

全員もちろん初舞台で、構造も通常の舞台とは異なる難しい環境の中、全員持てる力を全て出し切って、正に必死で舞っているのがわかりました。

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僅か1ヶ月の稽古でしたが、「羽衣」の年上チームまで1人も欠けることなく舞い終えてくれました。

我々能楽師の奉納仕舞を挟んで、最後に全員で「四海波」を謡いました。

こちらも実に大きな声で元気に謡ってくれて、最初の稽古で苦労した事を思い出すと実に感慨深いものがありました。

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こうして吉備津の神様に無事宝生流の仕舞と謡が奉納されました。

ひとつの新しい歴史が生まれたわけです。

しかしここで終わりではなく、この歴史をこの先積み上げていかねば意味がありません。

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年少チームの子供の中には、「来年は妹と一緒にまた来る!」と宣言してくれた子もいました。

今年から始まって、第1回目を今日無事に終えることが出来た岡山子供能楽教室。

来年再来年と繰り返していって、いつかこの吉備津の地にもまた能楽宝生流が根付いて欲しいと願いながら、あの小さな吉備津駅から小さな桃太郎線に乗って帰途に着いたのでした。

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子供能楽教室の関係者の皆様、また吉備津の皆様、色々どうもありがとうございました。

新しい観世能楽堂にて

今日は銀座の観世能楽堂にて、大皷の佳名会に出演して参りました。

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私が観世能楽堂にお邪魔するのは、観世能楽堂が渋谷から銀座に移ってから初めてのことです。

初めての能楽堂に行くというのもまた、何かと緊張するものです。

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先ず到着するまでが一苦労でした。

ちゃんとアクセス方法を調べてから行ったのですが、地下鉄日比谷線銀座駅から続く筈の地下通路が全く見つからず。。

結局一度地上に出て、三越からスタートしてようやく「GINZA SIX」という観世能楽堂があるビルに辿り着きました。

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地下3階にある能楽堂に到着すると、今度は楽屋の構造を把握するのにまた苦労しました。

宝生流の楽屋から切戸までの道順、囃子方の楽屋の場所、トイレの位置など、暫くの間マゴマゴしつつうろついてしまいました。

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そうこうするうちに、あっと言う間に私の出番、舞囃子「邯鄲」が始まる時間になりました。

切戸を潜って舞台に出ると…

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当然ながら先ずは横板が目の前にあり、そこから前を向くと三間四方の舞台が広がっていました。

「ああ、この空間はどこの能楽堂も変わらないな…」

と、言い知れぬ安心感を覚えました。

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変な話なのですが、楽屋で緊張して舞台に出るとホッとするという変な1日を過ごした気がします。

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しかし1日かけて観世能楽堂にもすっかり慣れました。

新しい観世能楽堂は、とても綺麗で素敵な雰囲気でした。

次回またお邪魔する機会があれば、今度はマゴマゴせずに落ち着いて過ごしたいと思います。

熱海での台風の思い出

台風一過の今日は、熱海のMOA能楽堂で”能楽サークル”という舞台がありました。

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実はMOA舞台では、忘れられない台風の思い出があります。

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もう15年近く前になると思いますが、演能中に台風の直撃を受けて、見所のお客様と一緒に能楽堂に閉じ込められてしまったことがあるのです。

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“MOA定期能”という催しで、能は「紅葉狩」。

シテは先代の家元でした。

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昼前にMOA能楽堂に到着した時は、まだ雨風ともにそれ程強くありませんでした。

しかし最初の狂言が終わって「紅葉狩」が始まる15時頃になると、様子が変わって来ました。

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外に面していないので、本来なら風雨の影響は全く無い筈のMOA能楽堂。

それなのにヒューヒューと吹きすさぶ風の音が聞こえ始め、やがて楽屋に水が吹き込んで来たのです。

何処からかと言うと、換気扇からでした。

換気扇は確かに外と繋がっている筈ですが、外までの距離はかなりあるのです。

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一箇所だけ窓のある小部屋から見ると、外の杉林が強風に煽られて激しく波打っているのが見えました。

しかし、既に演者もお客様も能楽堂内に入っており、寧ろ能楽堂が一番安全だと思われました。

なので、能「紅葉狩」はとにかく普通に演じられたのです。

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そして「紅葉狩」が終わってからニュースを見ると…

「台風は伊豆半島に向かっており、間もなく熱海付近に上陸する見通しです。」

なんと、熱海直撃ですか…。

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…という訳で、我々はお客様と共に、MOA能楽堂で台風直撃を迎えることになったのです。

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今スマホで調べてみたのですが、この台風は「平成16年台風22号」だったようです。

資料によれば、戦後最大級の920hPaというとんでもない勢力のまま伊豆半島付近に上陸。静岡県を中心に大きな被害を出した台風ということです。

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台風直撃前後には、窓のない部屋でじっと時間の過ぎるのを待ちました。

台風さえ過ぎてしまえば、なんとか帰れるだろうと思ったのです。しかしそう甘くはありませんでした。。

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熱海から東京に帰るには、JR、海沿いの道、山中を通る箱根ターンパイクの3つの経路があるのですが、これらが土砂崩れや高波などで全て通行不可能に。

つまり熱海は”陸の孤島”と化してしまったのです。

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雨風が弱まった20時過ぎ、我々演者とお客様はMOA美術館に併設されたホテルに移りました。

そして今度は交通の復旧をひたすらに待ち続けたのです。

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やがて日が変わる頃に、海沿いの道が通行可能になったという情報が入りました。

何台かあった車に強引に分乗して、能楽師達はまさに這々の体で熱海を脱出したのでした。

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今年もまだ台風シーズンは暫く続くことでしょう。

とにかく大きな被害が無く過ぎるように、安全を第一に行動したいと思います。

案山子に見守られて

今年の12月8日に、京大能楽部OBOGを中心にした大規模な稽古会を行います。

今日はその会に出るメンバーが集まっての稽古を、長野で敢行しました。

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長野駅前に集合して、送迎バスに乗り込みます。

私は「15分くらいで到着するのかな。」と思っていたのですが、宿に到着するまでに小一時間かかりました。

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先日の岡山よりも更に懐かしい感じの田園風景がどこまでも広がっています。

やけに案山子の多い土地で、上のようなスタンダードなタイプ。

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コウモリ型。

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猫型。

などなど、案山子の展示会のようでした。

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宿に併設の体育館を稽古場として使うことになっていました。

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こういった稽古に慣れている人ばかりが15人ほど集まっているので、準備はあっという間に進みます。

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椅子、バケツ、卓球台、平均台(?)などを使って、忽ちに舞台が設えられて、厳しい稽古を日暮れまで続けました。

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この12月の稽古会は、まだまだこれから番組も増えていきそうです。

会の名前も先ほど発表されて、「琥珀の会」と名付けられたようです。

琥珀のように、最初は柔らかな樹脂がやがて固まって熟成されて、美しい宝石のようになることを願っての命名です。

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第1回琥珀の会、また続報をお届けいたします。

本当に琥珀のように良い会に育っていくと良いと思います。

七葉会の話〜ゾーンに入る〜

話題がちょっと戻りますが、この前の日曜日の「七葉会」のお話です。

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仕舞や舞囃子、また能の地謡などを謡う時、私は謡と平行して色んなことを考えてしまう時があります。

これは「雑念」が入った状態と言うか、良くないことだと思うのですが、ついつい謡と関係ない余計なことが頭に浮かんでしまうのです。

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しかしまた逆に、そのような雑念が一切湧かずに、謡いながらその曲の世界にどんどん深く入り込んでいくような感覚を味わうことがあります。

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スポーツの世界では「ゾーンに入る」という極限の集中状態があるそうです。

その時にはボールが止まって見えたり、何人もの選手の動きが同時に把握できたりするようなのです。

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謡においてもおそらくその「ゾーンに入る」のに似た状態があるのだと思います。

そして今回の七葉会においては、舞囃子「歌占」の地謡でその状態になりました。

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シテの方の力量が非常に高かった事が第一の理由だと考えられます。

私のどんな謡にも付いて来てくださるので、緩急や強弱を自由自在につけて謡っておりました。

「地獄めぐり」を描く、恐ろしい内容の長大なクセを謡っているうちに、自分の意思が段々と希薄になって来ました。

緩急も強弱も節付けさえも殆ど考えずに、無意識のうちに口から謡が溢れるような不思議な状態になってしまったのです。

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ただ舞台への集中力は増していて、囃子方の掛け声がやけにはっきりと聴こえました。

謡っている自分の謡が怖いなあと思いました。

シテと囃子方と地謡が渾然一体となって、リアルに地獄めぐりをしているような錯覚を覚えました。

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最早自分の方が「歌占」にコントロールされていたようで、謡終えて切戸から入った時には、夢の中で大冒険をして来たような奇妙な疲労感と脱力感を覚えました。

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…このような状態の時には、はたして見所にはどのように私の謡が聴こえているのか、気になるところではあります。

気合いの入った良い謡と聴こえているのか、感情が強くこもり過ぎた過剰に荒っぽい謡と思われているのか…。

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今回七葉会で舞囃子「歌占」をご覧になった方に、感想を伺ってみたいものです。

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松本城薪能〜その2〜

松本城薪能前座の松本澤風会発表会はなんとか無事に終わり、次は私自身がシテを勤めさせていただく薪能の本番です。

しかし、時が経つにつれて空模様は次第次第に怪しくなって来ました。

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18時の開演直前にはついに空からポツポツと雨の筋が。

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薪能の途中で雨が降り出した場合、いくつかの選択肢があります。

①能の時間を短くして、例えば「半能」形式で演ずる。

②装束と面をつけずに、「袴能」形式にする。

③雨が強まった時点で演技を中止して、幕に引いてしまう。

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18時開始の初番の能「清経」は、協議の結果②の方式が選択されました。

この時点で、19時頃開始予定の能「鵺」がどのような形式になるかは全く未定で、私はとりあえず胴着には着替えて楽屋に控えておりました。

②になった場合に備えて、紋付袴もすぐに着られる状態にしてあります。

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「清経」が終わった時点で、雨は小康状態でした。

しかし携帯の雨雲レーダーを見た楽師から「19時15分頃には松本周辺は土砂降りという情報です!」との絶望的な報告が。

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「鵺」をどうするか、家元始め数人の先生方が協議に入りました。

私はどのようになっても受け入れようと、胴着で静かに座って協議の結果を待ちました。

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結果は、「鵺はとりあえず前半から予定通り始めて、雨が降った時点で即座に中止する」という③の方針でした。

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とにかく装束と面をつけて舞台に出ることが決定したのです。

即座に藪克徳くんにお願いして装束をつけてもらいました。

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慌ただしく鏡の間に移動して、面をかけます。

普段通り前シテの面「怪士」を手にとって一礼しましたが、今回は「どうか最後まで演じさせてください…!」という強い祈りも込めました。

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そしてついに始まった能「鵺」の舞台。

その前半の見せ場、源頼政が上空の鵺に向けて矢を放つ場面がやって来ました。

さあ行くぞ、と思った所で能面の狭い視界の前に雨の筋が何本も見えました。

ポタポタと舞台を打つ雨音も。

「今から良い所なのに、ここで中止なのか…!」

と思いながらも、後見が止めに来るまではと一所懸命に舞台を続けました。

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そして気がつくと、前半の山場を終えて中入になっていたのです。

雨は本当に危うい瀬戸際で踏みとどまってくれました。

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中入で装束を着替えている時に、「これは最後まで演じられる気がする…!」という不思議な確信が降りてきました。

後シテの能面「猿飛出」にやはり強く祈ってから、後半の舞台へ。

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後半の途中でも一度雨が少し降り出した気配がありましたが、やはり幸いにも強くはならず、ついに橋掛りで留拍子を迎えることができたのです。

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今思い返しても、あの状況で雨がほとんど降らなかったのは不可思議なことだと思います。

ともあれ、私にとって初めての薪能のシテ「鵺」は、こうしてなんとか松本城天守閣の前で無事に終わったのでした。

終演後の打ち上げの席で、東京から観に来てくださった会員さんが「いやあ、天守閣に怪しい黒雲がかかって、本当に鵺が出て来そうで抜群の雰囲気でしたよ!」

…成る程。

こちらは心底冷や冷やし通しだった1日でしたが、結果的には松本澤風会の舞台も雲で少し涼しくなり、その雲が能「鵺」の雰囲気まで演出してくれたようです。

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関係者の方々と共に、今回は本当に天に感謝したいと思います。

最後まで舞わせていただき、ありがとうございました。

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松本城薪能〜その1〜

昨日の松本城薪能と、その前座の松本澤風会発表会は、おかげさまで何とか無事に終了いたしました。

いらしていただいた沢山の方々、また暑い中を稽古に励んで発表会に臨まれた会員の皆様、そして松本城管理事務所の加藤様始め薪能の開催にご尽力いただいた全ての方に心より御礼を申し上げます。

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昨日の松本の天気予報は、正午頃に雨が降り出して夜までずっと降水確率60%、という絶望的なものでした。

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しかし朝起きてカーテンを開けると、外は快晴です。

「これから急に荒天になるのだろうか…」

と思いながら松本城天守閣横の薪能会場を下見に行きました。

11時過ぎの段階では上のように綺麗な夏空で日差しも強く、舞台の上に数分立っただけで汗が吹き出して来ました。

それでも天気予報によれば、あと1時間後には雨が降り出すはずなのです。

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次に私はお城近くの大手公民館に向かいました。

松本澤風会発表会のリハーサルと、雨天の場合に大会議室をどのように使って発表会をするかを考える必要があったのです。

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リハーサルは順調に終わり、大会議室でも60人ほどの客席は確保出来る目処が立ちました。

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刻々と発表会の開始時間15時半が近づいて来ます。

今にも雨が降って来るか、と内心ドキドキしながら過ごしていたのですが、15時前になっても外はまだ青空が見えています。

しかし携帯電話で天気予報をチェックすると、予報は変わっておらず既に松本には雨雲がかかっているという内容です。

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携帯の画面と、窓の外の青空を見比べて首を傾げながら、我々松本澤風会はいよいよ松本城薪能の会場に向かいました。

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「ここまで来たら、少なくとも発表会は外で開催出来そうだ。」と少し安堵していると、15時半ギリギリのタイミングで空が雲に覆われて、怪しい空模様になって来ました。

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観客席には、それでも100人ほどもお客様がいらしてくださっています。

「頼むから、発表会が終わるまでは降り出さないでくれ!」と強く祈りながら私は東川尚史君と2人でいよいよ発表会の地謡座に座りました。

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初舞台の鰻屋さん、小中学生の子供達、そして松本に家や仕事場を持ちながら松本澤風会で稽古してくださっている10数人の皆さんが、1人ずつ交代で舞台に上がって仕舞や独調を発表していきます。

緊張しているのがありありとわかる人、落ち着いている男の子、集中力が増して普段より切れのある仕舞を舞っている人…

皆さんそれぞれ、精一杯に稽古の成果を発表してくださいました。

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40分ほどの発表会の間、幸いなことに雨は降りませんでした。

「今回の発表会に出演されたのは、地元の小中学生とそのご家族、松本にお店を持つ人、松本の伝統工芸の職人さんなど、この松本に根を下ろして暮らしている方々です。

そのような人たちに能楽が根付いていくことが、つまり松本に能楽が根付いていくということだと考えております。

これからも頑張って稽古して参ります。」

と挨拶をさせていただき、先ずは松本澤風会発表会が無事に終わったのでした。

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その後の松本城薪能の模様は、また次のブログで書かせていただきます。