壇ノ浦の日

今日は3月24日。

3月18日は「屋島の合戦」があった日ですが、今日は「壇ノ浦の合戦」があった日だそうです。

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元暦二年(寿永四年)3月24日に、関門海峡の「壇ノ浦」に於いて義経を大将とする源氏水軍と、知盛率いる平家水軍が激突した「船いくさ」で、ついに平家は滅亡しました。

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この「壇ノ浦の合戦」を巡る様々な出来事や人物が、能楽に描かれています。

今ちょっと思い出しただけでも例えば、

①能「大原御幸」でシテ建礼門院が後白河法皇の前で壇ノ浦での平家滅亡を物語る。

②能「八島」のキリの部分で、シテ義経の霊が壇ノ浦での船いくさの有様を舞って見せる。

③壇ノ浦に沈んだ平知盛の亡霊は、能「船弁慶」で大物浦の沖に出現して、義経を自分と同様に海に沈めようと襲いかかる。

…などなどです。

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また、宝生流には無い曲なのですが、「碇潜(いかりかづき)」という能があります。

知盛の亡霊が壇ノ浦に現れ、合戦の有様を物語った後に碇をかづいて海中に没するという内容の曲です。

私が以前にこの曲を拝見した時には、古い本に基づいた演出だったらしく、これが非常に面白かったのです。

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後半にものすごく大きな船が舞台に出て来て、先ずそこで驚かされます。

そして、後シテ知盛と、ツレ二位尼、ツレ大納言の局、子方安徳帝が一瞬で全員舞台に登場するシーンはまるでマジックのようでした。

全部話すとネタばれになってしまうので、ここまでにしておきます。

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なにせ宝生流には無い曲なので、公演予定など全くわからないのですが、機会があればご覧になる事をおすすめいたします。

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そういえば、6月9日の京都満次郎の会で出る能「熊野」のワキ平宗盛は、壇ノ浦の合戦では捕虜になってしまうのでした。

他にも色々な能に絡んでいそうな「壇ノ浦の合戦」です。

新たに思い出したら、また来年の3月24日に書きたいと思います。

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「3月のカレンダー」の話

ホームページを開設して1年と少し。

その間にこのホームページを通じていくつかの貴重な出会いがありました。

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「岩手未来機構」の皆さんとの御縁もそのひとつです。

岩手未来機構の皆さんは、国内外から様々な芸術家を東北に招き、芸術活動を通じた復興支援をされています。

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これまで二度の会合を開いてお話を色々伺いましたが、中でも特に印象深いお話がありました。

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ホセマリア・シシリアさんというスペインの現代アート作家が、震災から1年後に岩手の小学校でワークショップをされた時のことです。

そこでシシリアさんは2011年3月のカレンダーを取り出して、子供達に「3月11日までにあった出来事を書き込んでごらんなさい」と言ったそうなのです。

周りの大人はハッとして心配になったのですが、子供達はカレンダーに書き込みを始めました。

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そしてその内容は、大人達の予想とは違うものでした。

誕生日にお母さんと料理を作ったこと、もうすぐ弟が生まれることなど、楽しかった思い出がたくさん書かれていたというのです。

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「あの時のことを全て忘れたり、記憶に蓋をして目を背ける必要は無い。楽しかった思い出や、大切にしていた事はちゃんと心に刻んで、一緒に未来へ歩いていけば良いんだよ。」

という尊い大切な考えを、遥かスペインから来た偉大な芸術家が子供達に教えてくれたというのです。

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シシリアさんはまた、「死者と生者」、「過去の人と現在の人」が同じ空間の中に同居して、会話を交わすという能楽の世界観にも深く共鳴してくださっているそうです。

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「私には能楽しか出来ない」と1年前のブログに書きました。

しかし岩手未来機構の皆さんと出会い、その素晴らしい活動のお話を伺う中で、私にも「能楽」を通じて復興の為に何かお手伝いが出来るかもしれないと、微かな方向性が見えて来た気がします。

さらに話し合いを重ねて、年内にはそれをひとつの形に具体化したいと考えております。

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最後になりましたが昨年同様、被災された皆さまに1日も早く平穏な日々が戻って来ますように、心よりお祈り申し上げます。

早春の味覚

昨日のブログは関西に向かう新幹線で書きました。

その新幹線に乗る前は、東京は前日からずっと続いた雨がまだ少し残っていましたが、気温は高めで暖かでした。

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しかし天気は西から回復傾向で、新幹線が名古屋を過ぎる頃には、久しぶりに見る青空が。

何となく良い気分で京都に到着して新幹線を降りると、そこで私はいささか驚きました。

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降りた途端に「ビュオーッ」と非常に冷たい風が吹き付けて来たのです。

私に続けて降りた会社員達がやはり風を受けて、「うわっ!京都寒っ!!」と背後で叫んでいます。

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思えばまだ3月上旬でした。

京大時代には4月に入っても炬燵が恋しかったのを思い出しました。

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私は春用の薄手のジャケットで来てしまったので、寒風が身に染みます。。出来るだけ外に出ないコースでいつもの安宿へ向かいました。

そして夜に芦屋稽古に行き、終わって再び京都へ。

晩御飯に、これも行きつけの京都駅近くにある安くて美味しい居酒屋さんに入りました。

寒いので何か暖かいものを…と思ってメニューを見たのですが、ここでは嬉しい驚きが。

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本日のお勧め欄に「たけのこ土佐煮」と「ホタルイカの茗荷和え」の文字が見えたのです。

なんと、メニューの中ではもうすっかり春になっていたのでした。

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迷わずその2品を注文。

たけのこ土佐煮。シンプルながら、しっかり味が染みており、絶品でした。

店員のお兄さんが、昔実家で行ったという筍採りの話をしてくれるのを聞きながらいただきました。

ホタルイカの茗荷和え。こちらは日本酒を、あえて冷やで頼んで春の気分を味わいました。

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しかし、食べ終えて外に出た途端にまたしても寒風が「ビュオーッ!」

春の気分が吹き飛ばないうちに、足早に宿に向かったのでした。

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食べ物ネタが続いてしまいましたが、今日はこの辺で失礼いたします。

ズボンさんごめんなさい

今日はまたゆるいお話です。

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このひと月程の間に、稽古に使っているチノパンが2本も駄目になってしまいました。

どちらも右膝部分に穴があいてしまったのです。

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以前から私のズボンは例外なく「右膝部分」だけが先に傷んできます。

自分ではそんなに右膝だけに負担をかけている意識は無く、左右均等に使っていると思っておりました。

確かに仕舞を始める時の「下ニ居」の型では宝生流は右膝を突きますが、それだけでズボンに穴があくとは思えません。

不思議なことだと思っていたのです。

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それは大原での京大宝生会夏合宿の時のことでした。

私は夏合宿では、暑いので短パンで仕舞の稽古をしています。

「田村キリ」の稽古で、右膝を突いて下ニ居しながら引分をして、シテ謡「あれを見よ不思議やな」と謡いながら、右膝を軸に少しだけ回転する型がありました。

「不思議やな」とズリッと回転したところ、「いででで!」右膝が物凄く痛いのです。

檜舞台では滑りが良いので大丈夫なのですが、合宿所は畳なのでした。

「畳の上で右膝を軸に回転する」というのがこれ程までに強い摩擦を生むとは、驚きでした。

他にも「清経キリ」の後半で太刀をしまってから、やはり右膝を軸にツレへと向きを変える所などは、角度が大きい分痛さも「いでででででで!」と田村キリの倍くらいになります。

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この痛みを普段は右膝の代わりに、私のズボンが引き受けていてくれた訳です。

しかも私の稽古場は大半が畳敷きなのです。

「これはさぞかし痛かっただろう」と、ズボンに申し訳ない気持ちになりました。

そしてここ最近は郁雲会澤風会の稽古が多く、更に右膝部分を酷使してしまったので、何本かが耐えられなくなって破れてしまったのでしょう。

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今日も西荻稽古で、「ズボンさんごめんなさい!」と思いながら畳敷きの和室で稽古しました。

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因みに左膝を突くことが多い「金剛流」や「金春流」ではズボンは左膝から破けるのか、今度若手の友達に聞いてみたいと思います

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北白川の寒さ

当ホームページの記録によると、今日のブログにてブログ投稿数が400回目になるようです。

日々お読みいただいている皆様の応援のおかげで、何とか400回まで続けることができました。誠にありがとうございます。

次は500回を目指して、頑張って投稿し続けて参りたいと思います。

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続くといえば、ずっと寒い日が続いております。

福井の皆様は記録的大雪で非常に大変なことと存じます。

福井には親しい方々も何人もおられるので、心配しております。

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寒さに関して忘れられないのは、やはり京大時代の下宿の寒さです。

私は入学から4回生まで、北白川の「第1双葉荘」というアパートに下宿しておりました。

「家賃27000円、エアコン無し、キッチン、トイレ、シャワー、洗濯機共同」という物件です。

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つまり洗濯、洗面、トイレ、風呂などは全て、部屋を出て一度完全に外気に晒されてから洗面所、トイレ、シャワー小屋などに行かないと不可能だったのです。

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入学して暫くは問題無かったのですが、最初の冬が来ると状況は一変しました。

下宿のすぐ裏手には、その昔白隠禅師が修行されたという「瓜生山」があり、山の冷気が直に吹き付けて来ます。

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寝る前と朝起きての洗面とトイレは、部屋を出る前に「おーし、行くぞ!」と気合を入れて、決死の覚悟で部屋を飛び出し、出来るだけ最短で済ませて部屋に飛んで帰ります。

それでも隙間風の吹き込む洗面所で歯磨きを始めると、すぐに歯の根が合わないような状態になってしまいます。

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もっと辛いのはシャワーでした。

先ほど「シャワー小屋」という変わった表現をしましたが、「第1双葉荘」の裏庭には、たたみ一畳を一回り大きくしたくらいの正しく「小屋」があり、そこがシャワー室だったのです。

小屋は吹きさらしで非常に冷えており、脱衣所で服を脱ぐのもやはり難行でした。

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100円で10分お湯が出るシステムだったのですが、最初の冬には寒くてつい長く湯を浴び続けてしまい、洗髪の途中で湯が止まるという悲劇も起こりました。。

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思えば、今三ノ輪の自宅マンションで暖房の効いた部屋を出て、ちょっと気温の低い洗面所に行くだけで「寒い!」と思ってしまう私は、随分と軟弱になってしまったものです。

このブログを書くことで、北白川の寒さを克明に思い出しました。

これからは自宅マンションの暖かさに感謝して過ごしたいと思います。

…400回目が全く能楽に関係ないお話になって恐縮なのですが、今日はこれにて失礼いたします。

たった1500m…?

昨日のブログで「中国では春節には30億人が大移動します」と書いたら、「13億人の間違いでは?」とのお問合せをいただきました。

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すみません説明が足りませんでした。

「延べ人数で30億人」が確かに大移動するそうです。

しかしやはりこれはある意味で不可解な数字です。

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仮に中国の全人口が電車で往復しても26億人の筈なのです。

1人で何度も移動する人もいるという事でしょうか…?

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因みに能楽で中国を舞台とした曲の中には、やはり荒唐無稽としか言いようの無い表現がよく出て来ます。

その最たるものは能「咸陽宮」だと思います。

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「そもそもこの咸陽宮と申すは、都の周り一万八千三百余里」と謡われていますが、キロに直すと約8万km。

これは地球2周分になってしまいます。

「内裏は地より三里高く」。つまり標高差12000m。言うまでもなく、地上最高峰エベレストは標高8848mです。

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それは幾ら何でも盛り過ぎだろうと思っていたら、実は中国の一里は500mなのですね。

なんだそれなら高さはたった1500mじゃないかと一瞬思ったのですが、考えたらスカイツリーの高さが634mでした。やはり咸陽宮、あり得ない高さです。。

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しかし春節の延べ30億人大移動が現実の事である以上、能楽における荒唐無稽な描写もあながち否定できないような気がして参りました。。

旧正月の神事

今日から2月になりました。

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日本の旧正月、中国で言うところの春節が近づいたということで、中国では帰省ラッシュが始まったそうです。

中国の帰省ラッシュは、鉄道で「30億人」が移動すると聞きました。

30億人の大移動。全く想像が追いつかない数字です。。

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「旧正月」の日付は毎年変わるようで、何回聞いても覚えられないのですが、アジアの多くの国々などではこちらの旧正月の方を盛大にお祝いするのですね。

1月1日は世界共通のお正月だと、子供の頃は疑いも無く思っていたのですが、正に「井の中の蛙大海を知らず」だった訳です。

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そして日本でも明治維新前までは旧暦で正月を祝っていたのです。

前にもちらっと書きましたが、能楽の中にも「旧正月」が重要な要素となる曲があります。

北九州門司にある、関門海峡に面した「和布刈神社」において、旧暦大晦日から旧正月の未明にかけて行われる秘密の神事を描いた「和布刈」という曲です。

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この曲は現在では新暦に合わせて12月に演じられることが多い曲です。

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しかし現在も続いている「和布刈の神事」は、実は毎年旧正月の未明に行われているのです。

今年の和布刈の神事は2月15日夜から2月16日未明にかけて行われるそうです。

なので、本当は2月の舞台で演じられても良い曲だと思います。

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因みに、読み方が難しい曲のひとつです。

和布刈。どうか調べてみてください。

どうしても解らない方は、お問合せフォームでお問合せくださいませ。

1㎞を30分かけて歩くこと

東京に33年振りの低温注意報が発令されたと携帯ニュースで読みました。

33年前というと私が中学生の頃で、実はその年の寒かった冬には思い出があるのです。

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確かその冬の東京には今年どころではない大雪が降って、積雪が40㎝くらいになったことがありました。

道路一面が厚い雪で覆われて、車はチェーン、自転車は走行不能です。

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私の中学校の校庭も勿論一面の銀世界になりました。

毎日昼休みには校庭で遊ぶのが楽しみだったのですが、その日の4時間目が終わると校内放送がありました。

「今日は東京地方では珍しい大雪で、校庭に40㎝ほど積もっています。」

声は、理科の菊地先生の声でした。私の所属する科学部の顧問の先生でもあります。

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私はそこまで放送を聞いて、当然「今日は昼休みに校庭に出るのは禁止します。」と続くと思いました。

ところが続けて菊地先生は、「このような機会は滅多にありません。皆さん是非校庭に出て遊びましょう!」と仰ったのです。

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一瞬教室が静まりました。皆私と同様に、言葉の意味を咀嚼するのに少し時間がかかったのです。

やがて皆一斉に「おお〜‼︎」と歓声を上げて、校庭に飛び出して雪合戦や雪だるま作りを始めました。

後にも先にも、都内であれ程の雪遊びをした経験はありません。

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菊地先生には、色々な大切なことを教えていただきました。

毎年夏に本栖湖畔であった合宿では、我々科学部は昆虫採集や山野草の標本作り、野鳥観察などをする為に毎日野原を歩きました。

その時に菊地先生は「1㎞30分のペースで歩こう」と指示されたのです。

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これは相当にゆっくりしたペースです。

しかし、辺りの自然を観察して何か目についたものを皆に知らせ、一緒に観察するには丁度良い速さだったのです。

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私が今でも道を歩く時に、つい辺りを見回して面白い物事を探してしまうのは、この頃に身についた習慣だと思われます。

1㎞を30分かけてのんびり歩くことは、めっきり少なくなりましたが…。

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今日は全く能楽に関係無いお話でした。

偶にはこんな日もあると御容赦くださいませ。

成人式の頃

今日は成人の日だったのですね。

しかし私は終日京都の稽古だったので、新成人らしい格好の人を見ること無く終わりました。

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私の成人式は遠い昔の話ですが、かすかに覚えております。

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練馬区民だった私は、「豊島園」という遊園地での成人式でした。

江古田駅から豊島園行きの西武池袋線に乗ると、如何にも新成人らしい若者たちが沢山乗っています。

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不意に「澤田くん!」と声をかけられて振り向くと、全然知らないキラキラした女性がいました。

こんなキラキラした知り合いがいたかな?と一瞬怪訝な顔をすると、女性は「開三中の○○です。覚えてる?」

なんと、振袖姿の中学校の同級生だったのです。

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同級生の女子はそれから豊島園でも何人か見かけましたが、ほぼ例外無く一目ではわからない程に綺麗に着飾っていました。

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一方で男子は、「おお!お前全っ然変わらんなあ。ちょっとは成長しろよ!」と声を掛け合う程に、代わり映えのしない奴らばかりでした。。無論私も含めて。

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成人式の頃は、私は大学一回生でした。

京大宝生会にもまだそこまでハマっておらず、将来は森や自然に関わる仕事がしたいと漠然と考えておりました。

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椎名誠さんや、カヌーイストの野田知佑さんの本を読んでは、1人で山を歩いたりキャンプをすることに最大の喜びを感じていました。

あれから色々な事があって、思えば遠くへ来たものです。

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今日成人式を迎えた皆さん、本当におめでとうございます。

人生を強引に京大宝生会四年間に例えてみると、新成人の皆さんはまだ一回生が終わった辺りですかね。

これまで稽古したのは基礎的な型や謡で、これからいよいよ自分のやりたい曲を、どんなに難しくても頑張って稽古していくのでしょう。

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…そう考えると、私は現在三回生の半ばくらいに相当します。

良い最上級生になれるかどうかは、今頃の稽古にかかっている訳ですね。

新成人の皆さんに負けないように、頑張らなくては。

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七草の日

今日1月7日は五節句のひとつ「人日の節句」にあたる日で、「七草粥」を食べる慣わしがあります。

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考えてみれば、私はもう長いこと「七草粥」を食べておりません。。

しかし京大宝生会現役の頃は、毎年1月7日に小川芳先生のお供をして亀岡の大本本部に「七草粥」をいただきに伺っておりました。

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お正月前後は普段にも増して不摂生をしていましたので、7日に食べる七草粥は如何にも胃に優しく感じられて、また数々の掛け軸や焼き物やお花などを拝見して、心身共に健康になっていく気分になったものです。

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能には「七草粥」は出て来ませんが、「七草」という言葉が出て来る曲はあります。

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少々意外な曲「求塚」です。

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曲の冒頭、早春の野原に可憐な菜摘乙女が4人登場して、華やかに「春の七草の若菜を摘みましょう」と謡うのです。

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そこから暫くの間は、乙女達が旅の僧と会話をしたり、菜摘み唄を歌ったりと、一見長閑なシーンが続きます。

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ところがこの曲は前半のロンギという部分を過ぎた途端に、3人の男女の哀しく凄惨な悲劇へとガラリと変貌してしまうのです。

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爽やかな七草摘みの光景を、その後の地獄の有様との対比として使ってしまうとは、随分思い切った演出だと思います。

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「求塚」は非常に難しく、大切に扱われる奥伝の曲ですので、私のような若輩者があまり長く話すのは憚られます。

しかしひとつ思い出した話があります。

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以前に読んだ、森田流笛方で京大宝生会OBでもある故帆足正規先生の文章に、ご自身が能楽に惹かれたきっかけについて書かれていました。

それは終戦直後の高校時代に、名人野口兼資師の能「求塚」を観たことだそうなのです。

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映画や舞台などを片端から観る毎日を過ごしていた帆足青年は、ある日殆ど予備知識も無く、初めての能「求塚」を観に行きます。

そして後シテが地獄へと真っ逆様に落ちていくシーンの野口師の型を見て「大地に引きずり込まれていくような力に圧倒され」、そこから正に能楽の世界へと惹き込まれてしまったということです。

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「求塚」は特別な舞台でしか出ない大曲ですが、もしチャンスがあれば是非一度ご覧くださいませ。

帆足先生のように、人生が変わる程の経験が出来るかもしれません。

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今日は「七草」に纏わることを、思い出すままにつらつらと書かせていただきました。