足疾鬼の哀しみ

昨日の泉涌寺でのお話の続きです。

.

あろうことか泉涌寺の偉い僧侶様の対面に座って、能「舎利」の解説をすることになった私。

私ごときの浅薄な知識でどうやってこのシチュエーションを乗り切れば良いのか、直前まで途方に暮れておりました。

.

.

しかし直前の楽屋でのこと。

家元より、「後半の展開は見ていればわかるので、むしろ前シテの事を話してほしい」と言われたのです。

それは少し意外な内容でした。

.

そして対談形式の解説の一番最後に、私はその家元のお言葉を皆様にお伝えいたしました。

.

.

私「前シテの最初の謡に”御釈迦様がまだこの世にいらした時は、間近でその説法を聞いて、この上ない安楽の気持ちを得たものだ…”という言葉があるのです。」

.

この「足疾鬼」という鬼はおそらく真の悪党ではなく、本心から御釈迦様を慕っていたのではないか。

しかしその強い信心の気持ちから、釈迦入滅の時に牙舎利を盗むという悪業を働いてしまったのであろう。

なので、韋駄天に追われる後シテが鬼の形相で現れるのは、「自分の最も大切なもの(仏舎利)を守り切れない自分への怒りの気持ち」の現れではないか。

.

…家元のお言葉はそういう内容でした。

するとそれをお聞きになった僧侶様が、

「成る程、実は足疾鬼というのは、”異教徒であるが御釈迦様を信奉する者”だとも言われているのですよ」

と仰られたのです。

.

.

緊張感MAXの対談解説の最中ながら、私は足疾鬼という”外道の鬼”と忌まれる者の気持ちの深みに触れたような感覚を覚えて、「舎利」という曲への見方が変わったように思いました。

.

異教徒という立場なので、御釈迦様の一番近くにはいられない。

しかしお慕いする気持ちは誰よりも強い…

.

.

その屈折をはらんだ信仰心は、悲しいことに遺骨を盗むという犯罪行為に向かってしまったのかもしれません。

.

単純な「勧善懲悪」の曲と思っていた能「舎利」が、現代社会の問題にも通じる深い内容を描いているのだと感じました。

.

.

私には荷が重い解説でしたが、家元と僧侶様のお言葉を伺うことが出来て大変勉強になりました。

そして一曲の能を深く観る必要性を知る貴重な経験となりました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です