聞く心
今日は予定の稽古がキャンセルになり、ポッカリと休みになりました。
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夕方に三ノ輪の自宅から外に出ると、京都よりはだいぶ過ごしやすい気温です。
「東京で蝉の声をまだ聴いていない気がする」と思って散歩に出たのですが、大通りから裏道に入ると、近所の寺や社の小さな森から湧き立つような蝉の声が賑やかに聴こえてきました。
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やはり最近少々忙しかったので、私の耳に入っていなかっただけのようです。
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「音を聴く」
という行為は、いくつかの能の曲において、非常に重要なシーンで使われます。
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例えば能「小督」のいわゆる「駒之段」ではシテ源仲国が、
「峰の嵐か松風か それかあらぬか 尋ぬる人の琴の音か…」
と小督の局の琴の音を探して耳を澄まします。
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また能「砧」では、
「砧の音 夜嵐 悲しみの声 虫の音。交じりて落つる露涙。ほろほろ。はらはらはら…」
と、周囲全ての音が渾然一体となり、独り残された妻の痛切な悲しみとして表現されています。
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他にも能「班女」においては、シテ花子が、
「秋風は吹けども 荻の葉のそよとの便りも聞かで。鹿の声 虫の音も 枯れ枯れの契り。あら よしなや…」
と恋人からの音信が絶えてしまったことを自然の音に喩えて嘆き悲しみます。
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上記のシーンでは、シテはいずれも「聞く心」という型をします。
ある切実な思いを持って「音」に耳を澄ませる様子を表現する型です。
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機械音や人工音に囲まれた現代ですが、東京都心であっても蝉の声や鳥の声、場所によっては蛙の鳴き声を聴くこともあります。
「聞く心」を出来るだけ忘れないでいたいものだと、今日近所で蝉時雨を聴きながらしみじみと思ったのでした。